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スピンオフ第3話:『俺のシャツを掴むな。お嬢様、牛丼屋で聖水を注文する』

 午前中の業務だけで、俺の精神的スタミナは「赤ゲージ」だった。

 メールの一斉送信を「一斉放牧」と呼び、未読スルーを「黙殺の刑」と称する新人。彼女の教育は、もはやビジネスではなく、異文化コミュニケーションの極地にある。


「……腹減ったな。花菱、昼飯に行くぞ」


「はい、藤本さん。楽しみにしておりましたわ! 庶民の方々が活力を養うという、例の『ギルド』へ連れて行ってくださるのですね?」


「ギルドじゃねえよ。牛丼屋だ」


 俺が連れて行ったのは、オフィス街の良心、オレンジ色の看板が眩しい牛丼屋だ。

 だが、自動ドアが開いた瞬間、花菱結は凍りついた。


「……っ!? 藤本さん、これは……」


「どうした。混んでるが、すぐ座れるぞ」


「いいえ……。この、空気中に漂う圧倒的な『闘気』。そして、カウンターに並び、黙々と白米を掻き込む男たちの、あの背中……! まるで、決戦前夜の騎士団の野営地ではございませんか!」


 ただの昼休みのサラリーマンだ。みんな、午後の会議がダルいだけなんだよ。

 結は俺のシャツの袖をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で周囲を警戒している。彼女がそんな風に俺にすがるもんだから、カウンターの男たちが一斉にこちらを振り返る。


 やめろ。その「守ってあげたい」オーラを無自覚に撒き散らすな。俺が「悪い男」に見えるだろ。

 カウンターに座らせると、彼女はお品書きを聖典のように両手で捧げ持った。


「......あたま、の、......大盛り?ふ、藤本さん。これは、牛の脳の部分を贅沢に使用しているというとでしょうか?」


「違う。肉の量だけを増やすって意味だ」


「では、この……『つゆだく』とは? これは、伝説の聖水を使った特別な儀式を必要とする加護か何かで......?」


「ただの煮汁を多めに入れるだけだ。ほら、店員さんが来ちゃうぞ」


「……承知いたしました。では……まんばりき(万馬力)です、私」


 店員の「ご注文は?」の問いかけに対し、彼女は深く息を吐くと、店員さんに向かって、まるでオペラ歌手のような透明感のある美声を発した。


「――『牛丼・並』。そして、秘儀『つゆだく』をお願いいたしますわ!」


 店内の空気が止まった。

 異世界アニメの主人公が、隠しスキルを解放した時のエフェクトが見えた気がした。店員さんも「……あ、ハイ、つゆだく入ります!」と、なぜか背筋を伸ばして返礼している。


 数分後。目の前に置かれた一杯の丼。

 結は、割り箸を「聖剣を引き抜く騎士」のような厳かさでパチンと割った。


「いただきます。……まんばりき(万馬力)です、私」


 一口。たった一口食べただけで、彼女は衝撃を受けたように目を見開いた。


「……素晴らしい。この、甘美な煮汁が米の隙間に浸透し、一体となる感覚……。これこそが、民を繋ぐ『琥珀の聖水』にございますね。藤本さん、私、このお味……一生忘れませんわ!」


 彼女が食べる姿は、もはや「牛丼」という概念を超越していた。

 背筋を伸ばし、一口ごとに感謝を捧げながら噛みしめるその仕草。ただの牛丼屋のカウンターが、彼女の周りだけ宮中晩餐会会場に書き換えられていく。


「……おい、花菱。そんなに感動しなくていいから、早く食え。後ろが並んでるだろ」


「はっ、失礼いたしました!あまりの美味しさに、つい牛との対話を深めてしまいました」


 ふと周りを見ると、さっきまで無愛想に飯を食っていたサラリーマンたちが、なぜかみんな姿勢を正し、丁寧に牛丼を味わい始めていた。

 彼女の放つ「ロイヤル・バフ」のせいで、店全体に『礼節』という名の精神汚染が広がっている。


「……花菱。お前、本当に無自覚に世界を浄化するのやめろ」


「えっ? 私、ただ『つゆだく』の恩恵を享受しているだけで……」


 結は最後の一粒まで完璧に平らげると、空になった丼を愛おしそうに見つめた。

 会計時、当然のように一万円札を出そうとした彼女を制し、俺は小銭で二人分を払った。


「……藤本さん。先ほどの、あの『六百円』という数字。あれは、何かの間違いではありませんか? これほどの感動を与えておきながら、お札一枚にも満たないなど……。牛丼屋様は、慈善事業か何かなのですか?」


「……日本一のチェーン店なんだよ。いいから行くぞ、午後も仕事だ」


 俺の後ろを、レジ袋(サラダセットの持ち帰り)を宝物のように抱えて歩くお嬢様。


 彼女の「まんばりき(万馬力)」な毎日は、俺の胃と、そして少しずつ「俺の常識」を、確実に壊し始めていた。


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