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スピンオフ第6話:『耳を撫でるな。お嬢様、赤提灯でロイヤル酔拳』

 その日、俺の疲労度は「完徹明けの馬」並みだった。

 取引先との板挟み、迫る納期。

 そんな俺のささくれ立った心を察したのか、花菱結がある提案をした。


「藤本さん、私、先日あなたがおっしゃっていた『琥珀の魔法』が眠る場所へ行ってみたいですわ」


 琥珀の魔法。……ただのホッピーのことだ。

 俺は彼女を連れて、新橋駅ガード下の立ち飲み屋『三歩進んで二歩下がる』の暖簾をくぐった。


「……ここが、大人の社交場ソーシャル・ギルド


 煙と脂にまみれた店内を、結はまるで「異世界の遺跡」を探索する考古学者のような真剣な目で見渡した。


「おい花菱、ここは立ち飲みだ。ドレスの裾を気にするような場所じゃないぞ」


「覚悟はできております、藤本さん。今夜の私は、一人の『酔客ドラッカー』として、この街に溶け込んでみせますわ!」

「……なっ、なんですの、この『分離した聖水』は」


 結の前に置かれたのは、ジョッキに入った焼酎ナカと、ホッピーのソト

 自らの手で割るというスタイルに、結は「調合魔法……錬金術の極致にございますね」と感動しながら、震える手でホッピーを注ぎ込んだ。


「さあ、飲んでみろ。疲れが吹き飛ぶぞ」


 結は、お辞儀をするかのような所作でジョッキを掲げ、一口含んだ。

 その瞬間。彼女の瞳が、宝石のようにキラリと輝いた。


「……素晴らしい。これは、喉を駆け抜ける純血種のアラブ馬ですわ! パカパカと軽快な足取りで、私のストレスを蹴散らしていきます……!」


 ……アラブ馬。その例え、一生理解できる気がしねえ。


 だが、俺は致命的なことを知らなかった。

 彼女は、最高級のヴィンテージ・ワインですらすぐに顔を赤くする、「アルコール耐性Lv.1」の超絶下戸お嬢様だったのだ。

 二杯目のホッピーを飲み干した頃、結の様子が激変した。


「……フジモトさん。わたくし、実は……ずっと思っていたんですの……」


 結が、ふらりと俺の肩に寄りかかってきた。

 普段の鉄壁の気品が、アルコールの熱に溶かされて、甘い香りに変わる。


「あ、おい、花菱。酔いすぎだろ」


「……この社会は、略式すぎますわ! もっとみんな、背筋を伸ばして、馬の気持ちになって生きるべきなんですの。……フジモトさんもですわ。もっと私を頼ってください。私はあなたを『繋ぐ』ために、ここにきたんですから......」


 結は、俺のネクタイをぐいと引き寄せると、赤くなった顔で至近距離から見つめ、耳元に顔を寄せると、熱い吐息とともに囁いた。


「……耳。いい耳をしていますわ。……私の愛馬に、そっくり」


 ――えっ。


 次の瞬間、結の細く白い指先が、俺の耳を優しく、そして丁寧に撫で始めた。

 馬を愛でるような、慈愛に満ちた手つき。だが、俺にとっては拷問に近い。

 耳から全身に電撃が走る。異世界アニメ系の状態異常『魅了チャーム』だ。抗えない。


「……おい、やめろ、花菱」


「……まんばりき(万馬力)。知ってますか、藤本さん。……これ、馬が最後に障害を越える時、乗り手にだけ聞こえる『魂の呼吸』なんです。……私が、あなたの障害を一緒に越えてあげますわ。……まんばりき(万馬力)ーっ!」


 結はそう叫ぶと、居酒屋のカウンターを「障害物」と見なしたのか、華麗に飛び越えようとして足をもつれさせた。


「……っ、危ねえな、バカ!」


 俺は咄嗟に、倒れ込む彼女の体を抱きとめた。

 至近距離で重なる視線。潤んだ瞳。

 彼女は俺の腕の中で満足げに微笑み、「いい毛並み……」と呟いて、そのまま俺の胸に顔を埋めて眠りについた。


「…………」


 周囲のサラリーマンたちが「ヒューヒュー!」と冷やかす中、俺は石のように固まっていた。

 俺の心臓は、彼女が言った『アラブ馬』並みに激しく鼓動している。


「……おい。......よりによって俺の腕の中で寝るなよ、お嬢様」


 俺はため息をつきながらも、その腕の中にある「重畳ちょうじょう」な温もりを、もう少しだけ感じていたいと思ってしまった。


 明日、彼女がこの「ロイヤル酔拳」を一切覚えていないことを祈りながら、俺は店主にお会計を頼んだ。……もちろん、俺の奢りだ。


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