後編:愛も番も、お断りいたします
翌朝、シアレーネが自身の商会を訪れると異様な気配が漂っていた。
いつもなら朝から忙しなく動く従業員たちが、みな微妙に視線を逸らしながら出迎えてくる。
事務所の扉を開けた瞬間、その理由がわかった。
「やあ。よく眠れたか、妻よ」
「君に会いに来たよ、メル」
……いた。
なぜか、そこに、二人ともいた。
ユースティンとリュカミールが、なぜ朝から並んで商会の応接室を占拠していた。
理由など、もはや聞くまでもなかった。
「……あんたたち、暇なの?」
「ここの運営が気になってな、妻としての働きぶりを見届けにきたんだ」
「私は君の番として確認すべき義務があると思ったまでだ」
「……どの面下げて“番”を名乗ってるのよ」
シアレーネの言葉に、リュカミールは言葉を詰まらせた。
その眼差しには揺らぎがあった。
彼もまた前世の彼女、メルがどんな最期を迎えたか、知らないはずがないのに。
沈黙する獣人を横目に、ユースティンが冷ややかに口を開く。
「……意味は分からんが、今ここで一番の部外者はお前だ。帰ってくれないか?」
「貴様こそ、どうして彼女の隣にいる?」
「俺は“夫”だ。法的に、正当にね」
「魂は、法を超える」
「黙れ、犬貴族」
「死ね、人間のくず」
「うるっっっっっさい!!!」
ガチャン!とシアレーネが机を叩きつけると、茶器が揺れ、ぶつかり合った。
二人は同時にビクリと肩を震わせる。
「ここはあんたたちの縄張りじゃない!私の商会よ!?誰が呼んだの、あんたたちを!」
「だが、俺は夫で…」
「私は番で…」
「知らないわよ!!どっちもいらないわよ!!帰って!!迷惑!!」
シアレーネの指先が入り口を指し示す。
そこに、これ以上の言葉は要らなかった。
「帰れ」
そう言った彼女の声は、冷たいのに、妙に説得力があった。
商会の人間すら、その凛とした命令に「ごもっとも」とうなずいてしまいそうなほどだった。
結局、二人は何も言えずに立ち去った。
朝の光が差し込む商会のフロアに、シアレーネは後悔を滲ませながら頭を抱えるのだった。
「……まったく、仕事の邪魔しないでって契約書に書いておけばよかったわ」
シアレーネの叱咤が効いたのか、商会にユースティンの姿は見えなくなったのだが屋敷では違った。
不自然なほど在宅日が増えたユースティンは、朝食の席や廊下のすれ違いざまに、やたらと視線を向けてくるようになった。
かと思えば今度は、外出先ではリュカミールが現れる。
「偶然だな」と笑うその顔に、偶然などという言葉は一ミリも似合わなかった。
さらには、王家からも書状が届く。
“使節との交流の一環として、ブロワズン家正妻殿とリュカミール殿との茶席を設けたい”
そこまでして何を求めるのか。
魂?謝罪?やり直し?
冗談じゃない。
「はあああああああ……」
書状を握り潰しそうな勢いで机に伏せたシアレーネに、静かにお茶を差し出したのは商会の秘書、ルフィーナだった。
栗毛の三つ編みを揺らしながら、彼女は心配そうに眉を下げている。
平民出身だが、数字にも対応にも強く、シアレーネが一番信頼を置いている右腕だ。
「……あの、代表。背負いすぎてはいませんか?私でよければ、いつでも頼ってください」
「……そうね、ありがとう、ルフィーナ」
癒しだ。
世界にまだ、信じられる人間がいるというだけで、どれだけ救われるか。
けれど、甘えている場合ではない。
「リュカミールだけは……方をつけないと」
そう。ここで決着をつけなければ、きっとまた、あの瞳が追いかけてくる。
それがどれほど重く、過酷なものか、リュカミールに教えてやらなければ。
*
王家が設けた格式ある茶会の席にて雅やかな設えの中でリュカミールは微かに緊張を漂わせていた。
シアレーネは黙って向かいに座り、用意された紅茶を啜っていた。
さすが王宮御用達の茶葉だ、格式の高さが香り一つにも表れている。
軽やかな音とともに沈黙が落ちる中、先に口を開いたのは、リュカミールだった。
「……メル。あのときの真実を、話させてくれ」
「メルではないわ。私は“シアレーネ・ブロワズン”です」
そう冷たく言い切っても、リュカミールの目は怯まない。
むしろ、決意を湛えるように強くなっていった。
「君を貶めたのは、当時の王女だった。君に嫉妬した彼女が、偽の密会を仕組んで……」
シアレーネは茶を口に含み、静かに目を伏せた。
彼の声が、耳を刺してくる。
「すぐに気づいた。君が自分の意志で裏切るはずなんてないって。でも……」
「でも?」
「でも、あの場面を見たとき、理性より先に、怒りが……」
「……それで殺したのよね、私を」
声は静かだった。
しかし、そこには濁流のような痛みが確かに宿っていた。
「……っ」
「私、いえメルは“彼”は信じてくれるって思ってたの。
たとえ大勢の男達に押さえ込まれ、無理矢理身体を穢され、醜態をわざと公に晒されても、浮気なんてしないって、メルを信じてくれると。
なのに、“彼”は一番にメルを否定し、殺した。
言い訳なんて、聞きたくないわ」
「メル……!」
「その名で呼ばないで」
そう言ったとき、リュカミールの目から、ぽろりと涙が零れた。
しかし、シアレーネの表情は変わらない。
その涙を憐れむことも、見つめ返すこともなかった。
「私にとって、“前世の番”はもう終わったわ。あの瞬間にね。
お互い、二度と会うこともないでしょう。
さようなら、フリューネクス様」
椅子の脚が床を鳴らす音と共に、シアレーネは立ち上がった。
礼だけを残して、振り返らないまま、退室していった。
その背中が、彼にとっての“終焉”だった。
ようやくリュカミールの一件を片付け、残る問題をどうするかと頭を悩ませていた最中、その元凶がやってきた。
ユースティンは、書類に目を落とすシアレーネに向かって、ふと呟いた。
「もし、君さえよければ。この結婚を……本物にしてもいいと思っている」
「……………………は?」
一瞬、幻聴かと思った。
だが視線を上げてユースティンの顔を見れば、彼はいたって真剣な表情でこちらを見ていた。
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
しばらく沈黙したあと、シアレーネはそっと手元の書類を置いた。
「……何言ってんの?」
「いや、だから、その……もともと愛を交わす気はなかったが……一緒に過ごしてみて……」
「撤回するなって言っただろ!!!」
机に思いきり手を叩きつけ、書類が宙に舞う。
ユースティンがたじろいだ瞬間を逃さず、シアレーネは一気に詰め寄った。
「絶対に撤回しないって、破棄禁止って、言ったよね!?その契約は、私が生きるためのルールなの!」
「……っ、いや、そうだけど……!」
「ルール守れや!!!」
怒鳴り終えたあと、彼女はひとつ深く息を吐いた。
「……愛なんて、もうこりごりなんですけど」
その声には、静かな疲労と、断絶の意志だけが滲んでいた。
ユースティンも、リュカミールもあれだけ明確に断ったというのに、なおも彼らはシアレーネを追い続けた。
「恋人とは別れたんだ。今は君だけを……」
屋敷の中、低く熱のこもった声で告げるユースティンに今さら何をほざいているのかと呆れるばかりだ。
「何度でも言う。君は私の番だ。君以外の匂いでは、もう眠れない」
リュカミールもまた、使節の任を終えた後も王都に滞在し、手紙や訪問を繰り返していたが、シアレーネはそれらをすべて無視した。
うるさい。とにかくうるさい奴らだ。
とっくに終わった話だと、何度言わせるつもりなのか。
そんな男たちの未練がましい視線をシカトしながら、シアレーネはある一つの大勝負に打って出た。
満を持して世に送り出されたのが、長年開発を続けてきた獣人にも人間にも使える、万能固形石鹸“ノーシュ”だった。
清潔という概念がいまだ根付ききっていないこの世界において、汚れ落とし・消臭・殺菌・肌への優しさという四大効能を備えた“ノーシュ”はまさに“文明の福音”ともいえる大ヒットを巻き起こした。
瞬く間に、各地の市場に問い合わせが殺到。
軍部や王宮での使用に採用されたことでその名声は確固たるものとなり、シアレーネの商会は規模も急拡大。
シアレーネは国家間の経済交渉にも顔を出す存在となり、今や王家でさえ、リュカミールとの私的な縁談に手出しができなくなっていた。
ようやく、何もかもが“彼らの手の届かない場所”に届いたのだ。
それでもなお、リュカミールは諦めきれなかった。
「……もう一度だけ。最後に言わせてほしい。君が誰のものでもないというなら、それでもいい。せめて、傍に……」
その瞳には、確かに愛があった。執着もあった。
けれど、シアレーネの答えは変わらない。
「私は誰のものにもならない。過去にも、今にも。私は、私のために生きるの」
その一言で、彼の世界は静かに終わった。
*
全国展開に向けて、シアレーネは自らの手で販路の拡大に乗り出すべく旅支度を整えていた。
実地調査、現地職人との会合、物流の確認などやる事は沢山。
部屋にて荷造りの最中、ふいに扉が開き、ユースティンが飛び込んできた。
「待ってくれ!行くなら俺も連れて行ってくれ!」
驚く侍女たちをよそに、彼はシアレーネの前で膝をつく。
「愛してくれとは言わない。
……ただ、そばにいさせてくれ。君の隣で、これからの道を見守らせてほしい」
真剣なその瞳に、シアレーネはふっと微笑んだ。
そして、ゆっくりと懐から一枚の書類を取り出し、悪戯っぽく笑って見せた。
「……まずは、契約違反金を払ってからね」
差し出されたのは、かつて二人が交わした絶対破棄禁止の婚姻契約書。
契約書をひらひらと揺らしながら、シアレーネは笑い飛ばす。
それはどこまでも自由な、自分の人生を自分で選び取った女の笑みだった。
恋も番も、誰かに決められた未来も。
もう彼女の人生には、何ひとつ必要なかった。
シアレーネは、これからも自由に、未来を歩いていく。
END
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最後までお読みいただきありがとうございます。
数ある小説の中からこの小説をお読み頂き、とても嬉しいです。
少しでもシアレーネの快進撃を応援していただけるのでしたら・・
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