第7話:『執事は黒塗り? お嬢様、オフィス街を全力疾走!』
「――お久しぶりです。お嬢様」
帝都物産。昼下がりのエントランスに、場違いなほどの威圧感が満ちた。
ずらりと並んだ三台の黒塗り高級車。そこから降り立ったのは、銀髪を完璧に整え、燕尾服を纏った老人――花菱家の筆頭執事、九条であった。
ロビーにいた社員たちが、その異様な光景に足を止める。
「な、なんだ? どこかの国賓か……?」
結は、手にしていた「100円ショップの馬柄クリアファイル」を落としそうになった。
「九条……。どうして、ここへ」
「お嬢様。遊びは終わりです。旦那様がお呼びです。……『ゴミ溜めでの泥遊びに飽きたなら、温かい寝床を用意してある』と」
九条の冷徹な声が響く。彼は結の隣に立つ藤本を、まるで道端の石ころを見るような冷ややかな一瞥で切り捨てた。
「……そこの『雑作ない』方。お嬢様の手を離していただけますかな? あなたのような汚れが触れていい御方ではないのです」
結の肩が、小さく震えた。
花菱家の令嬢としての宿命。それは、決められたレールの上を、一切の汚れなく歩むこと。
(……そうですわ。私のような者が、この温かい日常に紛れ込もうとしたこと自体が……)
結が九条の方へ一歩踏み出そうとした、その時。
ガシッ。
無骨な、だが確かな熱を持った手が、結の手首を掴んだ。藤本拓海だった。
「――悪いな、じいさん。こいつは今、帝都物産の『花菱結』だ。......花菱家の所有物じゃないんだよ」
「......藤本、さん……?」
「このお嬢様は、まだコピー機の使い方も、牛丼の『つゆだく』の奥深さも学び終えてないんだよ。……勝手に連れ帰ってもらっちゃ困るんだわ」
藤本の瞳に、九条をも怯ませる「現場叩き上げ」の意志が宿る。
「……無礼な。......排除しなさい」
九条の合図で、黒服のSPたちが一斉に動き出す。
「――まんばりき(万馬力)だろ、花菱!」
「えっ……!?」
「走るぞ、結!」
藤本は結の手を強く引くと、大理石の床を蹴った。
「は、はい……! はいっ!」
結は、脱げそうになるパンプスを必死に踏みしめ、藤本の背中を追った。
自動ドアを突き抜け、オフィス街の冷たい風が頬を打つ。
「止まりなさい! お嬢様!」
背後から響く九条の怒号。追いかけてくる黒服の集団。
だが、結の心には、かつてないほどの爽快感が溢れていた。
(ああ……! これですわ! 私が求めていた『呼吸』は……!)
高層ビルが立ち並ぶ大手町の路地裏を、二人は駆け抜ける。
結のポニーテールが激しく揺れ、彼女のバックからは買ったばかりの「100円の馬のチャーム」がカチカチと音を立てる。
藤本の手の温もりが、血管を通じて結の全身に「生きている」という実感を流し込んでいく。
「藤本さん!私、パンプスが......!」
「脱げそうなら脱げ!俺が後で、もっといい「普通」の靴を買ってやる!」
路地裏に飛び込み、配送トラックの陰を抜け、地下鉄の入り口へ向かう階段を駆け降りる。
藤本が走りながら後ろを振り向くと、結は泣きそうな顔ではなく、笑いながら走っていた。
「......くすっ。あははは!」
「おい、笑ってる場合かよ!」
「最高に『略式』ですわ、藤本さん!私、こんなに心臓が『まんばりき(万馬力)』と言っているのは初めてです!」
ようやく追手を撒き、公園の片隅にある古びたベンチで、二人は息を切らしていた。
「……はぁ、はぁ……。悪い。……つい、勢いで......」
「いいえ。......ありがとうございます、拓海さん」
結は、乱れた髪をそのままに、潤んだ瞳で藤本を見つめた。
結の瞳の中に、藤本が、確かに一人のパートナーとして映っている。
藤本は意を決したように言った。
「......よし、戻ろう。......午後の業務に遅れたら、部長に殺されるからな」
「はいっ! 精一杯、まんばりき(万馬力)です!」
二人は覚悟を決めたかのように手を繋ぎ、戦場へと歩き出した。
逃亡。
それは、完璧なお嬢様が初めて選んだ、自分自身の「歩法」。
だが、二人はまだ知らなかった。
この騒動が、花菱家の本気の「経営介入」を招く引き金になることを――。




