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第1話:『お嬢様、現代社会を「略式」と断じる』

「――これにて、三週間にわたる新入社員研修を終了する。明日からは配属先での実務だ。各自、帝都物産の社員としての自覚を持つように」

 人事部長の厳かな声が、大講堂に響いた。


 2026年4月。ハイテク化が進むオフィスビルの中でも、この大講堂だけは、歴史ある総合商社としての重厚な空気が漂っている。

(ようやく、一歩踏み出せましたわ……!)


 最前列で、花菱結はなびし ゆいは人知れず拳を握りしめた。

 背筋は定規で測ったように真っ直ぐ。一分の乱れもない夜会巻きに近いまとめ髪。彼女の周囲だけ、空気の粒子が澄んでいるかのような錯覚を覚える。


 彼女には、誰にも言えない秘密がある。

 日本経済を影から動かす「花菱財閥」の正当なる令嬢であること。

 そして、生まれてから22年、一度も「普通」を経験したことがないこと。


「では最後に、マナー講師の先生から総評をいただく」


 登壇したのは、有名企業を渡り歩くカリスマ・マナー講師、二階堂だった。

「諸君。名刺交換から、上座・下座。私が教えたマナーは完璧に叩き込んだな? これができれば、どこの現場に行っても恥をかくことはない。現代ビジネスにおいて、これが『至高の礼儀』だ」


 拍手が湧く中、結は首を傾げた。


 『至高』


 その言葉が、彼女の耳にわずかな違和感を残す。

 気づけば、結はすっと右手を挙げていた。


「……失礼いたします。ご質問をよろしいでしょうか」

 凛とした声。講堂内の全ての視線が彼女に集まった。

 後ろの席に座る教育係の藤本拓海は、嫌な予感に眉をひそめた。


「何かな、花菱くん」


「先ほど二階堂先生がおっしゃった名刺交換の作法……。角度にして十五度のお辞儀。これは、あくまで『略式』ということでよろしいのですよね?」


 静寂。


 二階堂は鼻で笑った。


「略式? 何を言っている。十五度は会釈、三十度は敬礼。ビジネスではこれが標準だ」


「先生、その角度では、相手の『魂』に届きませんわ」


 講堂が凍りついた。


「何を言っているんだね、君は」


「真のお辞儀とは、呼吸の『繋ぎ』。馬が障害を越える直前、乗り手と心を通わせる瞬間のタメ……。それこそが、相手を尊ぶということですわ。それを欠いたお辞儀は、ただの屈伸運動でございます」


 結は席を立ち、演壇へと歩み寄った。


「失礼して、お手本を。……まんばりき(万馬力)です、私」

 小さく自分を鼓舞する呟き。


 次の瞬間、結は完璧な所作で頭を下げた。

 角度、四十五度。

 だが、単なる角度の問題ではない。指先まで意識が通い、周囲の空間が吸い込まれるような、圧倒的な「静寂の重圧」。その場にいた全員が、まるで「謁見えっけん」の間にいるかのような錯覚に陥った。


「…………っ」


 マナー講師の二階堂が、思わず一歩後ずさる。


 結が顔を上げると、そこには慈愛に満ちた、だが一切の妥協を許さない瞳があった。


「先生の教えは、効率を重視した『現代語』。しかし、帝都物産が繋ぐべきは世界。言葉を超えた『誠意』でなければ、一流の相手は心を開きませんわ」


 結は深々ともう一度頭を下げ、何事もなかったかのように席に戻った。


 講堂内は、静まり返っていた。数秒後、講師の二階堂は顔を真っ赤にし、

「……失礼する!」と叫んで逃げるように去っていった。


「……おい、花菱」


 後ろから、藤本が低く、だが呆れた声をかける。


「お前、とんでもないことをしてくれたな。マナー講師をマナーで完封してどうする」


「えっ? ……私、何か失礼なことをいたしましたでしょうか。ただ、あまりに略式すぎたので、少しだけ『普通』の礼儀を……」


「それが普通なわけあるか、バカ。……いいか、明日から配属だ。お前のその『ズレた本気』、現場で暴走させるなよ。絶対だぞ」


「承知いたしました。私、精一杯まんばりき(万馬力)ですわ!」


 結は拳を突き出し、馬のいななきのようなポーズをとった。


 その笑顔は、あまりにも純粋で、そしてあまりにも世間からかけ離れていた。

 これが、後に伝説の商社マン(商社お嬢様)と呼ばれる花菱結の、あまりにも「規格外」な第一歩であった。

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