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第3話:『呪文はツユダク? お嬢様、牛丼屋で聖杯(丼)を掲げる』

「……ここが、選ばれし戦士たちの集う糧食庫りょうしょくこ


 お昼時。オフィス街の一角に立つオレンジ色の看板の前で、花菱結はなびし ゆいは神聖な儀式に臨むかのような面持ちで立ち尽くしていた。


「ただの牛丼屋だ。そんなに気負うな」


 教育係の藤本拓海は、手慣れた様子で自動ドアをくぐる。


「......っ!?藤本さん、これは......」


「どうした。混んでるが、すぐ座れるぞ」


「いいえ......。この、空気中に漂う圧倒的な『闘気』。そして、カウンターに並び、黙々と白米を掻き込む男たちの、あの背中......!まるで、決戦前夜の騎士団の野営地ではございませんか!」


 結にとって、ここは「禁足地」に等しかった。

 花菱の本邸では、食事とは三時間かけて供される「静止画」のようなもの。だが、ここは違う。カウンターに座る男たちが、一心不乱に丼を掻き込むその姿は、結の目には「戦場へ赴く騎士の出陣式」に映っていた。


 結は無意識に藤本のシャツの袖をぎゅっと掴み、恐々と周囲を見渡していた。

 カウンターに座った結と藤本。


(作法を……作法を確認しなくては!)


 結は、お品書きを手に取った。

 だが、そこに並ぶ単語が彼女の理性を狂わせる。


「……あたま、の、……大盛り? ふ、藤本さん。これは、牛の脳の部分を贅沢に使用しているということでしょうか?」


「違う。肉の量だけを増やすって意味だ」


「では、この……『つゆだく』とは? これは、伝説の聖水を使った特別な儀式を必要とする加護か何かで……?」


「ただの煮汁を多めに入れるだけだ。ほら、店員さんが来ちゃうぞ」


「......承知いたしました。では......まんばりき(万馬力)です、私」


 店員の「ご注文は?」という問いかけに、結はピンと背筋を伸ばし、講堂での演説のごとき美声で答えた。


「――『牛丼・並』。そして、秘儀『つゆだく』をお願いいたしますわ!」


 その凛とした声は店内に響き渡り、隣で食べていたサラリーマンたちが思わず箸を止めて結を二度見した。

 数分後。目の前に置かれたのは、湯気を上げる一杯の丼。

 結は、配布された割り箸を「聖剣を引き抜く騎士」のような厳かさでパチンと割った。


「いただきます。……まんばりき(万馬力)です、私」


 一口、肉を口に運ぶ。

 その瞬間。結の脳内に、広大な草原を駆け抜ける一頭の駿馬のビジョンが浮かび上がった。


(な、なんという……情報の奔流ストリーム!)


 濃縮された醤油のキレ。玉ねぎの甘み。そして、米の一粒一粒まで染み渡った「つゆだく」の慈愛。


「……素晴らしい。この、甘美な煮汁が米の隙間に浸透し、一体となる感覚......。これこそが、民を繋ぐ『琥珀の聖水』にございますね。藤本さん、私、このお味......一生忘れませんわ!」


 結は感動のあまり、頬を赤らめて呟いた。

 彼女が食べる姿は、牛丼屋というロケーションを完全に無視していた。背筋を伸ばし、脇を締め、一口ごとに感謝を込めて咀嚼するその所作は、まるで「宮中晩餐会」のそれである。


 その時。

 店内にいたガテン系の男たちが、ふと自分たちの食べ方を見直した。


「……なんか、俺たちもちゃんと味わって食べなきゃいけない気がしてきたな」

「ああ……礼節を欠いていた。牛に失礼だ」


 結が放つ「ロイヤル覇気」に当てられた客たちが、次々と姿勢を正し、静粛に食事を始めるという異常事態が発生した。吉野家が、一瞬にして高級料亭のような静謐せいひつさに包まれていく。


「……おい、花菱。そんなに感動しなくていいから、早く食え。後ろが並んでいるだろ」


「はっ、失礼いたしました! あまりの美味しさに、つい牛との対話を深めてしまいました」


 結は最後の一粒まで完璧に平らげると、空になった丼を愛おしそうに見つめた。


「藤本さん。私、決めました。この素晴らしい『牛丼』を、いつか世界中の騎士たちに届けるビジネスを立案いたします!」


「……ああ、そうか。まんばりき(万馬力)だな」


 藤本は呆れながらも、彼女の純粋すぎる熱意に、自分の胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じていた。


 だが、この時、結はまだ気づいていなかった。

 彼女の食べた牛丼の代金(六百円弱)を払うための「小銭」という概念を持っていないことに。


「……あの、藤本さん。この『一万円』という紙は、こちらで使えますでしょうか?」


「……お前、牛丼屋で万札出すなよ。……俺が払っといてやるよ」


 花菱結、庶民の経済学。その単位取得への道は、まだ遠い。

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