〚第三十三話:親愛の連鎖、そして泥濘からの卒業〛
白銀の巨躯が夜の帳を切り裂くように進む。神狼のねぐらへと向かう道すがら、ぼくと神獣の対話は続いていた。
「マリオや。ワシがなぜ、これほどまでにヌシの到来を待っておったか、分かるか?」
「いえ……。正直、見当もつきません」
「そうであろうな」
神狼は、落ち葉を踏みしめる音さえ立てず、静かに語を継いだ。
「ワシには千里眼がある。……娘とヌシが出会ったあの日から、ワシはずっと、その歩みを見ておったのじゃ」
「……最初から、ですか」
「あやつも、昔から人付き合いが酷く不器用でな。誰よりも温もりを求めながら、それを素直に乞えぬ子なのじゃ。それが……ヌシと友になってからというもの、どうだ」
神狼の声に、深い慈愛が滲む。
「今日、久しぶりに娘の顔を見た。あの子を引き取って二百年、あれほどまでに心から楽しげに笑う顔を見たのは、ワシも初めてのことじゃ。……マリオよ。ワシがヌシに、どれほどの感謝を抱いているか、想像もつくまい?」
「ぼくは……何も特別なことは。むしろフレイに助けられてばかりで……」
ぼくは揺れる神狼の毛並みを見つめ、ふと思い立って尋ねた。
「……イリスのことも、ご存知ですか?」
「うむ。娘の愛弟子じゃな」
「彼女は、決して天性の才に恵まれていたわけじゃありません。それでも必死に足掻いて、全魔法を習得した。……けれど、ずっと負けっぱなしだったんです。それがフレイに出会ってから、見違えるように変わった。……神狼さま、感謝しているのはぼくたちの方なんです」
「ふむ……人とは、まことに不可思議な生き物じゃな」
神狼は感慨深げに鼻を鳴らした。
「敬意が、さらなる敬意を呼ぶ。なんと心地よい連鎖であろう。……マリオや。いや、やはりよしておこう。親バカの繰り言を並べる必要はあるまい。……ヌシらに、任せるとしよう」
神狼はそこで言葉を切り、少し思案するように目を細めた。
「それと、あの金髪の娘……イリスといったか。あやつは、決して素質に恵まれていないわけではないぞ。自信の無さと慎重すぎる性格が、開花を遅らせているだけじゃ。……それと」
神狼が何かを言いかけて止めた。精神を司る神獣の瞳に、一瞬だけ鋭い「予見」の色が混じった気がしたが、ぼくは敢えて深くは聞かなかった。
「……然るべき時に、然るべき才能が開花するであろう。今はそれだけで十分じゃ」
一際高く、天を突くような巨峰の麓。そこではフレイたちがパチパチと焚き火を囲み、温かな湯気を立てていた。
「母さまー!」
ネコの姿のフレイが、尻尾をぴんと立てて駆け寄ってくる。その姿は、普段の尊大な師匠とは違い、甘える幼い子供そのものだった。
「話し込んでしまったわい。ワシにも少し分けてもらおうかの? 人の食というものを、一度経験してみたかったのじゃ」
山のような神狼を前に、イリスはまだ石像のように固まっていた。震える手で、木椀を差し出す。
「ど、どうぞ……召し上がってください」
神狼は、じっとイリスを見つめた。その黄金の瞳がイリスを射抜く。
「ふむ……。鳥と山菜を焼き、その上で煮込んでおるのか。……なるほど、美味じゃ」
「あ、ありがとうございます……っ」
「イリスよ、ヌシはなかなか器用な手つきをしておるな。料理は得意か?」
「はい……。小さい頃に、母が教えてくれました」
「母、か……」
神狼は再び何かを言いかけ、静かに口を閉じた。その表情には、一瞬だけ複雑な影が差したように見えた。
ぼくは食事をしながら、神狼から聞いた「身代わりの玉」の話を仲間に共有した。
すると、それまで無関心を装っていたロジャーの目の色が変わった。
「身代わりの玉……。神竜の宝玉か。それは、この世界の全トレジャーハンターが夢に見る、究極の悲願だ」
「じゃあ、ロジャーにとっても追いかける価値があるってことだよね? いつか力をつけて、神竜に挑みたいんだ」
「……寝ぼけたことを言うな」
ロジャーの冷徹な一言が、夜の空気を切り裂いた。
「神竜の棲み処へ近づくことさえ、今の貴様らには不可能だ。オーガ二体で死にかけていたド素人が、たどり着ける場所じゃねえ。……勘違いするな。それは『目標』ではない。単なる『夢想』だ」
「……分かってる。でも、本気なんだ。フレイを助けるためなら、ぼくはなんだってやる」
「なら、これまでの倍以上の血を吐く努力をすることだ。……汲み取り屋なんぞを掛け持ちして、時間をドブに捨てている間は、永遠に夢のままだぞ」
突き放すようなロジャーの言葉。けれど、その奥には彼なりの「プロとしての忠告」があった。 ……ぼくは、揺れる炎をじっと見つめた。
「……わかった。明日、街に帰ったら、アラベスさんに断りを入れてくる」
汲み取り屋。
異世界に転生し、何者でもなかったぼくに、働くことの厳しさと、生きるための実感を教えてくれた仕事。
何も知らなかったぼくを、温かく迎えてくれたアラベスさん。
けれど、もう「並行してできる」ような甘い道のりではない。
「本気なんだね、マリオ」
イリスが心配そうにぼくの顔を覗き込んだ。
「うん。……待ってて、フレイ。必ず、きみを自由にするから」
焚き火の明かりに照らされたフレイは、少し照れくさそうに鼻を鳴らした
ぼくは目を閉じる。暗闇の向こうに、まだ見ぬ王都、そして世界の頂点に君臨する神竜の姿を幻視した。
ニートだったぼくの、本当の冒険が、ここから始まろうとしていた。




