43 年末の騒動、回し蹴りとジャスミンの香り、切ない予感。後編
「…カイさん!カイさん!!」
泣きべそかいたメアリーちゃんに体をゆすられて気が付いた。
尻もちをついた状態で壁に寄りかかっていた。 痛む額に手を当てるとぬるりと生温かい感触。
「…痛って。俺、どのくらい寝てた?」
「たぶん、1分とかそんなもん。それより、カイさん、エイラさんが!」
そうだ!男がエイラさんに掴みかかって、それで…!!!
「エイラさんどこ?!」
店内にはいない、さっきまでいた客も半分くらいに減っている。
一緒に飲んでいた若者のひとりが教えてくれた。
あのまま店の外に連れて行かれたと。
何人かの男たちも止めに入ってくれたが手に負えないと。
まずいだろう、これは。
脳震盪のせいか、うまく立てない俺をメアリーちゃんとダニエルが支えてくれた。
外では例の男とエイラさんを中心に揉めている。
相変わらずエイラさんの胸ぐらを掴んだままだ。
どうする?もう、話し合いでは無理だ。
憲兵を呼ぶか? いや、時間がない。
俺は覚束ない足取りで男に体当りしたが、こっちはフラフラ、あちらは大男。
びくともしない。 エイラさんの胸ぐらをつかんでいない手で俺は再び男に殴られた。
「…カイさん!!」
彼女の叫び声。
「…私の夫に何するの?!」
そう叫んだかと思ったら男の顎下に突き上げるようなパンチを食らわせた。
ふらついてエイラさんから腕を離した男はあろうことか、今度は彼女に殴りかかろうとした。
俺が最初にうまくやっていればこんなことにならなかったのに!
その瞬間、ふわりと男から身を躱し、少し距離を取ったと思ったらエイラさんは体を回転させながら飛び上がり男の顔めがけて回し蹴りを食らわせた。
いつもはきちんと結われている三つ編みがいつの間にか解けて暗闇に長い銀の髪が月明かりを反射して、風に揺れていた。
その姿は人ではない、なにか神々しさを感じた。
ゾッとするようななんの感情も感じられない顔。
目だけは血のように燃え、たが氷のような冷気も感じる。
はじめ、出会った頃の顔だ。
近寄りがたいほどの美しさと、冷酷さ併せ持ったような。
彼女の強烈な一撃で大男は静かに地面に沈んだ。
群衆も、あまりの出来事に誰も声を出せずにいたが、やがて静寂を破るように、「うおおおおお!」と歓声が上がった。
「女神だ…!」「すげえ…!」「お姉さま…!」「あの男ざまぁみろ!」口々に彼女を褒め称える声が響き渡る。
音もなく着地した彼女は、群衆の喝采など耳に入っていないかのように、すぐさま俺に駆け寄ってきた。
意識のはっきりしない俺と、俺の怪我を見て泣きそうになっている彼女にはそれがどこか遠くに聞こえる。
「カイさん!血が出てる!大丈夫?!なんでこんな危ないことを!」
いやいや、危ないことは君でしょ。
そうは思ったが俺は2回連続で殴られたせいか何だか意識がはっきりしない。
結局、大男は憲兵に連れて行かれ、俺たちは居合わせた若者に支えられ、なんとか家に帰ってきた。
少し時間がたってやっと意識がはっきりしてきた。
ソファーに座っている俺の向かいに椅子を持ってきて、俺の傷口を洗って薬を塗ってくれる彼女。 血は出たけれど傷自体はそれほど深くはなかったようだ。
でも明日は頬とか腫れそうだ。
口の中も切ったみたいで痛い。
あ、右手首も少し捻ったか?違和感が。
まあ、骨折してないだけマシか。 俺を抱えた時についたと思われる血がワンピースの胸元あたりについている。
首元は強く掴まれたせいでシワシワだ。
確か、あれって最近買ったばかりのワンピースだよね?
新品であろうに、もう、ボロボロだ。
「…もう、あんな無茶はやめて」
静かに、そう強く言われた。
「心配かけてごめんね。俺もあんなことになるなんて思ってなくて…」
俺は痛む口で、精一杯謝罪の言葉を紡いだ。
「…こんなことになるなら、私もはじめから手加減なんてしないで沈めてやれば良かった」 なんて、とんでもないことを言い出した。
「いやいやいや!エイラさんこそやめて、あいつに胸ぐら掴まれてるの見たとき相当焦ったから!」
よく聞いたら利き足は右だから右回し蹴りにすればよかったとかいい始める。
とにかく楽しい時間を邪魔したあの男のことが許せないらしい。
怒りをにじませたあと、彼女は今度は、しくしく泣き出した。
今まで泣いたことなんて一度も見たことがない。
泣きながらだが、手はしっかり動かして手当てをしてくれる。
腫れるであろう頬と、すでに腫れ始めている右手首にはスースーする薬を貼ってくれた。
正面に座っている彼女が俺の首の後ろを確認してくれる。
「気を失ったあなたを見て、私、何も考えられなくなって…それで…死んじゃうかと思って…」
俺は座った状態で、彼女は身をは乗り出して正面から首の後ろにも薬を塗ってくれた。
なんていうかふかふかしたのが、顔にあたるんですが。
突然の彼女の行動に驚いたが小さい子が泣くようにグスグスしている。
「エイラさん、強いんだね。俺、出る幕なかったね」
「私は、自分の身は守れる…だから今度は、カイさんは自分の身を心配して…なんなら私がカイさんのかわりにやっつけに行くから」
「はは、うちの奥さんは頼りになるなぁ」
俺は彼女の背中を子供をあやすようにとんとんと撫でた。
彼女がぎゅっと抱きついてきた。
前に、これは何の香りかと聞いたらジャスミンの花だと教えてくれた。
それがふんわり彼女から香る。
あの、俺を寝不足にさせたクリームの香りだ。
この温かさ、この香り、この感触。
彼女と別々の道を歩むことになって、数年先、この香りがしたら俺はきっと彼女のことを思い出すんだろうな、と少し切ない予感が胸をよぎった。
きっと、この香りがしたら彼女が隣にいなくても思いだしてしまうんだろう。
…それにあんなにはっきりと俺のことを「夫」と呼んだのは初めてな気がする。
始めの頃は正直、他人の、ましてや女性と同じ家で暮らしてやっていけるのだろうかと心配に思ったことがあった。
しかし、意外と俺たちははじめから上手くやれた。
もともと家事などは分担していたので、ルームメイトのような感覚だったが改めて「夫」と言われたら、偽装夫婦やっていたんだと思い出した。
それくらい今の2人の生活は自然だった。
怒るとあんなふうになるのも知らなかった。
しかもあんなに強いなんて。
ん?左足でもあの威力、利き足の右だったらあの男、首の骨が折れていたのでは?
あの男、命拾いしたな。
最後に、大事なことなんで聞いておかないといけないことがある。
「エイラさん、お酒飲んだ?」
「……」
「飲んだよね?」
「……」
「答えて」
「…1杯だけ…」
やっぱり。
ナイフ投げた時の顔、そうじゃないかなと思ったんだよな。
どうもこの人はお酒を飲むと理性を失うタイプのようだ。
外での飲酒は十分注意するように再度言い聞かせないと。




