前編:二度目の人生は自由を
「勘違いするな。俺はお前を愛することはない」
この男は、何をそんなに緊張しているのだろうか。
そんなこと、言われなくてもわかっているのに。
いや、むしろそうでなくては困る。
私はシアレーネ・カンメリス。
名門貴族の娘などと呼ばれてはいるが、その実態はかなり怪しい。
かつて栄華を誇ったカンメリス家も、今では見る影もなく、爵位だけがどうにか残されている。
要するに、金も影響力もほとんどない貧乏貴族だ。
本来なら、もう少し自分の幸せを考えて生きたかった。
だが事情がある。
どうしても、すぐにでも「人妻」にならなければならなかったのだ。
簡単に言えば私には“前の人生”があり、その人生にて大きな過ちに巻き込まれた。
前世の私は獣人で、番が居た。
奇跡的にも番と出会うことができ、幸せに溢れた人生だった。
だけど愛し合っていたはずの相手に浮気をしたと誤解されて、命を奪われ人生の終了。
ちなみに私は浮気なんてしてない、すべては第三者の策略だった。
けど誰も、番さえも信じてくれなかった。
無実を叫んだのに信じてほしかった人にすら、届かなかった。
そうして命を落とした私に、女神は「救済」のつもりだったのか、新たな命を与えた。
けれどそれは、望んだものじゃなかった。
さらに今世で目覚めたとき、種族が獣人ではなく人であったものの、二度と関わりたくなかった“運命の番”の気配に、私は頭を抱えた。
……これ以上、どうしろっていうの?
誰か、私の絶望に共感してほしいくらいだ。
今度こそ彼に信じてもらわなくちゃ?ーーないない、絶対ない。
私の中にあるのは、ただひとつ。
嫌悪感、それ以外になにもない。
だからデビュタントを終えると同時に父に事情を話し、「番」に嫁がされる前に、誰かの妻という“立場”を今すぐ手に入れる必要があった。
そして見つけたのが、この男、ブロワズン侯爵家の嫡男、ユースティンだ。
見目麗しく、社交界でも人気の人物だが、面倒な事情を抱えていた。
どうやら平民の愛人がいるらしく、「貴族の妻」が必要であるだけで、結婚に愛を求めていなかった。
お互い干渉せずに済むなら、それほど都合の良い話はない。
交渉はあっという間に成立した。
必要な条件を契約書にすべて記し、婚姻が成立した今日、夫婦の寝所へ入る直前、彼が何を勘違いしたのか唐突に宣言してきたのだ。
「お前を愛することはない」
そう、冒頭のこの発言に。
愛される?まさか。まったくそのつもりはなかった。
私にとってはむしろ、愛されては困る。
だからこそ私は最高の笑顔で婚姻契約書を懐から取り出した。
「はいこれ!破棄禁止!絶対に撤回しないでくださいね!」
この契約は、私が“自由”を得るための盾。
誰の愛にも、運命にも、私はもう二度と縛られたりなんかしない。
*
翌朝、シアレーネは紅茶片手にとても上機嫌だった。
朝の光を受けてきらめく書類、それは昨日、正式に夫となったユースティンと交わした「婚姻契約書」である。
その内容は、ある意味で痛々しいほどに、片方の被害妄想と自己防衛で満ちていた。
・乙(=シアレーネ)は甲(=ユースティン)に対し、愛情を請わないこと
・乙は甲の「大切な人々」(=要するに平民の愛人)を傷つけないこと
・乙は社交活動に口出ししない限りにおいて、妻としての表の務めを果たすこと
・ただし「我が物顔」は厳禁とする
・子をなす場合、その子は“愛する人との子”を跡取りとする(乙との間に生まれた子は対象外)
内容はここまで舐め腐ったものだったのに、署名欄にはしっかりユースティンのサインがあった。
だが、シアレーネはそんな内容などどうでもよかった。
彼女にとって、大事なのはその下に書き足された二つの約束、これが重要なのだ。
・甲もまた、乙に対し愛を求めないこと
・甲乙いずれも、一方的な理由による契約破棄を行わないこと
完璧だ。
これは彼女が自由を手にするための、最強の“契約盾”だった。
それからのシアレーネは、貴族の妻という肩書きを利用し、前世で培った知識と勘をフルに活かして動き出した。
開いたのは、小規模ながら独自路線の商会。
もとは地方の小さな工芸品と薬草加工を扱うもので、それを都市貴族向けに洗練させ、販路を広げていった。
旧貴族のコネと、現代的なマーケティングを融合させたその手腕は目覚ましく、気がつけばシアレーネは社交界でも「やり手の若妻」として話題に上るようになっていた。
だが、その動きに不穏な波を投げかけたのは、ほかでもないシアレーネの夫、ユースティンだった。
「……なぜ、俺に愛を求めてこない?」
その問いは唐突だった。
ある日、書斎で帳簿整理をしていたシアレーネに、ユースティンが声をかけてきたときのことだ。
口調は静かだったが、目だけが微妙に揺れていた。
「は?」
「いや、別にいいんだ。契約だし、分かってる。けど、お前は、少しくらい……」
何を言いたいのか。
シアレーネは顔を上げず、無言で契約書の写しを差し出した。
彼の署名が入っている、“絶対撤回禁止”の証文だ。
「……そ、そうだったな」
少し顔を逸らすユースティンを横目に、シアレーネは紅茶を啜った。
今さら揺らがれても困る。
だが、それでも事態は変わり始めていた。
シアレーネに向けられる視線に、妙な熱が混じり出したのだ。
平民の恋人さんは、もう少し頑張ってくれないだろうか。
時が経ち、外交の一環として獣人国家からの使節団が王都へと訪れた。
彼ら使節団のためへの晩餐会が、王城の大広間にて催された。
ブロワズン侯爵家の嫡男とその正妻という立場ゆえ、シアレーネも当然、ユースティンとともに夫婦として列席していた。
着飾った貴族たちのざわめきの中、シアレーネは注意深く距離を保ちながら夫の隣を歩いていた。
装いは完璧。
笑顔も表情も、貴族の妻として申し分ない。
が、威風堂々たる彼らの一団。
その中央に、ひときわ強い存在感を放つ男がいた。
リュカミール・フリューネクス。
獣人国家でも指折りの名家に連なる公爵家であり、かつて自分の番だった男だ。
前世でも今世でも、彼は変わらず狼の獣人のままのようだ。
彼の姿を目にした瞬間、シアレーネの背筋をぞわりと冷気が這った。
忘れるはずもない。あの気配。あの目。あの魂。
皮膚の内側にまで焼きついていた“かつての記憶”が、息を吹き返す。
リュカミールもまた、こちらに気づいた。
まるで時が止まったかのように、シアレーネの前で彼は足を止めた。
「……メル……?」
その瞬間、空気が張り詰めた。
晩餐会のざわめきの中で、たしかに聞こえたその名。
過去の亡霊が、シアレーネの名を、前世の名を口にした。
「間違いない!君の魂は、あの時のままだ……メル!」
彼の声音には、震えがあった。
歓喜と安堵と、焦燥が混ざった濁流のような声。
たとえ姿形が違えど、番は魂で感じとる。本当に忌々しいものだ。
「すまなかった。あの時、俺は……俺は、君を……」
そのまま彼は、一歩、また一歩と近づいてくる。
誰に止められるでもなく、感情のままに言葉を重ねた。
「もう二度と離さない。今度こそ、守る。
俺は君の番だ、メル――」
そこまで言ったところで、横にいたユースティンが前へと一歩踏み出した。
完璧な貴族然とした立ち居振る舞いのまま、しかしその瞳には剣のような光が宿っていた。
「失礼だが、彼女は私の妻です。」
その声に、リュカミールの足が止まる。
戸惑いと混乱の色が彼の顔に浮かび、視線が再びシアレーネへ向けられた。
リュカミールの目に浮かぶのは、確かな戸惑いだった。
“番”であるはずの彼女が、なぜ結婚などという不可逆の道を選んだのか。
その視線を、シアレーネは真正面から受け止めた。
そして、何も言わなかった。
答えを与える義務などない。
問いに反応する必要もない。
彼女はただ、視線をゆるやかに逸らし、手にしていたグラスの脚を指先で回す。
わずかに目元だけを伏せて、涼しげに笑んだ。
まるで、そこにリュカミールという存在など、はじめからいなかったかのように。
それだけで、彼女の意志は明確だった。
「お前と話す気はない」と、貴族の所作と沈黙の矜持で示されたのだ。
過去に怯えるでもなく、未来に縋るでもなく。
今この場に立つ彼女こそが、“シアレーネ”そのものだった。
迎賓の晩餐会は、形式通りの礼をもって幕を下ろした。
シアレーネは最後まで、リュカミールに一瞥すら与えることなく、ユースティンとともに会場を後にした。
ただの貴族として、ただの正妻として。完璧に演じきって、屋敷へと戻った。
だが馬車から降り自室へ戻ろうとした瞬間、不意に後ろから腕を掴まれた。
「……あの男とは、どういう関係だ?」
声は低く抑えられていたが、怒りと戸惑いの色が滲んでいた。
ユースティンのいつも整った表情は歪み、抑えきれない感情が浮いている。
「話す義理はないわ」
冷たく言い放ち、彼の手を振り払おうとするが悲しいかな男の腕力では振り払えなかった。
「……君は、俺の妻だろう」
その言葉に、シアレーネはわずかに目を細めた。
苦笑のように、口の端を吊り上げて答える。
「だったら契約書、読み返してみます?“妻”ではあるけど、愛される対象にはならないはずよ」
「……っ」
彼女はため息をつき、掴まれた腕を今度こそ強めに振り払った。
目線を合わせることすらせず、続ける。
「面倒だから説明するけど、あの男とは昔の因縁があるの。
彼から逃げるために、私は“人妻”っていう立場が必要だった。それだけ」
そして一歩下がって、彼に笑みを向ける。
「貴方にも、愛しい恋人がいるんでしょう?まさか、私に焦がれてるわけ?」
その言葉にユースティンが言葉を詰まらせた隙に、彼女はそのまま自室へと消えていった。
「はぁ、全く…どいつもこいつも」
自室に戻ったシアレーネは、鏡の前で髪飾りを外しながら面倒くさげに愚痴をこぼした。
ふと焦がれる視線を送り続けるリュカミールを思い出し、シアレーネは笑みを溢した。
「……ふん。いくら番でも、他国の人妻に手を出す度胸はないでしょ」
鏡越しに映る自分の顔は、どこまでも冷静で、どこまでも勝ち誇っていた。
彼女は満足気にベッドに潜り込むと、ひとつ欠伸をして目を閉じた。
ようやく、“自由な夜”が始まった。
****
最後までお読みいただきありがとうございます。
数ある小説の中からこの小説をお読み頂き、とても嬉しいです。
少しでもシアレーネの快進撃を応援していただけるのでしたら・・
いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。