71 バレンタイン狂騒曲、甘い期待を胸に
ダニエルのメアリーちゃんへ送るお菓子は4つのチューリップを模したカップケーキに決まり、試作を重ね、なんとか完成した。
時間がない中、彼女は頑張ったし、俺もクッキーのアイシングとやらを手伝った。
赤、白、黄色、紫に色を付けたバタークリームでチューリップを模して。
なんならグラデーションも付けて、キラキラする飴細工やらクッキーやらを飾りとても見栄えのするカップケーキが4個出来上がった。
「「すごくかわいい…」」
そのかわいらしさに思わず声が漏れた。
俺たち2人の感想だ。
ダニエル君には当日の夕方取りに来るように言ってある。
彼がしっかり思いを伝えられることを願った。
結果までは責任は持てないが。
バレンタイン当日は冷え込んだ日にもかかわらず、朝から大盛況だ。
店の扉の開閉の鈴の音が鳴り響き、客足が途絶えることがない。
ショーケースにはガトーショコラ、チョコレートケーキ、オペラケーキ、チョコのシフォンケーキ、トリュフチョコレートに缶に入ったクッキーなどなど、ここ数日は寝る間を惜しんで2人で作業した努力の結晶がずらりと並んでいた。
俺だって何個トリュフチョコレートを丸めたか分からないほど作った。
これらがショーケースに並ぶと、いつも以上に華やかで、店全体がチョコレートの甘い香りに包まれた。
「エイラさん、こっちのガトーショコラ、もうなくなっちゃいそうだよ!」
俺が声をかけると、彼女は手際よく奥から新しいガトーショコラを奥から運び出す。
(よし、この調子なら、先月の赤字もきっと解消できるぞ!)
俺の心は高揚していた。寒波や薪の思わぬ出費で痛手を受けた分も、このバレンタインの盛況ぶりなら、きっと挽回できるだろう。
そして、もう一つ、俺の心を占めていたのは、彼女からの「バレンタインの贈り物」への期待だった。
クリスマスだってプレゼントをくれた。
偽装とはいえ、日頃から何かと世話を焼いてくれる彼女のことだ
きっと今日も何かくれる、俺は根拠のない自信があった。
実はこれまでの人生で、きちんとバレンタインをもらったことがない。
この間から、彼女からさんざん追及されている、過去の遊んでいた時期を含めても記憶がない。
店の忙しさは、想像をはるかに超えていた。
朝からひっきりなしに客が訪れ、2人は休む間もなく動き続けた。
トリュフの箱詰め、ケーキのカット、接客……。まるで戦場のような一日だった。
そして、約束の時間にはダニエル君も訪れ、無事、例チューリップの特別なカップケーキの引き渡しが完了した。
チューリップの色の意味の花言葉を教え込んで渡した。
あとはダニエル君の頑張り次第だ。
彼の緊張した横顔を見て、俺たちはエールを送った。
閉店時間になる頃には、ショーケースの中はすっかり寂しくなっていた。
残っているのは、ごくわずかな焼き菓子だけだ。
「カイさん、すごかったわね、今日!こんなにお店が忙しくなるなんて!」
彼女は興奮したように俺に話しかける。こちらも、疲労困憊ではあったが、彼女の言葉に頷いた。
「ああ、助かったよ、エイラさん。これなら、赤字も一気に解消できるな!」
2人は、忙しさの中で、喜びを分かち合った。
店のカギを締め、掃除をし、いつもの閉店作業をする。
彼女は「おなかがすいた~」と言って夕食の準備をしている。
(あれ…?)
そうは思ったがこちらも空腹だったので閉店作業を終え、早々に家の中に戻った。
普段通りの夕食。今日の反省をしつつ、数個売れ残った店のケーキを食べ、お茶を飲んで。
いつも通り。何の変哲もない日常。
片づけが終わったあと彼女は「疲れた~、お風呂に入って早めに休むわ」と言いながらとっとと行ってしまった。
(…何も、ないのか?いやいやいや、まだ寝るまで時間がある)
その後も、
「あ~さっぱりした。次、どうぞ」
そう言って彼女は寝室に行ってしまった。
この時点であやしい予感がしていた。
風呂に入りながら思い出す。
忘れもしない、寒波3日目。
ベッドの中でバレンタインのメニューの確認をした時。
《ブランデーが入ったチョコのケーキも食べたい》
ひそかにリクエストしていたのに。
店のメニューにもなかった。
もしかして俺だけにサプライズで作ってくれたのかとひそかに期待したがなんだか雲行きがあやしくなってきた。
風呂から上がり、最後の望みをかけて寝室に向かう。
もしかしたらという期待を込めて。
寝室に入ると彼女は向こうを向いて寝ていた。
分かる、ここ数日遅くまで作業をしていて寝不足なのは!
俺は恥もプライドも捨てて彼女の肩をゆすって起こした。
「忘れてた、はい、これ」という言葉を期待して。
「エイラさん、エイラさん、ちょっとなんか忘れてない?」
「…え?あれ?私ベットに入ったらすぐ寝ちゃった?」
そう目をこすりながら不思議そうにこちらを見た。
「カイさん、どうしたの?」
その言葉に、俺の心は一瞬で冷え込んだ。まさか。
「いや……その、今日は……バレンタインデー、だろ?」
俺が恐る恐る言うと、彼女キョトンとした顔の後、ハッと目を丸くした。
「あっ……!」
返事を聞かなくても、もう顔に書いてあった。
「ご、ごめんなさい、カイさん!私、カイさんの分、すっかり忘れてたわ!あまりにも忙しくて、頭から飛んでしまってたの!」
彼女は、顔を真っ赤にして、両手を合わせて何度も謝った。
頭を下げ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「えっ……本当に?」
俺の心は、期待が大きかった分、一瞬で奈落の底に突き落とされたような気分になった。
自意識過剰だったのだ。
しょせんは偽装の夫婦で、彼女が個人的に俺にチョコレートを贈る義理なんてない。
ましてや、これほど忙しい中で、そんなことを期待していた自分が、ひどく滑稽に思えた。
「いや、俺が、自意識過剰だったよな。起こしてごめんね。まあ、偽装の夫だからな……そんなこと、期待する方が馬鹿だったよな……」
思わず、そんな弱音が口から漏れてしまった。
「な、何言ってるのよ、カイさん!そんなことないわ!いつも私を助けてくれて、感謝しているわ!」
ベットに腰かけて背中を向けた俺に、彼女は俺の腕を掴んで必死に謝る。
「私が悪かったのよ!ごめんなさい、本当にごめんなさい!あのね、カイさん!今からでも、何か作れるものはないかしら?ちょっとしたものでも……」
彼女は、厨房に行こうとする。彼女の腕を掴んで静止し、俺は力なく首を横に振った。
「いいんだ、エイラさん。今日じゃなきゃ意味がないんだよ。疲れてるだろうし、今日はもう、休んでくれ」
自分でも面倒くさいこと言ってるのは分かるが、つい八つ当たりのように言葉が出てしまった。
「ねぇ、カイさん。顔を上げて。お願いだから……」
彼女は、俺の顔を両手で挟み込み、無理やり自分の方に向けた。
「私が悪かったから。だから、元気出して……」
俺の頬に触れたその温かい掌が、心は冷え切っている俺の頬を優しく包む。
「じゃあ、あとでなんでも言うこと聞くから、あと、何でも作るから!で、来年は忘れないから!」
一生懸命に俺の機嫌を取ろうとしているのが分かる。その真剣な表情と、必死な様子に、少し癒された。
「わかった、わかったから。もういいよ。来年、よろしくな…」
そう呟く俺の言葉に、彼女は顔を上げ、俺の顔をじっと見つめた。
その瞳には、申し訳なさとともに、来年こそは、という強い決意が宿っているように見えた。
彼女の真剣な謝罪に、ちょっと笑ってしまった。ちょっといじめ過ぎたか。
真面目で、必死な姿を見ていると、もう怒る気にはなれなかった。
初めてのバレンタインデーは仕事では大成功だったが、2人の間にはちょっと苦い記憶として残ってしまった。
どこで切ったらいいか分からなくて今日はちょっと長め




