外伝(6) ~ 永久の絆よ
「つまんない」
美しく刈り揃えられたバラの庭園。中央に噴水が設置された、貴族達の憩いの場で、身なりの良い少年がぼんやりと座り込んでいた。周りに人の気配はなく、ほんのり赤く染まった空が、時折憎らしく思う。
ああ、今日も一日が終わってしまう。
と、ほおづえをついて空を見ている少年の前に、どこからともなく大けがをした妙な生物が倒れ込んできた。少年は驚きをあらわにして、その生物がどこから迷い込んだか周辺を見回したが、あたりはとげとげしいバラの植え込みばかりで、ゆいいつの出入り口であるアーチは、さっきから自分の視界にあった。
「ど、どこから来たんだ、お前……」
言いながら、おそるおそる少年はその生物に近づいていく。
それは小さな犬のようで、しかし妙に凶悪そうな顔つきをしていた。生物は少年が近づくと、グルグルとうなって警戒心をあらわにしたが、すぐに倒れ込んで血の塊をはき出した。
「うわっ」
このままでは死んでしまうと思った少年は、生物にかけより、その身体を抱きかかえた。そして噴水のそばに連れてくると、自分の来ていた裾の長いベストを脱ぎ、それで生物の腹の部分を止血した。それから持っていたハンカチを水で濡らし、顔を拭ってやる。
最初は少年の手にかみつこうとしていた生物だったが、彼に敵意が無く治療しようとしているのだと気づくと、次第におとなしくなっていった。
すっかり身を任せるようになった生物に、ほっと一息つきながらも、真っ赤になったハンカチをそこらに投げ捨てた少年は、次に何をすべきか必死に考えた。そして、ふと先日教育係の魔法使いに差し出されたものを思い出し、胸元からそれを引っ張り出す。
(確か、怪我を治したいと思いながら、手をかざせば……)
それは、もしも少年が怪我をしたりしたときの応急手当用にと渡された、治癒魔法が封じ込められているペンダントだった。言われたとおりの手順を踏むと、ペンダントからぼんやりとした光が放たれ、生物の身体に吸い込まれていく。
光が収まると、ペンダントはぱきりとひび割れてしまったが、生物はすっかり血も止まり、すぐに身を震わせると一声鳴いた。
「よかった、もう元気になったんだな。よしよし」
その頭をなでてやると、生物は嬉しそうに少年の頬を舐める。それがくすぐったくて、少年は笑い声を上げた。
しかし、しばらくそうやってじゃれていると、人の気配を感じた。とたんに生物は少年から離れ、ふわりと空間に溶け消えてしまう。
「いっちゃった……」
しゅんとしながら、少年は我に返り、血に染まったベストとハンカチ、そして砕けた魔法具をどうやって言い訳しようと、必死に頭を使う羽目になった。
※ ※ ※
その生物と出会って、すでに二年が経った。犬のようなその生物は、ちょくちょく一人ぼんやりしている少年のところへやってくるようになり、二人はあっという間に仲良くなった。
そして、この二年のうちに少年が理解したことは、この生物はただの生物ではなく、ビーストという魔族だろうということである。異様な再生力と成長スピードを持っていることから、なんとなく家庭教師たちに質問したところ、そういった答えが返ってきたのだった。
この国では、山向こうの国ほどではないが、魔族は悪だという考えが普通に根付いていた。だが、少年にとって魔族というのはこの犬のような生物だけで、彼だけが、少年が心開ける唯一の存在だった。
「なー、今日さ、いっつもガミガミうるさいおばはん家庭教師に、蛙投げ込む罠しかけてみたんだ。そしたら見事に引っかかって、頭に蛙のっけながら大絶叫。スカートばっさばさで、めっちゃ笑えたんだぜ」
「ヴォウヴォー」
ビーストは首をかしげながらも、楽しそうに話す少年の頬を舐めてくる。下級の魔族は、デーモンかヴァンパイアでなければ人の言葉を理解しないというのは、魔族についての講義で教えられていたが、なんとなく彼には通じていそうで、少年もくり返し、自分の周りで起こったこと、おこしたことを話していた。
ある日、ずいぶん成長したビーストの背に乗って、騎馬ごっこをしていると、突然庭園に人影が現れた。驚いてビーストの背から転がり落ちる少年だったが、ビーストの方は嬉しげに人影に近づいていく。
全体的には人間とかぎりなく似ているが、長くとがった耳と口元からのぞく牙が、それが人ではないと教えている。白い髪に、赤い瞳をした魔族の女だった。
女はすり寄るビーストをなでながら、地面に転がって驚いている少年の方を見ると、口を開いた。
「人間は、嫌い。位の高い者は、もっと嫌い」
はっきりとした言葉。少年が肩を震わせると、けれど、と女は表情を緩ませた。
「貴方のことは、好きになれそう。この子と遊んでくれて、ありがとう」
その日から、庭園にやってくるのはビーストと、上位魔族であるというその女の二人になった。
女は、ビーストが怪我をして庭園に迷い込んできた日のことを語ってくれた。
「この子は、この城の騎士達の魔物狩りで母を、仲間を失った。でも、偶然同じ城に住む貴方に助けられた。まったく、本当にややこしいことね」
人の言葉を話せる女との会話は、とても面白かった。たまにビーストが嫉妬して突撃してくることがあったが。
彼らとの交流は、本に書かれている魔族とはまったく違っていて、少年の最高の思い出となって積み重なっていった。
※ ※ ※
しかし、それからしばらく経った日のこと。その日は、ビーストは現れず、女だけが険しい表情を浮かべて、こう言った。
「もう、ここには来れないわ」
その言葉で、少年は幼心に察した。この城に住んでいる者はみな、魔族と聞くと顔をしかめる。罵倒する。呪詛を吐く。
きっと、ここに来ることは彼らにとってひどく危険で、向こう見ずなことだったのだろう。けれど、ただ少年に会いに来るためだけに、彼らは危険を冒してくれた。
少年は理解した。理解したが、その目に涙が浮かぶのを止めることはできなかった。じわじわとぼやけていく視界の中、彼は必死に、家庭教師達が言うように「いかなるときも冷静であれ」ということを実践しようと思いながら、口を開く。
「それでは、さようなら。また会うことが……ありませんように」
ふわり、と甘い香りが伝わってきた。女はそっと少年を抱き寄せると、その頬に口づけを落とす。
「人には人の、魔族には魔族の世界があり、その隔たりは絶対。……それでも、我らの絆に隔たりはない。それを、忘れないでいて」
女も泣きそうな顔で、それでも笑っていた。その顔がとても美しくて、少年はとうとう堪えきれずに泣き出した。女はしばらく少年の頭をなでていたが、やがてその場を立ち去った。
この日以降、少年がいくら庭園にやってきても彼らと会うことはなく、この国の魔族狩りも、激化の一途を辿っていった。
※ ※ ※
「……うえ、……ーえ、ちちうえ!」
はっとして、軽く頭を振る。フォリアル国国王のグランベルトは、温かなバルコニーで息子とともに茶会の真っ最中だった。
「ちちうえ、お疲れですか?」
あまり話すことも、顔を見ることもなかった末の王子。どこか他の子供達とは違う雰囲気を持つレイリーズを、グランベルトは意図せず遠ざけてしまっていた。
だが、『ある一件』を境に、グランベルトは仕事の合間を縫って、彼や他の子供達とも休憩がてら茶会をするようになった。玉座に座って臣下達に厳しく対応している『王』ではなく、穏やかで優しい『父』と接することはあまりなかった子供達は、侍従から聞いた話によると茶会を楽しみにしてくれているという。
「いや、大丈夫だよ」
「……すみません、ちちうえは仕事がいっぱいあるから、今も眠ったままにしておけば……」
「お前がそこまで気を回す必要はない、レイ。そら、菓子のおかわりはどうだ?」
グランベルト自ら、テーブルの中央にある皿から数種類の焼き菓子をとりわけ、レイリーズの前に置いてやる。そばにいる侍女にお茶のおかわりを頼むと、レイリーズはすぐに顔を明るくさせた。
「それで、ちちうえ! 今日はね……」
楽しそうに話すレイリーズを見て、グランベルトも頬を緩める。そして、ふと今見た懐かしい夢を思い返した。ひどく孤独であった、少年時代。今の自分は、もう人生半ばもすぎたおじさんである。……魔族である彼女たちは今、どうしているのだろうかと。
人間との戦いを避けていたネクロマンサーを思い出し、思わず、人と魔族が手に手を取る未来を夢見てしまう。だが、そうなることはありえないと、王は心の中でつぶやいた。
(魔族は人を食らい、人は魔族を狩る。それは、この国に人と魔族が生まれてから、変わらぬ関係だ……)
すると、そこでレイリーズが、ぼんやりとした表情でつぶやく。
「次は、いつタイキに会えるでしょうか……」
それを聞いて、グランベルトはうっすらと苦笑を浮かべる。
カップの中で、温かな紅茶が揺れていた。
いつもよりずっと長い外伝でした。王様の過去。
魔族への偏見が薄かったのは、少年時代の思い出によるものでしたという話。
よくあるパターンです。