74 二度寝を破る、突然の訪問者 リーゼさん襲来
バレンタインデーの騒動が終わり、薬菓工房【月の光】には、ようやく穏やかな休日が訪れた。連日の激務と、ダニエルの一件……俺たちは心身ともに疲労困憊していた。
休日の朝。いつもの時間になっても、起き上がることができなかった。
鉛のように重い体が、布団から離れることを拒んでいる。隣の彼女も珍しく寝坊しているようで、規則正しい寝息が聞こえるだけだった。
この寝顔を見ていると、昨日までの疲労も少しだけ和らぐ気がした。
(今、俺が動いたら、きっとエイラさんを起こしてしまうな……)
そう思うと、ますます体が動かない。バレンタイン前の数日は、遅くまで仕込みや準備があった。それに、ダニエルからの無謀な依頼。早朝から夜遅くまで働き詰めで、まともに睡眠を取れていなかったのだ。この疲労は、まさに努力の証。
彼女の隣で、穏やかな寝息を聞いていると、これまでの苦労も報われるような気がした。
(休みだし、二度寝も許されるだろう)
そう自分に言い聞かせ、抗うことなく再び眠りの海へと落ちていった。
温かい毛布と、隣から伝わる彼女の体温が、深い眠りへと誘う。ずれていた毛布を引っ張って、さらに心地よい温もりに包まれた。このまま時間が止まってほしい、とさえ思った。
カランカランカラン――。
心地よい眠りを破るように、ベルの音が響いた。店のドアに付いているベルではない。
居住スペースの方の玄関ドアのベル音だ。
俺も彼女も、同時に目を覚ました。
誰だろう。店が休みだというのに、あえて居住スペースの方を訪ねてくるということは、緊急の用事だろうか。
俺は少し身構えた。
「俺が出るから」
そう言って、俺はベッドから体を起こし、慌てて上着を羽織った。
寝間着姿のままだが、緊急かもしれない。
玄関の戸を開ける前から、元気な声が聞こえてきた。
「私よ私!いるわよね!」
リーゼさんだ。
その声を聞いて、俺は少し警戒を解いた。
鍵を開けてリーゼさんを中に招き入れる。
「おはようございます、リーゼさん。どうしたんですか?」
尋ねると、リーゼさんは寝間着姿の俺を見て、呆れたようにため息をついた。
「あら、寝間着?まだ寝てたの?もう十時よ」
リーゼさんの言葉に、慌てて時間を確認した。確かに、もう午前10時を回っている。
普段ならとっくに起きている時間だ。
「で、エイラちゃんいる?頼まれたやつ持ってきたわよ!」
リーゼさんの声が響くと、見えないところで様子を伺っていた彼女が、ひょっこり顔を出す。
こちらも寝巻きで、髪もちょっと乱れている。
彼女はうきうきとした表情で姿を現した。
リーゼさんの手にある、紙袋に入った箱のようなものを見て、その瞳がキラキラと輝く。
「あれですね!」
彼女は、リーゼさんから紙袋を受け取ると、興奮したように言った。
「今、お金持ってきますね!」
そう言って、彼女は一旦引っ込んでいった。その間に、リーゼさんは俺に説明を始めた。
「首都の実家に里帰りしてたの。その時にね、エイラちゃんに頼まれてたのを持ってきたのよ。首都の有名パティスリーのお菓子のおつかい頼まれたの」
「あー……」
俺は、曖昧な返事をした。そういえば、以前、彼女がそんなことを言っていたような気もする。
だが、バレンタインの忙しさにかまけて、すっかり忘れていた。
「それにしても、ふたりしてずいぶんお寝坊ね。昨日、頑張っちゃった?」
リーゼさんは、ニヤニヤしながら、からかうような口調で言った。その言葉に、俺の顔は一瞬で熱くなる。
「なっ!違いますから!仕事が忙しくて寝不足で寝坊しただけですから!」
必死に否定したが、その必死さが、かえってリーゼさんのからかいを助長する。
リーゼさんの目は、まるで獲物を見つけた狩人のようだった。
「あらあら。大丈夫よ。誰にも言わないから」
リーゼさんは、さらに面白そうに笑った。
(もう、やだ、この人……)
俺は心の中でそう呟いた。
これさえなければ、本当にいいお姉さんなのに。
「何話してたんですか?楽しそうに」
いつの間にか戻ってきた彼女が、キョトンとした顔で尋ねてきた。
手には財布が握られている。その純粋な瞳が、俺の心臓を締め付ける。
「大したことじゃないわ。仲良いわねって話」
リーゼさんは、悪びれる様子もなくそう言った。彼女は、なおも不思議そうな顔をしているが、リーゼさんは彼女の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。
彼女は、リーゼさんの言葉の意味が分からず、俺に視線を送った。しかし、俺の視線は、明後日の方向を向いている。
リーゼさんの言葉を、彼女にどう説明すればいいのか。
そもそも、自分たちの関係を、どう弁明すればいいのか。
いや、「夫婦として」は正解だ。
偽装とはいえ、世間からは間違いなく夫婦として見られているのだから。
しかし、そのことを彼女にどう伝えるべきか、言葉に詰まる。俺は、ただただ、この場から逃げ出したい気分だった。リーゼさんのからかいと、彼女の純粋な視線に挟まれ、俺はは内心で大きくため息をついた。




