第9話:『勝負服は乗馬服? お嬢様、泥まみれのバリューアップ!』
「――帰れ。商社員の理屈など、この山には通用せん」
生活産業部の価値を証明するための最終カード。俺たちが辿り着いたのは、北関東の深い山にある「源蔵工房」だった。だが、待っていたのは歓迎の言葉ではなく、伝説の職人・源蔵の冷たい一喝だった。
標高八〇〇メートル。北関東の山奥にある「源蔵工房」。
伝説の職人、源蔵が作った工房だ。最近は環境に優しいヴィーガンレザーを使い、世界中が注目している工房でもある。その源蔵は、藤本と結を前に背を向けた。
足元には深い泥。周囲には、荒ぶる馬たちのいななきが響いている。
「源蔵さん、俺たちの話を聞いてください!あなたの職人技とヴィーガンレザー、そして我々が組めば、『サステナブル』と『高級』をミックスした商品で世界を狙えるんです!」
藤本が必死に食い下がるが、源蔵は冷たく言い放つ。
「自然や環境をよく理解もしない奴に、ヴィーガンレザーの神髄など分かるもんか。数字と契約書しか見ん奴の話など聞かん。……そうだな......見ろ、あそこにいるのは俺が所有している馬の中でも、超がつくほど、とんでもない暴れ馬だ。もしあれを懐かせることができたのなら、契約書に印を押してやるよ」
源蔵が指差したのは、漆黒の巨大な馬――通称『黒王』。
あまりの気性の荒さに、地元でも「あれは魔物だ」と恐れられている馬だった。黒王は狂ったように柵を蹴り、瞳に暗い炎を宿している。
「……仕方ない。結、ここは一度引こう」
藤本が結を守るように腕を引く。だが、結の瞳は、既に別の色に変わっていた。
「……いいえ、拓海さん。あの馬は、怒っているわけではありませんわ。ただ、寂しいのです」
結は、おもむろに紺色のスーツを脱ぎ捨てた。
下に着ていたのは、白のブラウスと、花菱家から密かに持参していた純白の乗馬用キュロット。
「おい、結!? 何をするつもりだ!」
「まんばりき(万馬力)、ですわ」
結は藤本の制止を振り切り、泥濘の中を迷いなく進んだ。
高級な靴が泥に汚れ、純白のズボンが茶色く染まる。だが、彼女の背筋は、社交界のダンスホールにいる時よりも美しく伸びていた。
「――止まれ、娘! 死ぬ気か!」
源蔵が叫ぶ。だが、結は歩みを止めない。
(……聞こえますわ。あなたの、魂の呼吸が)
結は黒王の正面に立った。
黒王が巨大な前足を上げ、結を踏み潰そうと振り下ろす――。
「――っ! 結!」
藤本が目を見開く。
だが、その瞬間。
結は、ほんのわずかに首を傾げ、黒王の鼻先に優しく掌を添えた。
不思議なことが起きた。
狂乱していたはずの黒王が、ピタリと動きを止め、まるで魔法をかけられたように大人しくなったのだ。
「……落ち着いて。私は、あなたを『繋ぐ』ために来ましたのよ」
結がアラビア語で優しく囁くと、黒王は小さくいななき、彼女の肩に顔を寄せた。
異世界アニメのテイマー(魔物使い)が、伝説の魔獣を従わせた瞬間のような、圧倒的な静寂。
「……信じられん。あの黒王が、初対面の相手に鼻を預けるとはな……」
源蔵の持っていた柄杓が、泥の中に落ちた。
結は泥だらけのまま、源蔵を真っ直ぐに見据えた。
「源蔵様。私は商社員ですが、源蔵様と同じように馬を愛する一人の人間でもあります。我々は、あなたの職人技とヴィーガンレザーを、ただの贅沢品にはいたしません。この『縁』を大切にし、あなたの魂を世の中に伝え、百年先まで語り継ぐ『宝』へと昇華させてみせます......信じていただけませんか?」
源蔵の瞳から、険しさが消えた。
「……お嬢ちゃん。……いや、花菱結。あんたの勝ちだ。俺の魂、あんたに預けるよ」
契約成立。
藤本は呆然としながらも、泥まみれで微笑む結の姿に、言葉を失っていた。
「結……お前、本当に……」
「拓海さん。私、泥だらけになってしまいましたわ。……でも、最高の『縁』を繋げましたわ!」
「……ああ。結、最高にかっこいいよ」
結の笑顔は、どんな宝石よりも眩しく輝いていた。
「さあ、帰るぞ、結。……最高に美味い『牛丼』が待っているからな!」
「はいっ! 特盛、つゆだくでお願いしますわ!」
夕焼けに染まる牧場。
藤本は、汚れた彼女の背中を、誰にも見せたくないほど誇らしく、そして愛おしく思っていた。
だが、この成功が、父・龍一の放った「最後の刺客」を呼び寄せることになるとは、まだ誰も予想していなかった。




