〚第三十六話:リコリスの残響、あるいは牽制の極意〛
神狼のねぐらに差し込む朝日は、街のそれよりもずっと鋭く、清らかだった。
まどろみの中でゆっくりと目を開けると、鼻先数センチのところに、金色の瞳が二つ並んでいた。ネコの姿のフレイが、ぼくの顔をマジマジと覗き込んでいる。
「うわっ! な、なに……? おはよう、フレイちゃん」
「……マリオよ。問いたいのじゃが、童貞は『ちさと』ではなく『たきな』を選ぶ……とは、いかなる格言かの?」
「…………は?」
寝起きの脳細胞がフリーズした。
「……え、なにそれ。なんでフレイちゃんがその名前を?」
「ヌシが先ほどまで、うなされるようにブツブツと呟いておったのじゃ。ワシの千里眼でも読み取れぬ、異界の呪文のような響きじゃったぞ」
「……ああ、完全に寝言だ。多分、元の世界のアニメ……絵を動かして物語を見せる娯楽の話だよ。ぼくが好きだった作品のヒロインたちの名前なんだ」
「ふむ……その千束とたきな、という娘がヒロイン枠を争っておるのじゃな?」
ぼくは頭を掻きながら、かつての趣味を思い出す。
「千束は金髪ボブの元気な陽キャで、たきなは黒髪ロングの落ち着いた子。……どっちも人気があったんだ」
「ふむ。ようやく状況が理解できたわ。……やれやれ、マリオよ。ヌシ、変わったと思っておったが、まだまだじゃのう」
フレイが勝ち誇ったように前足でぼくを指差す。
「な、何がだよ」
「童貞を卒業した途端に、夢の中で『これだから童貞は……』とマウントをとる。これぞまさに、成金ならぬ『脱・童貞成金』の浅ましさ。本物のモテ男は、そのような心の余裕のなさは見せぬものじゃ!」
「だから、夢の話だって! そんなこと現実では思ってないよ!」
「いいや! 無意識下こそが真実! ヌシの深層心理には『ワシはあいつらとは違う』という歪んだ優越感が渦巻いておるのじゃ! たわけめ!」
「……何がたわけなの?」
目を擦りながら、隣で眠っていたイリスが起きてきた。
「……あ、イリス。おはよう。いや、これは、その……」
「イリスや。この男には気をつけたほうがよいぞ。……む?」
フレイはニヤリと、獲物を見つけた狩人のような笑みを浮かべた。
「金髪で落ち着いた女の子のイリスは童貞だったヌシに、どストライクだったというわけじゃな?マリオよwww」
「も、もういいってば!」
「なんの話?」
事情が飲み込めないイリスが首を傾げる。
「夢の中のことを寝言で言ってたみたいなんだ」
「童貞を捨てた途端に童貞煽りじゃ。イリスよ。師匠として言うが...その男はヤメておけ」
「……本当、すみません。ぼくは未熟な男です。修行し直してきます」
ぼくは両手を上げて降参した。フレイは満足げにふんぞり返る。
「最初からそうしてればよいのじゃ! さあ、起きよ、怠け者め。……おっ、母さま」
神狼が、静かに足音もなく近づいてきた。
「元気そうじゃが……娘はまだマナの芯が冷え切っておる。あと五日ほどは、ここで休ませてやってくれぬか」
「……わかりました。急ぐ旅でもないですし、しっかり休ませてあげてください」
ぼくは一つ、考えていたことを口にした。
「ロジャー。お願いがあるんだ。……ぼくに、ショートソードの扱いを教えてくれないか?」
「ショートソードだと? なぜだ。お前にはクロスボウがあるだろう」
「フレイが言ってたんだ。ぼくたちは近接に弱いって。これからの旅、奇襲を受けることもあると思う。ロジャーやイリスが動くまでの数秒、時間を稼げないと、ぼくは……」
ロジャーの瞳に、わずかな感銘の色が宿った。
「……ほう。ロングソードではなく、ショートソードを選んだか。悪くない筋だ。牽制に特化するなら、狭い場所でも取り回しの利く刃が一番だ」
ロジャーは立ち上がると、近くに落ちていた手頃な枝を二本拾い上げ、一本をハンスへ放り投げた。
「ハンス。お前が相手をしてやれ。オレの剣は『殺す』ための剣だ。お前のような非力な奴には向かねえ。ハンスはダガーとショートソードの混戦が得意だ。牽制の技ならこいつに聞け」
「もう、フレッドったら。面倒なことは全部ワタシに振るんだから」
ハンスは文句を言いながらも、枝を器用に指先で回してみせた。
「いいわよ、マリオ。敵はバカじゃない。魔法使いを潰すために、必ず死角から回り込んでくる。その時、このワタシをどう守ってくれるか、みっちり叩き込んであげるわ」
「私も……私も教えてください!」
イリスも真剣な表情で志願する。
「おほほ、いい心がけじゃ。ハンスよ、これからはワシのことも『フレイちゃん』と呼んでよいぞ。……ロジャー、ヌシは呼び捨てで構わん。タメ口を許そう」
「……わかったよ」
ロジャーは苦笑し、焚き火の跡を片付け始めた。
「ロジャー……さっき言ってた『殺す剣』って、やっぱり難しいものなの?」
「剣はな、『間合い』と『スピード』。それだけだ」
ロジャーの空気が、一瞬で研ぎ澄まされた刃のように変わった。
「相手の懐へ踏み込み、相手より一瞬早く斬る。それができれば百戦百勝だ。だが、その距離は、自分の命も相手の刃に晒す距離だ。……その恐怖を殺せるかだ。」
「……『死地に活あり』、か。なるほどね。……やっぱり、一番簡単で一番難しいんだ」
ロジャーは驚きを隠せない様子で問う
「ほう、なぜその言葉を知っている? 剣の奥義書にしか記されぬ理だぞ」
「……いや。ぼくのいた世界の物語にも、よく出てくるんだよ。やっぱり、本質は同じなんだね」
神狼のねぐらで過ごす、五日間の特訓。
パチパチと薪が燃える音と、木刀が空を切る音。
ぼくたちはフレイの回復を待ちながら、来るべき王都への旅立ちに向けて、新しい「武器」を磨き始めた。




