〚第三十四話:語り継がれる四英雄、そして母の涙〛
神狼のねぐら。巨峰の頂をなぞる夜風が、焚き火の炎を不規則に揺らしていた。
フレイを救うための唯一の手がかり――「身代わりの玉」という希望を得たぼくは、興奮を抑えきれず、薪を弄ぶロジャーに問いかけた。
「ねえ、ロジャー。この世界には『勇者』って呼ばれる人はいないの?」
「勇者? なんだそりゃ。酒場の吟遊詩人が歌う寝物語か?」
ロジャーは興味なさそうに、火の粉を散らす。
「そうじゃなくて……大魔王を倒す運命を持って生まれた、剣も魔法も天才的な人っていうか」
「英雄のことか。英雄なら、そこらで転がってるじゃねえか」
ロジャーが顎で示した先には、神狼の大きな耳を枕にして、無防備に寝息を立てる一匹のネコがいた。
「……フレイさまだ。あの方こそが、現代における生ける伝説だ」
「ああ、確かにフレイは凄いけど……。なんて言うのかな、もっとこう、大魔王を完全に滅ぼせるような存在はいないのかなって」
「大魔王は不死身だ。滅ぼす方法が確立されてりゃ、二百年前にフレイさまがやってるはずだろ」
ぼくは、神狼の体にぴったりと寄り添うフレイを見やった。まるで幼い子供が母親の体温を求めるような、そのあまりにも愛らしい姿。
神狼が言っていた「マナの枯渇」のせいか、彼女は深い眠りの底に沈んでいる。
「英雄か……。この国の通貨の名前にもなっている『ファナン』も、その一人なんだよね?」
「ファナンは、この国の基盤を作った至高の騎士だ。だが、世界の歴史を紐解けば、その頂には四人の名が刻まれている」
ロジャーの声が、夜の静寂に低く響く。
「セイドゥ=ムアンバ。ファナン。ヒューリー。そして、フレイ。……だが、今この地上に現存しているのは、絶望的な引きこもりのセイドゥ一人だけだ」
「え!? 現存してるの? そのセイドゥ……ムアンバって人を味方にできれば……!」
「不可能だ」
ロジャーは短く吐き捨てると、それ以上の追及を拒むように背を向けた。
「……疲れた。オレは寝るぞ」
取り付く島もない彼の態度に、ぼくが頬を膨らませていると、焚き火の向こう側からハンスが優雅に歩み寄ってきた。
「ふふ、フレッドを責めないであげて。あの人は、重すぎる歴史の話が苦手なのよ。……代わりに、ワタシが話してあげるわ」
ハンスはぼくの隣に座り、パチパチと爆ぜる火を見つめながら語り始めた。
「セイドゥ=ムアンバ。彼は今から千年も昔、苛烈な差別と暗黒の時代を歩んだ黒人の英雄よ。彼は生まれながらにして、生死の理に触れる死霊術と呪術の天才だった。……そして、人類で唯一『永遠』を手に入れたイモータル(不老不死)の存在なの」
ハンスの瞳に、揺れる炎が映り込む。
「彼はたった一人で大魔王を打ち倒した。けれど、そこが悲劇の始まりだったわ。負けを悟った大魔王は、彼に取引を持ちかけたの。『封印を受け入れる代わりに、永遠の命が欲しい』とね。セイドゥは、自分が生き続ける限りいつでも再封印できると、己の力を過信してしまった」
「……それが、唯一の失敗だったんですね」
「ええ。大魔王は封印の闇の中で、人知れず『食事』を続けていた。……大魔王にとっての糧は、この世界に満ちる『人の憎悪』。千年の時を経て、大魔王はセイドゥさえも凌駕する力を蓄えてしまったの。……後に封印を解かれた大魔王を前に、セイドゥは敗北を喫した。己の甘さを恥じた彼は、それから歴史の表舞台から姿を消したわ」
喉が渇くような沈黙が訪れた。最強の英雄でさえ、勝てなかった絶望。
「じゃあ、やっぱり……フレイの時間停止しか、道はなかったんだ」
「そうね。彼女の自己犠牲がなければ、今頃この世界は憎悪の炎に焼き尽くされていたでしょう」
絶望的な話だった。けれど、ぼくの心には不思議と暗い影は差さなかった。
「身代わりの玉……そして、セイドゥ=ムアンバ。……いつか、会わなきゃいけない人が増えたね」
「あら、なぁに?マリオ。……その顔、なんだか嬉しそうね」
ハンスが驚いたように微笑む。
「……ぼくは、困難に立ち向かい苦難を乗り越えた時の喜びをみんなに教えてもらったんだ。ぼく一人じゃ無理だけど、ロジャーがいて、ハンスさんがいて、イリスがいて、フレイがいる。……いつかきっと、フレイを助けたい」
ぼくの言葉に、ハンスは慈しむような視線を向けた。
ふと、背後にある神狼の巨大な顔を見上げた時――ぼくは息を呑んだ。
神狼の閉じた目から、静かに、一筋の雫が零れ落ちていた。
それは月光に照らされ、ダイヤモンドのように輝きながら毛並みを濡らしていく。
伝説の神獣は、眠っているふりをしながら、ずっとぼくたちの会話を聞いていたのだ。
娘を想い、その未来を名もなき異世界からの来訪者に託す母の涙。
ぼくは改めて、その涙に応えるべく、夜空の向こうにある過酷な運命を真っ直ぐに見据えた。




