第1話「鷲の羽根に一本」
紋章の拡大投影図に、指先を伸ばした。
卒業制作の発表会場は、ブレンハイム王立学園の大講堂。高い天井から吊るされた魔灯が白い光を落とし、壇上の投影台に広げた紋章図案を照らしている。
私の指は震えていなかった。少なくとも、そのときは。
「——王家の紋章、左翼第三羽根の輪郭線です」
百名を超える聴衆の前で、私は投影された鷲の羽根を指し示した。審査席に並ぶ教授たちの衣擦れが止まる。
「この線は、他の輪郭線と比較して角度が約二度外側にずれています。筆圧の揺れではありません。対称軸から見た左右の羽根の構造を重ねると、左翼にだけ一本、余分な線が加えられています」
会場から音が消えた。
最前列の審査教授が息を呑んだのが見えた。隣の教授が卓上の資料に目を落とし、もう一度壇上の投影図を見上げた。その動作が繰り返されるたびに、講堂の空気が冷えていく。
私にはわかる。前の人生で六年間、企業のロゴマークを作り続けた目には。
線の重なり順が違う。最初に描かれた構造線の上から、後から別の手が一本だけ線を足している。意図的な改竄。デザイナーの目には、それは叫び声のように明白だった。
「この余分な線は、魔力の流れに対して遮断方向に配置されています。紋章魔法の伝達効率に、意図的な阻害を生じさせる構造です。報告書の十二頁に詳細な構造分析を——」
椅子が鳴った。
審査席ではない。来賓席の最奥、他の席より一段高い場所から、一人の男が立ち上がっていた。
宰相ギュンター・ブレンハイム。
王弟にして、国王の執務不能により事実上の最高権力者。灰色の髪を後ろに撫でつけた長身の男は、壇上の私を見下ろしていた。声は低く、静かだった。だからこそ講堂の隅まで届いた。
「フォーゲル伯爵の娘。今の発言は、王家の紋章に欠陥があると主張するものか」
伯爵の娘。名前では呼ばない。その呼び方に、指先が冷たくなった。
「いいえ、宰相閣下。欠陥ではなく、後世の改変の痕跡があると申し上げております。分析データは——」
「王家の紋章は二百年前の制定以来、一切の改変を受けていない。これは王室文書庫の記録で証明されている」
宰相の声には怒りの色がなかった。印章指輪を嵌めた右手が、静かに垂らされている。それが逆に、喉の奥を締め上げた。
「紋章学の卒業制作と称して王家の紋章を侮辱する行為は、不敬罪に該当する」
侮辱。その一語で、講堂の空気が傾いた。
審査教授たちが目を伏せた。一人も、口を開かない。——宰相の推薦で着任した人たちだ。彼らが反論することはない。
来賓席の中ほどで、マルガレーテ・シュトゥルムが立ち上がった。男爵家の令嬢。紋章学を専攻する同期。声が講堂に響く。
「わたくしは以前から、フォーゲル嬢の研究姿勢に疑問を抱いておりました。王家の紋章を分析対象に選ぶこと自体が、不遜の極みです」
髪に触れながら、こちらを見ない。視線は宰相の方を向いていた。
来賓席の別の位置に、もう一人。
ルートヴィヒ第二王子。
私の婚約者——だった人。手袋をした指先が膝の上でかすかに動いている。目線は泳ぎ、私と目が合いそうになった瞬間、横を向いた。
口は、開かなかった。
壇上に立ったまま、私は二人の間の沈黙を聞いた。王族の沈黙は不関与を意味する。けれどこの場では、宰相の決定を追認したことと同じだった。
宰相が着席した。その動作だけで、判決は終わっていた。
「フォーゲル伯爵の娘に対し、学位剥奪および国外追放を申し渡す。婚約については、国王陛下の執務不能に鑑み、本職が代行裁可により破棄する」
裁判官が読み上げた文言は、もう一つの椅子が鳴る音とほぼ同時だった。形式的な裁判。席に座る前から、結果は決まっていた。
大講堂を出ると、王宮の回廊は夕暮れの光に染まっていた。
衛兵二人が、両脇を歩いている。追放者の護送。足音が石の床に規則正しく反響する。
回廊の壁に、紋章旗が等間隔で掛けられていた。王家の鷲。金糸で刺繍された翼が、窓から差す光を受けて鈍く光っている。
——色が、褪せている。
足が止まりかけた。衛兵が肩越しにこちらを見る。私は歩調を戻した。
紋章旗の金糸は本来、魔力の流れに沿って一定の光沢を維持する。それが均一でなくなっている。左翼の根元付近から、光の滲みが広がり始めている。
伝えなければ。
口を開きかけて、唇を引き結んだ。衛兵の革鎧が衣擦れの音を立てる。
誰に。誰に伝える。私はもう、この国の紋章に触れることを許されない人間だ。
前世でもそうだった。クライアントのロゴに印刷事故を見つけて報告すれば、「余計なことを」と言われた。色の誤差を指摘すれば、「細かいことを」と切り捨てられた。正しいことを口にするたびに、仕事が一つずつ消えていった。
この世界でも同じだった。
でも——私の目は、嘘をついていない。
あの鷲の羽根には、確かに一本、後から足された線があった。魔力の流れを遮る方向に。誰かが、意図を持って。
紋章旗の光沢が褪せているのも、私の目は見た。今この瞬間に見た。それを伝える相手がいなくても、見たという事実は消えない。
回廊が終わり、城門が近づいた。
石造りの門の向こうに、夕焼けが広がっていた。馬車は用意されていない。追放者に王国の馬車を出す義理はない。門番が鉄の扉を押し開ける、金属の軋みが耳の奥に残った。
振り返らなかった。
夕暮れの風が頬に当たった。冷たくはなかった。春先の風だ。外套の裾が揺れる。
足元は、震えていた。正直に言えば。膝が笑っている。城門を出たら何もない。学位もない。婚約者もいない。この国に戻ることも、もうできない。
懐には、母が追放の直前にそっと握らせた小さな革袋がある。中身を確かめる余裕はなかった。追放の告知から門を出るまで、一刻もなかったから。
石畳の道を、一歩踏み出した。
私は、自分の目を信じた。それだけだ。たった一本の線を見つけて、見つけたと言った。それが罰に値するなら、私はその罰を受けた。
でも。
あの線は、ある。
指先で宙に線を引く。前世からの癖。ストレスが限界に近いとき、無意識に手が動く。空気の上に、鷲の羽根の輪郭をなぞった。
二度ずれた角度。後から加えられた筆圧。あの線の目的を、私はまだ知らない。
知らなくてもいい。私の目が見たものは、私が否定しない。
足の震えは止まらないまま、私は王都を背にして歩き始めた。行き先は、まだ決めていなかった。




