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〚第三十五話:母の面影、あるいは約束の杖〛


神狼のねぐらを包む夜のとばりは、どこまでも深く、静かだった。


焚き火の爆ぜる音だけが、等間隔に響く。


ハンスが眠りに就いた後、ぼくとイリスは、寄り添うようにして残り火を見つめていた。


ハンスから聞いた英雄の物語は、どこか遠い世界の出来事のようで、同時にぼくたちの足元にある冷たい現実を浮き彫りにしていた。



「ねぇイリス」


ぼくの囁きに、イリスが長い睫毛を揺らして顔を上げた。


「ん? なぁに?」


「ハンスさんに聞いた話でさ、わかんないことがあったんだけど……」


「どうしてセイドゥ=ムアンバは大魔王を倒す寸前まで行ったのに、わざわざ封印の形にしたんだろう?」


「だってさ、そのまま倒し切れば問題はなかったんじゃない?」


 イリスは膝を抱え、少し困ったように夜空を見上げた。


「うーん。私はそんなにこの事は知らないから……ごめんね」


「セイドゥ=ムアンバさんに聞くしかないんじゃないのかな?」


「そうか。そうだよね」


「セイドゥ=ムアンバもフレイも魔法使いか……」


 ぼくは少し考えてから、イリスに聞いてみた。


「ところで、イリスはどうして魔法使いを志したの?」


 その問いに、イリスの表情がふっとかげった。


「……お母さんとの約束」


「お母さんとの?」


「うん……」


 彼女は、大切そうに傍らのステッキを引き寄せた。


「私のお母さんは生まれつき体が弱くてドジっ娘で……そんなだから子供の頃からバカにされて生きてきたらしいの」


「そんなお母さんにとって、魔法は唯一の希望だった。体が弱くても強い敵を倒せるから」


「お母さんは懸命に魔法使いになろうと努力したわ…」


「でも…叶わなかった」


 イリスの声が震える。


「私と同じ…師匠さまに言われた通り。魔法使いとしての素養が足りなかったの」


「それから…時が経ち、普通の街娘として裁縫の仕事をしながら父と出会い、結婚をして私が生まれたの」


「うん。それで?」


「私も幼少期から同じ感じだった。体は弱くなかったけど、物覚えが悪くて鈍臭くて…」


「そして…私もまたお母さんと同じように、魔法が唯一の希望になった」


「毎日、毎日……ひたすら修練に取り組んだわ」


「そしてなんとか魔法学校に通えるようにまで基本魔法を覚えた」


「…がんばったんだね」


「でも…魔法学校に入ってからも落ちこぼれ……私は……私は……」


「ううっ…」


 イリスの大きな瞳から涙が溢れ出した。


「だいじょうぶだよ。ゆっくりでいいから」


 ぼくはイリスを優しく抱き寄せた。


 ひとしきり泣いたあと、ようやく落ち着いてきたのか、イリスは再び語りだす。


「その日も魔法試験で上手くいかなかった私はイライラしてた。そして……お母さんに……お母さんに……」


 また感情的になり泣き出すイリス。ぼくは背中を優しく撫でてあげる。


 そして泣きながら、決意したかのように語りだす。


「私は……お母さんに……私が物覚え悪いのはお母さんのせいだ!って言っちゃったの……」


「そしてケンカしたまま次の日も魔法学校に行ったの。するとお昼すぎに先生が慌てて駆けつけてきて、お母さんが……倒れたって……」


「お母さんは元々体も弱かったし、その頃度々倒れてた。重い病気にもかかってたみたい……」


「駆けつけると……お母さんは私にこう言った。『ごめんね』……って」


「お母さんはなにも悪くない。悪いのは私なのに……」


「私は…私は……謝った。何回も何回も…」


 イリスの声がかすれる。


「そして……夜が明けた頃、お母さんは言った。イリス…あなたは私の希望だった。魔法学校にも通ってくれてありがとう……って」


「私には魔法学校に入学することもできなかったからって」


「私は……お母さんに約束した。きっと…きっと立派な魔法使いになるから!って」


「そして……それを聞いて安心した笑みを浮かべながら……静かに息を引き取った」


 イリスはうつむいた。


「ヒドい女でしょ? 私って……」


 ぼくは涙をこらえながら呟いた。


「……素敵なお母さんだね。」


「...それと、君が屈辱を味わいながらも必死に頑張ってた理由がようやく分かった」


 イリスが顔を上げる。


「イリス…ぼくと、この世界で初めて会ったとき覚えてる?」


「……うん」


「イリス……君に言われたとおりだった。何の力もない。迷惑をかけるだけの存在」


「そして君のその頃と同じ…いや、もっとヒドい男だったんだ」


「なんの努力もせず、自分が弱いのは他人のせい。仕事もしない。それどころかゲームで自分だけが圧倒的に強くなれる反則チートを使って勝って喜んでた……」


「しかもその”反則技”を何のために使うものなのか母さんに説明もせず買ってもらってた」


 ぼくは自分の過去を思い出す。ニート時代。ゲームの中でチートを使い、現実から逃げていた日々。


「そんなぼくが、この世界に来て厳しい現実の中で、ロジャーやフレイに助けられて成長できた」


「そして君を助けることができた」


「人は…変われるんだ」


「……変われるのかな?」


 イリスの瞳が揺れる。


「もう変わってるさ。君はもう"負けっぱなし"じゃない。むしろ"勝ちっぱなし"だ」


 イリスは涙を拭いながら、微笑んだ。


「ふふ、このステッキね……お母さんから魔法学校に合格した時に買ってもらったものなんだ」


 イリスが大切そうに持つステッキを見る。確かに使い込まれていて、所々傷もある。


「だいぶボロボロだね……」


「もう! マリオったら! そういうところが師匠さまに怒られるところだよ!」


「ご、ごめん。いや……使い込まれてるって言いたかったんだ。表現が悪かった」


「ふふふっ、いいよ。ゆるしてあげる」


 イリスは本当に嬉しそうに笑い、ぼくの肩に頭を預けた。


ぼくたちは、吸い寄せられるように唇を重ねた。焚き火の柔らかな光が、二人の影を大きく揺らしている。



 イリスの母親の想い。それを受け継ぐイリスの決意。


その彼女を支え抜くと決めた、ぼくの誓い。


 そして、ぼく自身の変化。イリスの話を聞いてて母さんに会いたくなった。同じように...ぼくも母さんに謝りたい。


過去と未来が、この静かな夜の中で、ひとつに重なり合っていた。


 焚き火の明かりが静かに二人を照らし、神狼の穏やかな寝息が、優しい子守唄のように周囲を満たしていた。

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