88 メアリーからの警告、沸き上がる焦り
新聞記事で過去のトラウマの記憶を無理やり引っ張り出してしまったのではないかと、俺は少し不安に思っていた。
いまだに夢にうなされるほど心に深い傷が残っている。
そんな彼女に、無理をさせてしまうのではないかと。
次の日、彼女から話を切り出された。
「昨日のこと、ひと晩考えたの」
「うん」
俺は静かに、彼女の言葉を待った。彼女は、ぽつりぽつり話し出した。
その声は、昨日の震えるような声とは違い、芯が通っているように聞こえた。
完全にはまだ過去は吹っ切れないだろうが、彼女は、お祭りに参加することで新たな一歩を踏み出す決意をしたようだった。
「町の人たちは私のことを偏見なく受け入れてくれて、私はすごく毎日が楽しいの。私なんかを押してくれる人たちの期待に応えたい。だから……」
彼女がよく口にする"私なんか"という言葉。
ここでも出た。
初めて会った時から思っていたけれど、彼女は自己肯定感が低すぎる。
その理由が今回分かったわけだが、これからは少しずつ変わっていってほしいと願っていた。
いつか、俺たちが離れる時が来ても、彼女には自信を持って進んでいってほしい。
「ストップ!」
俺は彼女の話を中断させた。彼女は、びくりと肩を震わせた。驚かせたかもしれないが、これは言っておかなければいけない。
「じゃなくて、"私なんか"って言うのはなし。みんなはエイラさんだから期待してるんだよ。だから、自分でそんな評価下げないで。君はもっと輝ける人だよ。だから、エイラさんが決めたなら、反対はしないよ」
赤い目をまんまるにして俺の言葉を聞いていた。
本当に、ここでは俺も含めて誰も彼女を傷つけたりしない。
自身を持ってほしい。
「…ありがとう、町長のお話は受けることにするわ」
彼女は、ちょっとはにかみながら、綺麗な笑顔でそう言った。
その笑顔に、俺は安堵した。
町長に正式に返事をしたことで、彼女の周りは目まぐるしく動き出した。
お祭りではその年に生まれた子供に祝福を授けることも大事な仕事らしい。
その際になんだか長い祝福の言葉を述べないといけないとのことで、その事に彼女は頭を悩ませていた。一番のメインは、町を歩きながら人々に祝福の花やおかしを配り歩くことだ。
「こんにちは!」
元気よくメアリーちゃんがやってきた。今日は見慣れない女性と一緒だ。大きな花柄のスーツに色眼鏡、洗練された雰囲気の女性だ。
「カイさん、初めてだよね?今日は私の師匠がエイラさんに会いたいって言うから連れてきたよ」
「始めまして。メアリーから聞いているわ。私は【ロゼ洋品店】のグレイシア・ロゼよ。この間のチューリップのケーキとてもきれいで美味しかったわ」
そう言って女性は挨拶をした。
この人がメアリーちゃんの師匠で、あの有名なデザイナーのマダム・ロゼか。
俺でも少しは知っている。
お高くて俺には手が出ないブランドだ。
本当にこの町の出身だったんだ。
俺を見て、マダム・ロゼは「あら、あなたもこの辺では見ないエキゾチックな顔立ちね。キモノが似合いそうね。東国の出身かしら?」と言った。
それを聞いたメアリーちゃんも「カイさんってそうだったの?!」俺は「一応…」とだけ答えた。
奥から出てきた彼女を見て、マダム・ロゼは感嘆の声を上げた。
「あなたがエイラね!聞いてはいたけれど本当に御子様そっくりね!」
マダム・ロゼの迫力に彼女は少しびっくりしている。
「嗚呼!創作意欲が燃えてきたわ!あなたにふさわしい衣装デザインしますからね!」
マダム・ロゼが彼女とあれこれ話している脇で、メアリーちゃんが俺に話しかけてきた。
「カイさん、知ってる?」
「何が?」
「この町では御子役って女の子の憧れなんだよ」
「どういうこと?」
「御子役は綺麗に着つけて、みんなから羨望の視線をもらえるんだよ。まあ、もともと磨けば光るような人が選ばれるってのもあるけれど、当日はとっても綺麗になって町をパレードするの」
「そこまでは聞いてるよ」
「それ聞いて、なんにも思わないの?」
メアリーちゃんが呆れたように言う。
「お祭りの日は近隣からもお客さんがいっぱい来るの!どういうことか分かる?」
「…ごめん、何言いたいのか全然分からない」
「んもー!去年までの御子役の人はそのお客さんの中の1人に見初められてお嫁に行っちゃったの。エイラさんなんて磨けばピッカピカになるに決まってるじゃん!」
メアリーちゃんの言葉に、俺は一瞬息をのんだ。
「…それって…」
「カイさん、うかうかしてらんないってこと!」
「一応、エイラさんは俺のお嫁さんだよ」
偽装だけど。
その言葉を飲み込み、俺はなんとかそう言った。
「カイさんの運命の人はエイラさんかもしれないけれど、エイラさんの運命の人は違うかもしれないじゃん。もしくは新しい運命の人が現れるかもだし」
「ちょっと、そんなのあり?!」
確かに、俺たちは偽装の夫婦だ。お互いの利害の一致で一緒にいるにすぎない。
だけど、それだけで他人同士は一緒に暮らせない。
お互い憎からず思っているからこの生活は継続できている…と思っていたが、そう思っていたのは俺だけか?
「さあね〜」
メアリーちゃんはそう、他人事のように言った。
ここでまた、運命の人の話が蒸し返されるとは。
「当日は、【ロゼ洋品店】が全面プロデュースでピッカピカに磨くから楽しみにしてて!」
「…テキトーに磨いておいて」
「はぁ?何言ってんの?楽しみじゃないの?」
そう言ってメアリーちゃんはマダム・ロゼと帰っていった。
俺は、店の窓から二人の後ろ姿をしばらく見つめていた。
「マダム・ロゼってすごくパワフルな人ね…」
彼女はマダム・ロゼの圧倒的存在感の余韻の中にいた。
「気合が入ってきたわ」なんて言っていた。
メアリーちゃんも気合が入っていたし、なんだか俺だけが置いていかれた気分だ。




