最終話:『普通の、特別な一日。お嬢様、未来へまんばりき(万馬力)!』
嵐のようなコンペから一週間。帝都物産のオフィスは、かつてないほどの活気と、そして少しの「寂しさ」に包まれていた。
「――お世話になりました。皆様のことは、一生忘れませんわ」
花菱結は、デスクの私物を小さな箱にまとめていた。
一兆円プロジェクトを成功させた功績により、彼女には「花菱グループ」の次期CEOという椅子が用意された。それは、誰もが羨む『覇王』への道。
結がロビーへ向かうと、そこには藤本拓海が立っていた。
「……本当に行くんだな、お嬢様」
「はい。……これが、私の『繋ぎ』の完成形ですから」
結は、藤本の瞳を真っ直ぐに見つめた。
二人は無言のまま、オフィスビルを出た。向かったのは、高級リムジンでも、祝賀会場でもない。
「――いらっしゃいませ!」
活気ある声が響く、いつものオレンジ色の看板。牛丼屋だった。
「……最後もここかよ」
「ここが、私の『始まり』の場所ですから。……並盛、つゆだくで」
結は、慣れた手つきでカウンターに座った。
初めて来た時のあの緊張感はない。今の彼女は、一杯の牛丼の中に詰まった「人々の営み」と「歴史」を、誰よりも深く理解している。
「いただきます。……まんばりき(万馬力)です、私」
一口、肉を噛みしめる。
あの日と同じ、安らぐ味。だが、隣に座る藤本との距離は、あの日よりもずっと近い。
「拓海さん。私……CEOのお話、お断りしてきましたの」
「……は!? お前、あの地位を捨てたのか?」
「はい。私にはまだ、学ぶべき『普通』が山ほどございますから。……それに、私は『花菱の令嬢』としてではなく、あなたの『相棒』として、泥にまみれて世界を歩きたいのです」
結は、空になった丼を置き、バッグから一通の封筒を取り出した。
「これ、……新しいプロジェクトの企画書です。……拓海さん、私の『隣』、まだ空いていますか?」
それは新しい企画書ではない。真っ白な便箋に、彼女のあの独特で美しい筆致でこう記されていた。
『藤本拓海様 雇用契約(無期限)のお願い』
「拓海さん。……私を、これからも一生指導していただけますか? ……そして、この『普通』という名の幸せの守り方を」
俺は、彼女の差し出した「契約書」を受け取らず、代わりにカウンターの下で、彼女の細い手を力いっぱい握りしめた。
「……バカ。……その契約、給料は高いぞ。俺の人生、全部お前に注ぎ込むことになるんだからな」
「……承知いたしました。……一生をかけて、お支払いいたしますわ」
結の瞳から、琥珀色の涙が溢れ、俺の手に落ちた。
周囲の客が「なんだなんだ、プロポーズか?」とざわつき、店員さんが「お幸せに!」と声を上げる。
俺は照れ隠しに、残った牛丼を一気にかき込んだ。
一年後。
北関東、源蔵工房の丘の上。
そこには、最新のデバイスを使いこなしながら、泥だらけになって馬と戯れる一組の男女がいた。
「結! ドイツからのヴィーガンレザーの受注データ、AI予測を三割上回ったぞ!」
「重畳でございますわ、拓海さん! ……あ、でも、今は『まんばりき(万馬力)』と言うべきでしたわね」
結は、純白の乗馬服に身を包み、愛馬『黒王』の背に飛び乗った。
彼女の指には、琥珀のチャームをリメイクした、ささやかなリングが輝いている。
「行きましょう、拓海さん! 私たちの『普通』で、世界中を幸せにするために!」
「ああ。……跳べ、結!」
青空の下、一頭の馬と二人の絆が、風を切って駆け出した。
お嬢様の奮闘記は、ここから伝説へと変わる。
空に響くのは、高らかな蹄の音と、未来を繋ぐ合言葉。
「―― まんばりき(万馬力)ーーーっ!」
(完)




