〚第三十二話:神狼の独白、あるいは200年の残照〛
神狼が寝そべっているという街道を目指し、ぼくたちは歩みを進めた。
場所は、かつてフレイが封印されていた祠からさらに隣国側へ数里。徒歩なら丸一日かかる険路だが、フレイの魔法がそれを縮める。
「面倒じゃの。祠の近くまで一気に飛ぶぞ。舌を噛まぬようにな」
フレイの短い詠唱と共に、視界が歪んだ。次の瞬間、冷涼な山の空気が肺を突き、ぼくたちは祠から三時間ほどの距離まで短縮された山道に立っていた。
歩きながら、フレイは尾を揺らし、不意に隣を歩くハンスを見上げた。
「のう、ハンスよ。ヌシに問いたい。なぜに男と女というものは、こうも分かり合えぬものかの?」
「あら……。難しいことを聞くわね、ネコちゃん」
ハンスは艶やかな仕草で唇をなぞり、苦笑した。
「ネコにネコ呼ばわりされるとはな。おほほw」
「ふふっ、本当に面白い子。……そうね、たぶん求めるものが根底から違うのよ。男は己の居場所を『縦』の序列に求め、女は周囲との『横』の繋がりに安らぎを見出す。価値観のパズルがそもそも合わないのね」
ハンスは少し歩を緩め、前方を歩く大男の背中に視線を投げる。
「フレッド――ロジャーもそう。大人しくしていれば、この国の武の頂点として、誰もが傅く地位に居られたのに。でも、この人は何よりも『縛られること』を忌み嫌ったのよ」
「おい!余計なことを言うんじゃない 」
ロジャーが低い声で威嚇する。
なのに、ぼくは気になっていたことを、つい口にした。
「……親衛隊隊長だったのに、王族や貴族にまで手を出したって……それも『自由』だったからなの?」
「殺されたいのか? オレのことはどうでもいいってんだ」
ぎろりと睨むロジャーの瞳には、冷徹な拒絶が宿っていた。けれど、ハンスが優しく割って入る。
「許してあげて。この人は、過去の自分を『今の自分』には必要ないと思っているだけなの。……今は、ね」
「……悪かったよ。謝る、ロジャー」
謝罪に返事はなかったが、彼の纏う刺々しい空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
やがて、街道の先に「それ」は現れた。
白銀の毛並みが、木漏れ日を浴びて神々しく輝いている。街道を塞ぐように横たわるその姿は、全長十メートルを優に超える山そのものだった。
近づくにつれ、大気が震えるような「精神の圧」が肌を刺す。ぼくは生唾を飲み込み、震える声を振り絞った。
「神狼……さま。すみません、少しお話を……」
「…………ようやく来たか。待ちくたびれたぞ、マリオ」
地を這うような重低音。しかし、そこには不思議な慈愛が籠もっていた。
巨大な黄金の瞳がゆっくりと開き、ぼくを射抜く。
「フレイ、我が娘よ。久しいな……。マリオとは二人で話がある。他の者と共に、一足先に我がねぐらで羽を休めるがよい」
「母さま……」
「おや?娘よ、マナが底をつきかけておるな。案ずるな、この地の結界はワシが肩代わりしてやる。すべてを放棄して、今は眠れ」
「……うん。ありがとう、母さま」
フレイは安堵したように耳を伏せ、ロジャーたちと共に険しい山嶺の方へと去っていった。
静寂が訪れる。巨獣と、元ニートのぼく。
「さて……何から話そうかの、人の子よ」
「……フレイちゃんと、話し方がそっくりですね。なんだか、リラックスできました」
「ほう。ワシを前にして畏怖せぬか。面白い男じゃ」
「正直、怖いです。でも……やっぱり、確信しました」
ぼくは神狼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ぼくがフレイ……あなたの娘に初めて会った時、からかわれながらも、その心に温もりを感じたんです。直感どおり彼女は見返りも求めず、ずっとこの国を、人を護り続けてきた。そのお母さんなら、きっと同じ温もりを持っているはずだって」
「……その眼。偽りも淀みも無いな」
神狼は、ぼくの覚悟を計るように鼻息を吐いた。
「神狼さま。フレイを……ぼくの親友を、あんなに優しく育ててくれて、ありがとうございます」
「【子は親に学び、親は子に学ぶ】……という言葉を知っておるか、マリオ」
神狼は、遠い空を見上げるように語り出した。
「ワシは元来、人などどうでもよいと思っておった。二百年前、大魔王が復活した時でさえ、この山さえ無事なら他はどうなろうと興味はなかったのじゃ。……じゃが、あの子は違った」
「あの子はワシに言った。『大魔王と戦ってくる』とな。ワシはうろたえた。なぜ娘が人を助けるのか、理解できなかったからじゃ」
「人に粗末な扱いを受けども施しを与えてもらったことがなかったからの」
「それでも強い意志を感じたワシは共に行こうとした。じゃが娘は止めた。『母さまはこの山を護って』とな。……ワシは、娘が危なくなれば逃げ帰ると思っておった。じゃが……それはワシの甘い見立てじゃった」
神狼の声に、深い悔恨が混じる。
「あの子は己の命を投げ打った。禁忌魔法、時空停止。その詠唱を唱え始めたときワシは急いで向かった。山など、ひと駆けの速度で。じゃが―――ワシが駆けつけた時には、結界の中で石像のように動かなくなった娘の姿があった……。時空結界には何者も近づけぬ。ワシは、ただ引き返すしかなかったのじゃ」
話を聞くうちに、ぼくの視界は滲んでいた。
いつも強気で、生意気で、明るく振る舞っていたフレイ。彼女が、凍りついた時間の中で、たった一人で二百年間も……。
その孤独を想うと、胸が潰れそうになった。
「神狼さま! 彼女を……フレイを救う方法はないんですか!? ぼくに、できることは……!」
「残念ながら……今のヌシには、ない」 その断言に、ぼくの膝が震える。
「……正確には、ワシも試したのじゃ。神竜が秘める『身代わりの玉』……あれがあれば、結界の維持を玉に肩代わりさせ、娘を解放できる。だが、神竜は断った。『我を倒して奪ってみせよ』とな」
「……神竜とワシでは、力の差が大きすぎる。神竜はワシとは違い、武力と理のみを重んじる。話は通じぬ」
神竜。三神の頂点。
ぼくは、震える拳を握りしめた。
「……神竜に、会いに行きます。今は力がなくても、いつか必ず……!」
「ほう、それがヌシの新たな『目標』か。……良かろう。ワシは何も言わぬ。ただ、あの子が選んだ男の行く末を見守るとしよう」
神狼はゆっくりと巨体を揺らし、立ち上がった。
「さあ、夜が来る。我がねぐらへ案内しよう」
悠然と歩き出す白銀の背中を、ぼくは追いかけた。
フレイを救う。神竜の宝玉を手に入れる。
今のぼくには、笑われるほどの妄想かもしれない。けれど、ぼくを「友」と呼んでくれた、あんなに温かい心を持つネコの笑顔を、本当の意味で取り戻すために。
夕闇の迫る街道に、一人の男の静かな、けれど燃えるような決意が刻まれていた。




