スピンオフ第7話:『執事は黒塗り。俺とお嬢様の「逃走中(ランナウェイ)」』
その日、俺たちの日常は「黒」に塗りつぶされた。
昼休み明けのオフィスビル一階。自動ドアの向こうに、場違いな威圧感を放つ三台の黒塗り高級車が横付けされていた。
通行人が足を止め、ロビーの警備員が緊張に顔を強張らせる。
「――お久しぶりです。お嬢様」
人混みを割って現れたのは、銀髪を完璧なオールバックに整え、真夏だというのに一分の隙もない燕尾服を纏った老人だった。
花菱家の筆頭執事、九条。
その姿を見た瞬間、俺の隣で「100円ショップの馬柄クリアファイル」を抱えていた花菱結が、目に見えて震え始めた。
「九条……。どうして、ここへ」
「お嬢様。遊びは終わりです。旦那様がお呼びです。……『ゴミ溜めでの泥遊びに飽きたなら、温かい寝床を用意してある』と」
九条の冷徹な声が、大理石の床に響き渡る。
彼は結の隣に立つ俺を、まるで道端に落ちている不燃ゴミでも見るような冷ややかな一瞥で切り捨てた。
「……そこの『雑作ない』方。お嬢様の手を離していただけますかな? あなたのような汚れが触れていい御方ではないのです」
『汚れ』
その言葉が、俺の胸に冷たく突き刺さる。
そうだ。俺は年収数百万の中堅社員。彼女は日本を動かす花菱の至宝。
俺が昨日、立ち飲み屋で彼女に「耳を撫でさせた」こと自体が、この国では国家反逆罪に等しいのかもしれない。
結が、諦めたように九条の方へ一歩踏み出そうとした。
だが、その時。
ガシッ。
俺の右手が、勝手に動いていた。
結の、白くて細い手首を、強く、だが壊さないように掴んでいた。
「――悪いな、じいさん。こいつは今、帝都物産の『花菱結』だ。……花菱家の所有物じゃねえんだよ」
「……藤本、さん……?」
九条の瞳に、鋭い殺気が宿る。
「……無礼な。……排除しなさい」
九条の合図とともに、車の陰からガタイのいい黒服の男たちが四人、一斉に動き出した。
異世界アニメならここで俺に『剣聖』のスキルでもあればいいが、あいにく俺にあるのは『接待ゴルフ』の知識と『胃薬の常備』くらいだ。
正面から戦って勝てるわけがない。
なら、やることは一つだ。
「――まんばりき(万馬力)だろ、花菱!」
「えっ……!?」
「走るぞ、結!」
俺は無意識に花菱のことを「結」と呼んでいた。
俺は結の手を強く引くと、大理石のロビーを蹴った。
「は、はい......! はいっ!」
結は、脱げそうになるパンプスを必死に踏みしめ、藤本の背中を追った。
九条の「追いなさい!」という怒号が背中を叩く。
大手町。高層ビルが立ち並ぶオフィス街。
俺たちは、商談を抱えるビジネスマンたちの間を、全速力で駆け抜ける。
結のポニーテールが激しく揺れ、彼女のバッグからは買ったばかりの「100円の馬のチャーム」がカチカチと音を立てる。
「藤本さん! 私、パンプスが……!」
「脱げそうなら脱げ! 俺が後で、もっといい『普通』の靴を買ってやる!」
路地裏に飛び込み、配送トラックの陰を抜け、地下鉄の入り口へ向かう階段を駆け下りる。
必死に俺の背中を追う結の顔をふと見ると――彼女は、泣きそうな顔ではなく、満開の桜のような笑顔で笑っていた。
「……くすっ。あははは!」
「おい、笑ってる場合かよ!」
「最高に『略式』ですわ、藤本さん! 私、こんなに心臓が『まんばりき(万馬力)』と言っているのは初めてです!」
ようやく追手を撒き、息を切らして辿り着いたのは、公園の片隅にある古びたベンチだった。
俺は膝に手をつき、肺が焼けるような思いで酸素を求める。
「……はぁ、はぁ……。悪い。……つい、勢いで……」
「いいえ。……ありがとうございます、拓海さん」
――名前で呼ばれた。
結は、乱れた髪をそのままに、潤んだ瞳で俺を見つめた。
その瞳の中に、俺という「雑作ない男」が、確かに一人のパートナーとして映っている。
俺は悟った。
このお嬢様を守るということは、会社を守ることよりも、一兆円を稼ぐことよりも、ずっと価値がある。
たとえ明日、花菱財閥が俺をこの世から抹殺するとしても、この手を離した瞬間に、俺の人生は「略式」になってしまうのだ。
「……よし、戻ろう。……午後の業務に遅れたら、部長に殺されるからな」
「はいっ! 精一杯、まんばりき(万馬力)ですわ!」
俺たちは決意を内に秘め、再び手を繋いで、戦場へと歩き出した。
だが、俺はまだ知らなかった。
九条が報告した結の「不作法な逃走」が、花菱家当主――最恐の父親を本気にさせてしまったことを。




