86 迷いを断ち切る、一歩踏み出す決意
その日の晩、私はひとりベッドの中で昼間の出来事を反芻した。
過去は私に大きな傷を残したが、もう、安心して前に進んでよいのだ。
彼が見つけてくれた新聞記事が、そう教えてくれた。
もう、あの悪夢に怯える必要はない。
お祭りか……。
あまり詳しくは聞かなかったが、御子様役に選ばれると確かお花を撒きながら町をパレードして、豊穣の祝福を与える……みたいな役だったはず。
その姿を、町の人々は、過去町を救ったとされる御子様を深く信仰している。
子供の頃から親から子に伝えられる女神様だ。
町の皆が私を押してくれるのは嬉しい。
この町の人たちは私を温かく受け入れてくれた。
その人たちの気持ちを、無下に断りたくもない。
この場所で、私は初めて人間らしい温かさに触れることができた。
だからこそ、皆の期待に応えたいという気持ちが、私の心の中で強く芽生えていた。
私なんかが務まるのだろうか。
御子様役は、町の皆の希望を一身に背負う、神聖な役目だ。過去に蔑まれ、傷つけられた私に、その資格があるのだろうか。
この間までだったら、このベッドに彼がいた。そうすれば、もっと、いろいろと話せたのに……。
少し前までは私たちは毎日同じベッドで眠っていた。
あの頃を思い出すと、今のこの距離が、ひどく遠く感じられる。
次の日、開店準備が一段落ついた時、私は決意を固めて、カイさんに話を切り出した。
「昨日のこと、ひと晩考えたの」
「うん」
彼は私の言葉を、静かに待っていてくれた。
「町の人たちは私のことを偏見なく受け入れてくれて、私はすごく毎日が楽しいの。私なんかを押してくれる人たちの期待に応えたい。だから……」
「ストップ!」
急に彼が私の話を遮った。私は思わず、びくりと肩を震わせた。
(え?私、何か良くないこと言った?)
急に不安になる。彼の顔を窺うと、怒っているわけではないようだった。
真剣な、しかし優しい眼差しで、まっすぐ私を見つめている。
「…カイさんは、反対?」
「じゃなくて、"私なんか"って言うのはなし。みんなはエイラだから期待してるんだよ。だから、自分でそんな評価下げないで。君はもっと輝ける人だよ。だから、エイラさんが決めたなら、反対はしないよ」
思いがけない返事をもらった。
彼の言葉は、私の心を縛っていた鎖を、音もなく解き放ってくれた。
そうか、今まで自分で自分の世界を狭めていたのかもしれない。
過去に受けた心の傷が、私に自信を持たせなかった。
けれど、彼は、そんな私を誰よりも先に否定せず、ありのままの私を肯定してくれた。
初めて会ったあの時から。
「…ありがとう、町長のお話は受けることにするわ」
「お祭り、楽しみだね」
彼は満面の笑顔で、私の決断を応援してくれた。
その言葉に、私の心は温かい光に満たされていくようだった。
数日後、約束通り町長は再度足を運んでくれた。
彼の表情は、前回会った時よりも、さらに期待に満ちている。
「奥様、いかがでしたかな?」
町長は興奮気味にそう尋ねてきた。
私は、背筋を伸ばし、まっすぐ町長の目を見て言った。
過去の恐怖は、まだ完全に消えたわけではない。しかし彼の言葉が、私の背中をそっと押してくれた。
「お祭りのお役目、お引き受けさせていただきます。よろしくお願いします」
私の言葉を聞いた瞬間、町長の顔が歓喜に満ちた。
「おお!こちらこそ感謝しております!お祭り、楽しみにしておりますぞ!」
町長は、満面の笑みで私の手を握り、深く感謝の意を伝えた。その手は、温かく、力強かった。
その日、私が御子様役を引き受けたというニュースは、瞬く間に町中に広まった。
お店に来た数人のお客さんが、お祝いの言葉をかけてくれた。
「エイラさん、やっぱり引き受けてくれたのね!よかった!」
「エイラさんしかいないと思ってたんだ!」
「本物の御子様だ!頑張って!」
皆、口々にそう言って、心の底から喜んでくれている。
少し恥ずかしかったけれど、決断してよかったと思った。
私はもう、過去の影に怯えながら生きる必要はないのだ。
この町で、この人たちと、そして彼と一緒に、私は新しい自分を始めることができる。
お祭りは、そのための第一歩なのだ。




