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スピンオフ第4話:『通訳は君かよ。お嬢様、五カ国語でマルチタスク』

 その日、生活産業部のオフィスは、二十四時間戦う戦士たちの断末魔に包まれていた。


「……万策尽きたな」


 同期のデスクから、短いため息が漏れる。

 モニターに表示されているのは、中東の巨大政府系ファンドから届いた一通のメールだ。内容はアラビア語の古語を交えた契約条件。翻訳ソフトはバグったような文字列を吐き出し、社内の通訳チームは別の火消しで全滅。

 回答期限まで、あと一時間。


「あの......私でよろしければ、少しだけ拝見してもよろしいでしょうか?」


 この地獄絵図の中に、一人だけ「お花畑」から迷い込んできたような女がいた。

 花菱結だ。


 彼女の手には、昨日スーパーで「現代の工芸品ですわ!」と感激して買った、馬のシール付きマイカップ。中身は当然、給湯室で点てた抹茶だ。


「……花菱。悪いが、これは遊びじゃないんだ。英語やフランス語ならともかく、これは......」


「失礼いたします」


 結は、俺の絶望を「そよ風」程度に受け流すと、モニターを覗き込んだ。

 次の瞬間、彼女の瞳が――ビジネスマンのそれではない、「勝負師の光」を宿した。


「まんばりき(万馬力)です、私」


 彼女はそう呟くと、俺を椅子から「物理的な気品」でどかし、キーボードの前に鎮座した。

 そこからの光景は、もはや「事務作業」ではなかった。


 ――タタタタタタタタタタッ!!


「......なっ、何をしているんだ!? タイピングが早すぎて残像が見えるぞ!」


 異世界アニメの剣聖が放つ『神速の連撃』が如きタイピング。

 驚くべきは、彼女が画面を切り替えながら、複数のウィンドウに同時に文字を打ち込んでいることだ。


「花菱、お前……何やってるんだ?」


「あ、藤本さん。返信の下書きを書いております。アラビア語だけでは誠意が足りませんので、念のため彼らの第二公用語であるフランス語、それから国際基準の英語、ついでに先方のCEOが愛しているというドイツの古典詩を引用したドイツ語訳も添えておきますわね」


「……五カ国語!? お前、一人で国連やる気か!?」


 彼女の指は止まらない。

 俺たちが一時間かけて一文字も読めなかった暗号を、彼女は鼻歌混じりに「翻訳」どころか「超訳」し、さらに四カ国語で肉付けしている。


 これが、お嬢様の英才教育。

 庶民が英会話教室で「ハロー」と言っている間に、彼女は歴史と哲学を言語という武器で学んでいたのだ。


「お待たせいたしました。送信(エンター)、ですわ!」


 運命のクリック。

 数分後。静まり返っていたフロアに、一通の返信通知が届いた。


『――驚いた。日本に、これほど気高く美しいアラビア語を書く者がいるとは。君たちの提案、すべて受け入れよう。また、このメールを書いた者に、我が国の最高級の馬を贈りたい』


「……勝った。……勝っちまったぞ」


 俺は呆然と呟いた。部長が椅子から転げ落ち、フロア中が歓喜の渦に包まれる。

 だが、その中心で結は、商談の成功よりも、一人だけ馬の話題に食いついていた。

「藤本さん……大変ですわ」


 フロア内が落ち着きを取り戻した頃、結が深刻そうな表情で俺のところに来た。


「……何がだよ。危機はもう脱しただろ、お前」


「メールは打てますが、この『デスクトップのアイコン』というものが、多すぎて……馬の放牧地のようで、どれがどれだか分かりませんわ。整理してくださいまし」


「……お前なぁ。数千億円の商談はできるのに、アイコン整理はできないのかよ」


 圧倒的なスペックと、壊滅的な世間知らず。

 俺は、彼女に貸したキーボードが少し熱を持っているのを感じながら、悟った。

 こいつの教育係をやるということは、神話の神々に「現代のスマホの使い方」を教えるような、途方もない苦行(と快楽)なのだと。


「……とりあえず、よくやった。まんばりき(万馬力)だな、花菱」


「はいっ! 藤本さんに褒めていただけるのが、一番の報酬にございます!」


 満面の笑みで拳を突き出すお嬢様。

 その笑顔の価値を計算しようとしたが、俺の脳内の電卓は、一兆円を越えたあたりで煙を吹いて止まった。

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