80 忘れたい過去、刻まれた痛み 後編
意識が浮上すると、まず感じたのは体の軽さだった。
背中の痛みは、嘘のように引いている。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
(私、眠っていたんだ……)
飲んだ薬が効いて眠ってしまったんだ。
時計を見ると15時。
1日が終わってしまう。
とても、お腹が空いた。
朝も昼も食べてないから仕方ないか。
私は着替えて1階に降りた。
なんだか美味しそうな匂いがする。
厨房を覗くと、カイさんが何か作業をしている音がする。
彼の顔を見るのが、少し気まずい。
恐る恐る厨房の扉を開けると、彼はエプロン姿で、鍋をかき混ぜていた。湯気と共に、おいしそうな匂いが広がる。
「カイさん……」
私の声に、彼が振り返った。
「エイラさん!大丈夫か?もう起きて平気なのか?」
「うん、もう大丈夫。薬が効いたみたい。ごめんね、せっかくの休日に……」
私が申し訳なさそうに言うと、彼はふっと笑った。
「馬鹿だな。エイラさんが元気になってくれるのが一番だ。それより、お腹空いただろ?ちょうど作ってたんだ」
そう言って、彼が見せてくれたのは、野菜がゴロゴロと入ったスープだ。
「スープならなんとかできるから。でも、なんか野菜の大きさバラバラになっちゃったけど」
そう、笑いながら言った。確かに、私が作るよりは不揃いだ。
その不器用さが、かえって彼の優しさを感じた。
「ありがとう……」
こんなにも心配して、私のためを思ってくれる人がいるなんて。
「アイスクリームはさ、いつでも行けるから」
彼の言葉に、私は、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、私のお腹が、彼にも聞こえるようにグーと、大きく鳴った。
自分でもびっくりするほどの大きな音だった。
顔がカッと熱くなる。
「あはは。野菜スープだけじゃ足りないよね」、と彼は大笑いした。
彼の朗らかな笑い声が、厨房いっぱいに響き渡る。
ものすごく恥ずかしいけれど、その笑い声が、妙に心地よかった。
その後、もともとあった肉を焼いて、二人で夕食にした。食卓には、温かいスープと香ばしい肉の匂いが満ち、いつも通りの食卓。
私はあの傷のことを聞かれるんじゃないかと内心怯えていた。
他所で、私がどれだけ蔑まれていたのかを説明する勇気がない。
しかし、彼は、私がどんな過去を抱えていようとも、それを詮索することなく、いつも通りに接してくれた。
その夜、彼と食卓を囲む時間は、何気ないようでいて、私にとっては何よりも大切で、温かいものだった。
その数日後。
「エイラさん、いいもの見つけたんだ!」
そう言って、私に火バサミを買ってきてくれた。
もううちには火バサミがあるはずなのに、なぜ?と思っていたら、彼はにこやかに続けた。
「これなら、薬を塗るのももっと楽になるんじゃないかなって」
なるほど。
火バサミで薬を付けたガーゼを挟んだら、手の届かないところまで塗れる。
「カイさん、頭いい!」
私が素直に感嘆の声を上げると、彼は「大げさだよ」と、ちょっと照れたように言った。
そして、ちょっと真面目な顔になって私に言った。
「俺から言っといてアレだけど、嫁入り前の娘さんがあんなふうに肌を出しちゃ駄目だからね」
「…気を付けます…」
彼なりに私を心配しての言葉なんだと思う。
私は答えながら、矛盾を感じた。
(私は仮だけどあなたに嫁入りしたんですよ)
彼にとって、私は「嫁入り前の娘さん」なのか。
確かに間違いはないが、間違っているような。




