9 パンの香りと、新たな出会い
ぐっすり眠ってあっという間に朝だった。
寝る前に少し資料に目を通そうと思っていたがそれすら叶ず朝を迎えてしまった。
眠い、もう一回寝てしまおうか。
そう思っていると1階で人が動く気配がした。
どうやらもう彼女は起きているようだ。
彼女が起きているのに自分は二度寝…というのは気が引けたので起きることにした。
今日もやることは山積みだ。
そう思って1階に降りようとしたら扉が開く音がした。
「エイラさんおはよう!どっか行くの?」
「隣に朝食のパンを買いに行こうと思って」
「あ!あ!俺も行きたい!ちょ、ちょっと待ってて着替えてくるから!」
と急いで部屋に戻って着替え、顔を洗う時袖をまくるのを横着したせいで袖がビショビショだ。
昨日から隣のパン屋は気になっていた。
それと引っ越しの挨拶もしないいとと思っていた。
俺はドアを開けてエイラさんに先にどうぞ、の合図をした。
「ありがとう」
彼女はふんわり笑ってくれた、ように見えた。
隣までは数十歩の距離だ。途中、気になっていることを彼女に尋ねた。
「あのさ、頭巾は外したらどうかな?」
昨日の話からその容姿で嫌な目にたくさんあってきたとは聞いている。
でもその美しい容姿は隠しておくにはもったいない。
「これから商売をするなら隠れてばかりもいられないだろう?それに引っ越しの挨拶もしたいから顔は見せた方がいいよ。大丈夫、エイラさん、すごくきれいだから見せたほうがいいよ。もし何かあっても2人ならなんとかなるでしょ」
なんだか詐欺師みたいな言い方になってしまったが全部本当のことだ。
戸惑いと抵抗の反応のあと彼女はゆっくりと頭巾を外してくれた。
「きれい」と言ったことは聞こえただろうか。
彼女は自分の価値がわかっていない。これからはもっと褒めて自己肯定感を上げてあげなければ。
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パンの香りに満たされた店内は無人で、時間が早いせいためかまだ数種類のパンしか置いていない。
「おはようございまーす!」と声を掛けると、奥からこの店のおかみと思われる女性が出てきた。
「おはようございます。あら!お見掛けしない方ねぇ」
いかにも客受けがしそうな明るい印象の人だった。
軽く挨拶をしたら「おひとりで?」と聞かれた。
「あ、いえ妻と」
自分でもびっくりするくらい自然にその言葉が出た。
俺の後ろにいてエイラさんの存在には気づかなかったのだろう。
蚊の鳴くような声で彼女はあいさつをした。
アンナと名乗ったその人に俺も「カイ オルウェンです。こちらこそよろしく」と自己紹介をした。
よかった、噛まずに言えた!
アンナさんはエイラさんに近づいて声を掛ける。
その瞬間アンナさんの顔が固まったのが分かった。
まさか夫役の自分がいても彼女にひどい言葉を浴びせるのだろうか。
エイラさんも異変を感じ取り俺の背中のシャツを握ったのが分かった。
だがアンナさんからはあからさまな敵意は感じない。
たぶん、大丈夫…そういう気持ちをこめてアンナさんから見えない位置で背中のエイラさんの手に自分の手を添えた。
彼女の顔を見たアンナさんは驚きと喜びが混じったような声で言った。
「まあ!なんていうことでしょう!御子さまそっくり!こんなことがあるなんて!しかもなんてかわいらしい奥さん!エイラちゃん、これからよろしくね!」
そうそう、そういう褒め言葉、いっぱいかけてあげてくださいと保護者のような気持になった。
アンナさんの思いがけない反応に彼女は戸惑っているようだ。
アンナさんが離れた隙にこっそり「大丈夫だったでしょう?」と耳元で声を掛けた。
エイラさんはビクッとなって真っ赤になっている。
喜怒哀楽が薄い人だと思っていたが、こんな表情もできるんだと思った。
「あらあら!仲の良いご夫婦だこと!なんて初々しい!」
「そうなんですー、まだ結婚して一か月くらいの新婚なんですよぉ」
と、調子に乗って言ってしまったことは反省します。勝手に設定作ってごめんなさい。
俺たちは金額以上のパンをアンナさんから持たされて戻ることになった。
ただ、少し気になったのは昨日から彼女を見て「縁起がいい」とか「御子様」などと言う人がいるということだ。
昨日の不動産屋の店主も、今日のアンナさんも、彼女の容姿を見てすぐに「特別な存在」と認識した。それは単なる偶然だろうか?




