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78 女神の背中、語られない傷物語


静かな朝の異変

休日の朝は、いつもより少し遅くまで眠るのが常だ。


それでも、たいていは彼女のほうが先で、俺が少し後から起きることが多かった。


一緒に寝ている間は片方が起きたら物音で目を覚まし、お互い起きるという感じだった。


離れて寝るようになって数日、今日は珍しく俺のほうが早かった。

昨日の残りのスープと、パンで簡単に朝食。


新聞を読みながら、今日の予定を考える。

橋向こうの方に新しいアイスクリームショップができたと聞いた。

昨日、彼女も行ってみたいと言っていた。

日差しに弱い彼女だが、今日は曇り時々雨雨。普通の外出ならともかく、彼女にはちょうど良い天気だ。



疲れてて行きたくないと言うなら、リーゼさんのところに新しい本でも探しに行くかな。

まぁ、それも彼女が起きてから決めよう、そう思いながら過ごしていた。


しかし、時間が経っても彼女が起きてくる気配がない。

たまに遅い時があっても、お腹が空いて起きてくることが多い。



(ずいぶん疲れているのかな。まあ、たまにはこんなこともあるだろう)

最初はそう思っていた。しかし、時計の針がもう正午を指している。

いくらなんでも、起きるのが遅すぎる。

普段はどんなに疲れていても、こんな時間まで寝坊する彼女ではない。

何かあったのではないかという嫌な予感が、俺の胸にじわりと広がった。



立ち上がり、寝室の扉に近づいた。耳を澄ますが、物音一つしない。不安が募り、ゆっくりと扉を開けた。

今日は雨のせいか、いつもより薄暗い寝室に、彼女はまだベッドの中にいるようだった。

乱れた布団の中で、その身体は微動だにしない。

「エイラさん?」 声をかけるが、反応がない。その姿を見て、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。


何かがおかしい。俺は慌てて彼女の傍らに駆け寄った。



布団をそっとめくると、そこに横たわる彼女の顔は、見るも無惨なほど真っ青だった。

額には冷や汗がびっしょりで、呼吸も浅く、苦しそうだ。


「エイラさん!どうしたんだ、しっかりしろ!」


俺は彼女の肩を揺すった。彼女は、ゆっくりと目を開けた。

その瞳は潤んでいて、苦痛に歪んでいた。


「…っ、カイさん…」



掠れた声で、俺の名前を呼ぶ。その声を聞いて、俺はさらに動揺した。

彼女が、ここまで苦しそうな姿を見せるのは、ほとんどないことだ。


「どこか痛むのか?気分が悪いのか?」


「…大した事ないから…」


「いやいや、尋常じゃないよ。病院行く?」



「…背中の傷が痛くて…」


「傷?」


「前に怪我をしたところが痛くて…」


初耳だった。


「…どうすればいい?なんかできること、ある?」


「…水…薬、飲むから水欲しい…」


「分かった」


そう言って、俺は水を取りに1階に降りた。

傷って何だ。

今まで痛い素振りなんて1度も見たことがない。


コップに水と濡れたタオルを持って部屋に戻った。

「薬、どこ?」


「…その棚の中の赤い缶にある…」

指示された通り薬を探し出して彼女のもとに戻る。

「起きれる?」


返事がない。


俺は極力背中を触らないように前から脇の下に手を入れて起こした。


「水、飲める?」


弱々しく頷く。


口に薬を入れてやってコップを口元に近づけると何度か小さく嚥下した。


くったり力の抜けた体を支えながらタオルで顔と首元の汗を拭ってやる。


「こういうの、今までもあったの?」


「…季節の変わり目とか…あと、最近忙しくてサボってあまり薬も塗ってなかったから…それに手が届かないところもうまく塗れなくて…迷惑かけてごめんなさい、」



細いい声で謝ろうとする彼女を見て、俺の胸は締め付けられた。


彼女はいつも、自分のことを後回しにしがちだ。


こんなになるまで、痛みを我慢していたのか。


もっと早くに声をかければよかった。


「塗る薬もあるの?」


彼女は頷く。


「…塗ったほうが楽になる?」


「飲んだ薬が効いてきたら塗る…」


「それっていつ効くの?」


「1時間くらい…」


「1時間もこのまんまなの?!」

こんなに苦しそうなのに1時間もかかるなんて。


銀色のまつ毛がずっと閉じたままだ。目を開けるのも億劫そうだ。



少し、考えた。

一応提案してみる。

「…っ、もし、エイラさんの許可があれば…、薬ぬるの、俺が手伝うけれど…」



俺の言葉に、少し目が開いた。

彼女の瞳が揺れた。

痛みと、何か。

その二つが、彼女の中で激しくぶつかり合ったのだろう。

しかし、彼女の顔色からして、痛みは相当なものなのだろう。



俺は、一呼吸置いて、言葉を続けた。


「…変なところは触らない。ただ、薬を塗るだけだ」



彼女は、しばらく考え込んでいた。その間に、俺はただ、彼女の決断を待った。

焦らせてはいけない。


そして、彼女は、ゆっくりと、しかし確かな声で言った。


「…っ、お願いします…カイさん…」



彼女が、俺を信頼してくれた。その事実が、何よりも嬉しかった。





彼女は、ゆっくりと身体を起こし、後ろを向いてベッドに座り直した。


そして、躊躇いがちに、着ていた寝衣を肩まで下ろした、と思ったら袖を抜き、もっと下まで肌がをあらわにした。



上半身、全部。





その瞬間、俺は息を呑んだ。



てっきり、肩口をめくったら出てくる程度の傷だと思っていたからだ。


そこにあったのは、俺が想像していたよりも、はるかに壮絶な傷跡だった。


右肩から、左の腰まで、バッサリと斜めに走る、大きな、そして深く刻まれた白い傷跡。

その傷は、まるで鋭い刃物で、彼女の柔らかな肌を容赦なく切り裂いたかのような、生々しい軌跡を残していた。


彼女が、話さない過去の物語。


それが白い肌の上で、くっきりと浮き上がっていた。




しかし、その傷跡の痛ましさとは裏腹に、薄暗い中に浮かび上がる彼女の背中は、どこか神々しいほどに美しかった。


なめらかな白い肌。そして、彼女が掻き上げた銀髪は、首筋で緩く弧を描き、その下の白いうなじが、息を呑むほどに艶めしかった。その対比に、俺は思わず、ごくりと喉を鳴らした。


この美しく、そして脆さも持ち合わせた身体に、こんなにも深い傷が刻まれているなんて。




俺は、渡された薬缶から薬をすくい、ゆっくりと彼女の背中に塗っていく。


これに触れていいのか一瞬、躊躇した。


俺の指が触れるたびに、彼女の身体が小さく震えるのがわかった。


「冷たかった?」


俺が尋ねると、彼女は小さく首を振った。俺は、傷跡の隆起に沿って、指を滑らせる。


触るだけでも痛いのかどうか、加減が分からず恐る恐る薬を塗り拡げていく。


その指先から、彼女の身体の熱が伝わってくる。

(この傷は、一体何なんだ…?)

聞きたい。


どうして、こんなにも深い傷を負ったのか。どんな過去を経験してきたのか。


彼女の壮絶な過去を想像して、俺の胸は締め付けられた。


しかし、俺は何も聞けなかった。



無理に聞き出すことは、今の彼女には、さらなる負担になるだけだ。

触るだけでも痛いのか、加減が分からず薬を塗り拡げていく。


俺の手は、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の傷全体に薬を塗り広げていく。

身体から、次第に強張りが解けていくのがわかる。


「…っ、ありがとう…カイさん…たぶん…もう大丈夫。」

彼女の声が、少しだけはっきりしてきた。

俺は、その言葉に安堵した。


寝巻を着直し、袖を通した。


「アイスクリーム、すごく楽しみにしてたのに、約束…ごめんなさい…なんか、今日薬、効くの早…い…」


と、言いながら背中を向けたまま倒れてきた。

温かく、柔らかい彼女の身体の感触が、俺の腕の中に広がる。


「気にしないから、いつでもいいから。調子がいい時な行こう、ね」


「…うん…でも、本当に、楽しみにしてたの…」




…眠くなる薬だったのか



いつの間にか、俺の腕の中で静かに寝息を立てていた。

目にはうっすら涙が浮かんでいた。


たぶん、夜もずっと眠れないくらい痛かったのだろう。


(アイスクリームなんて、いつでも行けるよ)



彼女の隠された過去の片鱗に触れ、俺の心は今まで以上に強く彼女へと傾いていた。





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