69 夢か現実か、悪夢からの目覚め
あれ? ここ、どこ?
薄暗い、薬草の匂いのする部屋。なんだか懐かしいような、ひどく嫌な予感がする。
「オルウェン、社長が呼んでいる」
そう誰かに言われて、社長に会いに行くところだった。
誰かって誰だっけ?なんだかぼんやりする頭で、記憶の霧をかき分けようとする。意識が曖昧で、だれに言われたのか思い出せない。
気が付くと、私は女社長の前に立たされていた。
彼女の顔は薄暗い部屋の中でも妙に生々しく見えた。
急に頭に強い衝撃があり、私は数人の男に押さえつけられた。
冷たい床に顔を押し付けられ、身動きが取れない。
「二つあるあなたの目と耳、ひとつずつ頂戴。大丈夫、ひとつになっても死にはしないわよ」
社長が、鋭いナイフを手に、ゆっくりと私に近づいてくる。
その刃がきらりと光るたび、心臓が恐怖で凍り付いた。
「…無理です!なんでこんなことを!」
私は抑え込まれた状態で、必死に抵抗する。
男たちの腕が、まるで重いの枷のように私を拘束する。
「あなたのような異形の体は良い薬になるのよ。欲しがる人がたくさんいるの」
社長の言葉は、まるで常識を逸脱した狂気の響きだった。
「人の体が薬になるなんて嘘!製薬商の癖にそんな知識もないんですか!」
私は怒りに震えながら叫んだ。
「薬効なんてどうでもいいの。欲しがる人がいる、お金を出してくれる人がいる限り望まれる薬を作るのよ。大丈夫、前のあの子たちみたいにすぐには殺しはしないわ」
「前の…?」
社長は、私の反応を見て、口の端を吊り上げた。
その笑顔は、私を底知れぬ恐怖に突き落とした。
「気づいていなかった?あなたが来た頃にいた褐色肌の金の瞳のあの子」
私が勤め始めたころに、そういえばそんな人がいた。
でも、間もなくその人は見かけなくなった。てっきり辞めたんだと、気にもしていなかった。
まさか、そんな理由だったとは。
「ちょっと血を抜きすぎたら死んじゃってね。あれは失敗したわ。でもそのほかのパーツはそれなりに使えたから良かったけれど」
辞めたんじゃなかったのか。あの人が、そんな目に……。背筋に冷たいものが走った。
「パーツ…?」
「惜しいことをしたわ。でも、骨や臓器はありがたがってくれる人がいたからいいお金になったわ。あんな異形の人間そうそういないもの。だからあなたは死なない程度に生かして飼ってあげる。死ぬまで。」
「…殺したの…?」
社長の言葉が、私の頭の中でぐるぐるとめぐる。
私の体から、一気に血の気が引いていく。
「あなたたち異形の者は生きづらかったでしょう?だから私が拾って飼ってあげていたの。ここは住みやすかったでしょう?ペットを生かすも殺すも飼い主の自由よ」
そう言って、何が楽しいのかおぞましい笑顔を張り付けて私の顔に手を掛けた。
その冷たい指先が、私の頬を撫でる。
「綺麗な瞳、こんな赤い瞳は後にも先にもあなただけかもね。だからとりあえずひとつだけ」
異常だ。
この女は狂っている。私の心臓がバクバクと脈打つ。
このままだと本当にやられる。
生きたまま、解体されてしまう。
社長が私の顔に手をかけた瞬間、渾身の力を振り絞り、社長の腕に噛み付いた。
社長の悲鳴が聞こえる。
「ぎゃあ!何するの!」
わずかに私を拘束していた男たちの力が緩んだ。
その隙を逃さず、私はそこで拘束していた男の一人の顔面、特に鼻と目を狙って拳を食らわせた。
鈍い音と共に、男は意識を失った。もう一人の男には回し蹴りを一発。
幸い男たちは武術に長けているわけではなかったので、それで沈んでくれた。
だが女社長は、異常な目つきでナイフをナタに持ち替えて私に襲い掛かってくる。
もう、話は通じない。
言葉にならない奇声を上げて、血走った目でナタを振り回している。その刃が空を切る音が、恐怖を煽る。
どうしたらいいの?このままだと殺される!
ここは3階。
窓の外に大きな木が見える。
あそこに飛び移れば地上に降りられるか。
…たぶん、私ならいける。見世物小屋で鍛えたバランス感覚がこんなところで役立つなんて。
私は迷わず背を向けて窓に向かった。
窓に手を掛けたが開かない。
「逃がさないわよ」
女社長が恐ろしい顔で近づいてくる。
ナタが振り下ろされる気配がする。
窓さえ開けば逃げられるのに!!
もどかしい、カギはかかっていないはずなのに、どうして開かないの?!
焦りで息が詰まりそうになる。
ガチャン!
寸でのところで窓が開いて、私は窓枠に足をかけ、外に飛び移る体制に入った。
しかし、その瞬間、背中に強い衝撃が走った。
「…あああ!」
痛いを通りこして熱い。
一拍置いて、生暖かいものが背中全体に広がっていく。
振り返ると、社長が私の返り血を浴びて立っていた。
手に持っていたあのナタで、私の背中を切り裂いたのだ。
彼女の顔は、血に濡れてなお、歪んだ笑みを浮かべていた。社長は再びナタを振り上げた。
もうダメだ、殺される――。
「エイラさん!!」
はっと目が覚めた。彼の焦った声が、耳元で響いている。
彼に強く体を揺すられて目が覚めたようだ。
背中は…痛くない。
「大丈夫?なんかすごいうなされてたよ」
彼の心配そうな顔が、視界に飛び込んできた。
「…ここ、どこ・・・?」
まだ夢の感覚が脳裏にこびりつき、現実と区別がつかない。
「どこってウチでしょ。薬菓工房の2階、エイラさんの部屋」
彼の言葉に、ゆっくりと意識が覚醒していく。
見慣れた部屋、見慣れた天井。
そして、隣にいるのは、私と偽装の夫婦の契約をしたカイさん。
一瞬の間で私はあの時から”今”に戻ってきた。
「あ…カイさん?」
「そうだよ、どうしたの?」
「…今のは夢…?」
私の言葉に、彼は不思議そうな顔をした。
「夢見てたの?」
「…夢…、だけど夢じゃない…」
そう、あの悪夢は、私が実際に経験した過去の出来事。
頭では夢だと分かっていても、身体がその痛みを覚えている。
「どういうこと?本当に大丈夫?また熱出た?」
そう言って彼は私のおでこに手を当てて、確認している。
私は彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
あったかい…
この、感覚は現実だ。
間違いない。
あれは、もう過ぎたことなのだ。
「熱、ないよね?大丈夫?新メニューとか、根詰めすぎて疲れてるんじゃない?」
「本当に大丈夫。ただ、夢見が悪かっただけだから。ごめんなさい、起こしてしまって」
前はたまにこういう夢を見ることがあったが、ここに来てからは初めてだ。
この町での穏やかな生活が、あの忌まわしい記憶を遠ざけてくれていたはずなのに。
「いや、それはいいんだけれど…」
彼は、私の様子に納得がいかないようだった。
彼の顔には、心配と、少しの困惑が浮かんでいる。
「…私を見つけてくれてありがとう…」
「え?何、急に」
あの日、路地裏でぶつかった時、その後偶然にも不動産屋で再開した時、声をかけてくれたこと。
全部が今に繋がっている。
「…急じゃない、いつも思ってる…」
重ねた手は、いつの間にか握られていた。
私はその手を握り返した。
彼の温かさが伝わってくる。
「…本当に大丈夫?寝ぼけてる?」
「…そうかも」
私はそう、ごまかした。
起こしてもらわなかったら夢の中で私の体は解体されていたかもしれない。
今まで一人でこの悪夢に耐えていたが今日はこの人が、私をその悪夢から救い出してくれたのだ。




