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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

バイク便の佐川さん


 今時電子契約書もあるんですけど?!

 スキャナーで読み取ったのじゃだめ?!

 すぐ原本送ってくれるって言ってたよ?!

 俺の心の叫びが口をついて出ることはない。

 だって社畜は飼われるところがなくなったら困るもの。


 実家が印刷屋だったという社長の独断で、うちの会社はスマホアプリのベンチャーだというのに紙の契約書がそろわないとプロジェクトのスタートが切れない。

 そのくせスケジュールはギチギチだから嫌になる。

 常にギリギリの日程を駆け抜ける俺を助けてくれるのは、神よりも仏よりもバイク便のお兄さんだ。


「佐川さん、今日もよろしくお願いします!」

「確かに。お預かりします」


 目鼻立ちのはっきりした顔は少々迫力があるが、いつも優しい笑顔を作る。

 赤と黒のライダーススーツを着てフルフェイスのメットを小脇に抱える佐川さんはびっくりするほどかっこいい。ごまかしの効かない格好なのに、足はスラリと長く、胸板はしっかりと厚い。


「脱いでも絶対すごいやつ」


 きゅっと上がった佐川さんのお尻を見送る俺がそんな不埒なことを思うのは、そう言う目で見てるからに決まってる。

 女の子とも付き合ったけど、どうも俺の趣味じゃないらしい。人と喋るのが好きで、友達も多かったから、紹介されたり、女の子から告白されることはそれなりにあった。大抵は断る理由がないからOKしたけど、いつも友達の方がいいかも、弟みたいと別れてしまう。

 そりゃ、そうか。

 キスしたり、セックスしたりしなければ、友達でいるのと変わらないもんな。

 エロいことは好きだけど、女の子といてもそういうことにならないんだから仕方ない。

 今の時代、ソロプレイも道具だなんだって充実してますから、大丈夫。前も後ろも自分で上手に可愛がれるようになりました。

 多分、俺は人間相手にはそう言う感情を持たないのかもな、と思ってたのに、佐川さんに出会ってすっかり世界が変わった。

 あの胸板の感触を確かめたい。硬いのか、柔らかいのか。

 きゅっと上がった尻を掴みたい。もちろん両手で。

 いつもグローブをはめている素肌に触れてみたい。

 もうなんでもするから、裸になってほしい。

 見るだけでいいから!

 嘘嘘嘘!

 触りたい!嗅ぎたい!舐めたい!もうなんでもするから、何してもいいって言ってよ!!

 好きだよ!佐川さん!!


「おい、米田、百面相」


 先輩に話しかけられて俺は現実に引き戻される。

 あぁ、どうして俺にヘッドロックをかけるのは佐川さんじゃないんでしょうね?


「明石先輩、パワハラで訴訟するっす」

「そんな時間ねぇだろが」

「それな〜」


 二人とも徹夜明けでくっちゃくちゃの顔だったが、この後に外部とのオンライン会議が控えていた。

 社畜の長い長い1日は24時間じゃ足りないのだ。


 ◆◇◆


 数打ちゃ当たる戦法で戦ううちの会社は、サービス終了になるアプリもあるが、細く長く小金を稼いでくれるアプリもある。

 しかし、そんなのに満足するような社長だったら会社なんて立ち上げない。とにかくどでかい花火をぶち上げたいと言う。

 そこで目をつけたのが、巷で大流行りの猫キャラだった。

 SNS発のそのキャラクターを使ったゲームを作ろうとブレインストーミングをした時に、徹夜明けの俺が適当に言った、「扇風機でネコ飛ばしてみたいっすね」と言うつぶやきがまさかの社長の心にスマッシュヒット。

 採用されて、プロジェクトが組まれることになった。

『にゃんにゃん大旋風(仮)』

 当然発案者の俺もプロジェクトに参加する。

 もうすでに抱えてる案件でパンク寸前なのに。

 そうなりゃ起きるのがトラブルだ。

 寝坊くらいならいいが、一番やっちゃならねぇ凡ミスをした。

 契約書の誤字だ。

 日付が間違っていた。

 午後から、プロジェクト始動なのに?!

 そういう時に限って、不幸は重なる。

 打ち合わせ前にサインを貰えばいいと思っていた出席者が、リモート参加することになった。

 絶体絶命。

 ワンチャンこのまま知らん顔して進めると言う手もあるが、紙大好き社長が一人一人の自己紹介を聞きながら、契約書を捲るのはいつものことだ。もしもそこでバレたなら、終わり。こだわりの強い社長が今回だけ見逃すなんて地球が爆発してもあり得ない。

 あぁ、佐川さん。やっぱり俺にはあなたしかいない。


「佐川さん、お願いがありまして。この書類を先方がその場でサインするので、受け取ってまた戻ってきていただけますか?」


 いつもは封筒を渡してすぐ解散、だからこんなに長く佐川さんをみたのは初めてだ。

 意外と肌は日に焼けていない。

 そうか、フルフェイスのメットだもんな。


「いいですよ」

「じゃあ、よろしくお願いします」


 あっさりと佐川さんは承諾して、旅立った。

 あぁ、かっこいい。

 午後からの打ち合わせの準備をしながら、俺はたまにマップを開いて佐川さんのことを思った。

 いや、ストーカーじゃない。契約書が心配で。


 もうすぐ着くかな、と思った時に先方から電話がかかってきた。


『ご、ごめんなさい……』


 開口一番これだから、新たな地獄の予感が押し寄せてくる。


「ど、どうしました……?」

『書類にサインしたんですけど、印鑑押したかどうか自信がないですぅ……』


 わかる、わかるよ。契約書の記名捺印ってやりすぎると惰性でできるようになるから、そうなっちゃうの。でもどうして今日?!


「ちょっと対策を考えます」


 いや、対策って何?!

 パニックを起こす頭で佐川さんの携帯に電話をかけた。

 気がつく?

 気がついて!でも事故らないで!


 十回のコール後、留守電に繋がった。


「佐川さんお疲れ様です。大至急ご連絡ください」

『もしもし、なんでしょう?』


 急に佐川さんの声が耳元でして、俺は飛び上がる。

 本当に。


「も、もしもしもし……すみません、佐川さんですか?」

『はい、いかにも佐川です』


 クスクス笑う声が耳にくすぐったい。

 なんだよこの地獄。天国と合わせ技かよ。


「実は……」


 対応策が思い浮かばないまま、現状を話し出すクソリーマン。使われることしか脳がない社畜なのがバレる。


『なるほど……』


 困っても佐川さんの声はかっこいい。

 いや、本当にどうしよう。

 ちっとも頭が働かずに俺は黙っていた。


『米田さん?』

「はい!米田です!」

『米田さんって口硬いですか?』


 佐川さんの言葉の意味に俺は首はひねるが、佐川さんが望むなら、俺は何にでもなるよ。


「硬いです!」

『じゃあ、これは提案です……』


 それはこの場で預かった契約書を佐川さんが確認すると言うもの。なんだ、と言いたくなるほど単純な方法だったが、これには佐川さんのバイク便ライダー人生がかかっていた。客の荷物を開封するなんて御法度中の御法度だから、全てを俺の胸の内に収められるならやってくれると言う。


「絶対言いません!命かけます!」

『ふふ、じゃ、このまま電話繋いでおいてください。開けます』


 佐川さんが耳元で笑ってるの最高に気持ちいい。

 何これ、天国?

 いや地獄真っ最中なのを忘れてる場合じゃない。


『押してあります』

「……よかったぁあッ」

『今、米田さんガッツポーズしてるでしょ』


 佐川さんの言葉に自分を見れば確かにそうだった。


「当たりです。すごくないですか?」

『米田さん、よくしてますよ? もしかして無意識?』


 何これ、ご褒美なの?

 佐川さんが俺のこと記憶してるわけ?

 いや、恥ずかしい記憶だから嫌だな。


「知らなかったです。じゃあ、このまま安全運転で帰ってきてください」

『はい。じゃ、書類無くさないように帰りますね。失礼します』


 帰ります、だって。

 心臓が痛い。

 今日なんなの?

 アップダウン激しすぎる。


 佐川さんの帰りを待つ俺は、ふわふわとした夢心地で、事態を知る先輩からは、お前も大分おかしくなったな、としみじみと言われた。

 そうだよ。おかしいよ、俺。

 佐川さんに狂ってる。好き、好き、好き過ぎるんだ。

 だから、やりたいことやっちゃおうと思う。


 俺は名刺の裏にプライベートの電話番号を書いた。

 これを佐川さんに渡そう。

 佐川さんを待つ間、ポケットの中で名刺をずっと持っていたので、実際に取り出した時にはヨレヨレになっていた。

 最悪だな。


 朝イチで会った時の爽やかさのまま、佐川さんは帰ってきた。珍しく、パサリ、パサリと長い髪が背中で広がった。いつもはきちんと結っているのに。


「お待たせしました。最速にしたんですけど、間に合いました?」

「十分です。本当にありがとうございました」


 その場で中身を確認すれば、きちんと記名捺印された書類が入っていた。


「あの、今日のことありがとうございました。本当に、なんて言っていいか。もしよかったら、俺に飯をご馳走させてください。ここに連絡先書いてあるんで」


 震える手で差し出した名刺を佐川さんは受け取って、胸のポケットにしまった。


「じゃ、後で連絡します」

「お待ちしてます」


 深々と頭を下げたら、ふわりといい香りがした。


「今日のことは他言無用でお願いします」


 すぐ横に佐川さんの顔があった。

 真っ黒な瞳がきらりと光る。


「は、はい」


 無様に裏返る自分の声が憎い。


「俺たち、共犯者ですね。また、お願いします」


 そう言って佐川さんは去っていった。

 もう、どうしよう。

 俺の心臓爆発寸前。


 プロジェクトのキックオフミーティングなのに、俺はずっと上の空だった。それでも特にミスもなく、終わった。


「なんか絶好調じゃん」


 そう言って明石先輩にバンバン叩かれた背中が痛かったけど、怒る気にもならなかった。

 ずっと夢心地。

 佐川さんと俺は共犯者なんだって。


 ◆◇◆


 プロジェクトが走り始めれば、もう契約書を書いてもらう必要もないから、バイク便に縋ることもなくなる。

 そして、佐川さんからの連絡はなかった。


「地獄かよ」

「こんなのデスマじゃないだろ」


 俺の呟きを仕事の進捗と勘違いした先輩はそう言いながらも、エナジードリンクの缶を傾ける。


「エナドリで気分も上がればいいのに」


 表情筋が死滅した俺を気の毒に思ったのか、先輩は引き出しからエナジードリンクの缶を取り出して、俺の机に置いた。


「じゃあ、とっておきのやつやるから。日本未発売のエナドリ。これはマジでキマるぞ。アゲアゲでいこうな」


 米軍基地内で売っているというそれを買うために、先輩は毎年米軍の基地祭に行ってるらしい。

 社畜の鏡か。

 16オンスと書かれたピンクの缶はデカい。プルタブが黒いのもなんかかっこいいし、本当に気分を上げてくれる気がする。

 ストロベリードリーム味ってなんだよ。

 俺が見たいのは佐川ドリームだぞ。


「あま」


 人工的ないちご味のまとわりつく甘さは練り消しみたいだった。

 やっぱり、ダメ。

 俺の落ち込んだ気分を上げてくれるのは佐川さんしかいない。


 カフェインパワーで目は冴え、胃は痛む。

 気分は上がらなくたって、右から左に仕事を片付けなきゃならん。

 もう今日は泊まり込みでいいか、と投げやりに仕事に取りかかる。仕事は嫌いなわけじゃないから、やり出せばあっという間に時間が過ぎていく。気がつけば、事務所には俺一人で、明石先輩の姿もなかった。


「腹減ったわ」


 しょっぱくてあったかいものを求めて、最寄りのコンビニを目指した。


「え?佐川さん?」


 ガードレールに寄りかかる見慣れたライダーススーツに思わず声が出た。

 幻覚かと思ったけど、俺の声に顔をあげたのはやっぱりかっこいい佐川さんだった。


「あ、米田さん」


 きゅっと眉根に力が入のを見て、俺は何かやらかしたんだなと悟る。


「遅くまで、お疲れ様です。失礼します」


 これは離れるが吉と判断した俺は、立ち止まらないで通過しようとしたのに、クイっと服の裾を引かれた。

 顔をあげれば、佐川さんがムッとした顔で俺を見ていた。

 かぁっこいい。

 でも悲しい。

 嫌われちゃったのかな。

 胸の奥がきゅっと痛んだ。


「俺のこと揶揄ってるんですか?」

「いいえ」

「だって電話繋がらないじゃないですか」

「ヘぁ?」


 佐川さんが胸のポケットから出した俺の名刺は、渡した時よりも綺麗なんじゃないかと思うほどシワが伸びていた。

 きっと佐川さんの胸筋プレスを受けたんだろうな。いいな。


「胸筋プレス……?」

「やば、口に出てたか。いや、なんでもないです。で、なんで俺が揶揄ってるっていう話に?」

「この電話番号にかけたら、別の人だったんですけど」


 差し出された名刺に書いてある番号を確認しても、確かに俺の番号だ。一つ可能性があるとしたら、あれか。


「もしかして、最後の7にしました?」

「はい」

「それ1です。すいません字が汚くて」

「え?あ、あぁ〜」


 昔、それが原因で数学のテストでバツだったことを思い出す。

 佐川さんの顔から力が抜け、眉毛が垂れ下がった。


「俺、てっきりからかわられたんだと思って、がっかりしてました。なんだ、そうか。じゃ、本当に俺と飯行ってくれるんですね?」


 佐川さんがスマホを操作して、俺のスマホがブブブと揺れた。


「それ、俺の番号です。暇な日教えてください。飯食いに行く日決めましょう」


 そこまで話したところで、佐川さんのスマホが鳴り、仕事の話が始まったので、お暇した。


 事務所の椅子にどさっと腰を下ろした。

 何あれ。

 がっかりするって何それ。

 最後に見せた笑顔はいつもの営業スマイルと違って、白い歯が丸見えだった。

 かわいい。かわいすぎる。

 俺の心は急浮上する。

 エナジードリンクなんて目じゃない。

 俺の元気の素は佐川さん。それしかない。大好き、佐川さん。


 ◆◇◆


 スケジュールをやりとりしたら、佐川さんが休みの日に俺が直帰できる日がぶつかったので、その日に会うことにした。


『なんでも好きなもの好きなだけ食べてください』

 と送った俺に、

『その言葉、忘れないでくださいね』

 と返事が来たのが最高に良かった。

 俺が佐川さんに関すること忘れるわけないじゃん。


 いつもは適当な服装だけど、その日は外部ミーティングだったのでスーツだった。


「スーツだ……」


 待ち合わせに現れた佐川さんは、ライダーススーツじゃなかった。


「スーツじゃない……」

「お互い見慣れないですね」

「確かに」


 佐川さんが選んだ店は、定食屋さんだった。

 白米のおかわり自由と書かれていて、業務用の炊飯器がドンと鎮座していた。


「ここは、白飯がうまいんですよ」


 そういう佐川さんは丼を左手に持ち、もりもりと平らげていった。

 初めて見る佐川さんの指先に目が釘付けになる。

 短く整えられた爪のカーブは完璧で、根本にある白い三日月も大きくて、健康そうな血色をしていた。


「米田さん、見過ぎです」

「は、まじで? ごめん。いや、初めて見たなと思って」

「そう、ですか?」

「そうだよー! 佐川さんっていつもぴっちりライダーススーツ着て、グローブもしてるから、素肌あんまり見たことないな、見てみたいなって思ってたんですよ」


 言い終わった後で、自分の発言の気持ち悪さに震えた。

 大失敗だろ。


「それは……光栄ですね」


 佐川さんはくくく、と笑う。

 セーフか。佐川さん優しすぎるぜ。もっと好きになってしまう。


「おかわりしてきます」


 俺がまだ半分も食べてないのに、佐川さんのどんぶりは空だった。


「あ、俺つけてきますよ」

「え、米田さんまだ食べ終わってないし」

「今日は佐川さんに感謝を伝える日だから。どれくらい?」

「じゃあ、最初と同じくらい」

「いいね〜」


 日本昔ばなし級の丼飯を二杯も食べるとは。

 社畜として不規則な生活を繰り返すうちに、食事するのを忘れ、あっという間に俺の胃は小さくなった。社内の人間は同じような人間が多いから、新鮮だった。


「はい、お待たせ」

「ありがとうございます」


 佐川さんのくりくりとした目が細くなる。

 あ、ちょっとだけ垂れ目なんだ。

 正面に座って食事をするのは良い。

 ずっと佐川さんを見ていられるし、ずっと佐川さん情報が流れてくる。最高だな。


「あー、美味かった」


 そう言って伸びをする佐川さんは俺より背が高いから、手も長い。


「まだ早いけど、二軒目行きます? 飲む?」

「あぁ、明日仕事なんで酒はやめときます」


 そうか、バイク便ライダーはそういうものなのか。


「俺、酒飲むつもりだったから、予算余りまくりなんですけど。商品券とかにして支払いたい勢い」

「また飯いきましょうよ。夜シフトの時なら、ぱぱっと一緒に食べてもいいし」

「じゃあ、それで」


 思ってもみない申し出に俺の顔はだらしなく緩んでしまう。


「帰り、送って行きます。こんなに早く帰れること珍しいでしょ? 寝ないと米田さんのクマヤバいですよ」


 俺の目の下を佐川さんの親指が撫でた。

 指先の熱がそこから頭に広がっていくみたいだった。

 思わず口元を押さえたのは大丈夫だっただろうか。


「あくび、出そうになった」

「ほら、早く帰りましょう」


 本当は帰りたくないのに、佐川さんがそういうのなら仕方ない。


「もう少し佐川さんとお喋りしたかったです」


 これくらいなら言っても良いだろうと、ヘラヘラしながら言ってみる。


「そうですか」


 佐川さんの返事はそれだけだった。


 少し歩いたところに止めてあった駐輪場にあったのは、いつもの配達用とは違うアメリカンタイプのバイクだった。

 座席の下を開けて中に入っていたジャケットを俺に着せ、ヘルメットを被せた。

 全身が佐川さんの匂いに包まれる。


「ちゃんと掴まっててくださいね」


 行き場がわからなかった俺の腕を掴むと、佐川さんは自分の腹の前に引っ張って巻きつけた。

 すごい密着具合だ。

 厚手のジャケット越しなのに、佐川さんの体温を感じる。

 俺の身体が異常に熱いこともバレてしまったらどうしよう。

 うるさいほどの鼓動が伝わってしまったらどうしよう。

 初めて乗ったバイクの後ろは、風が強くて、うるさくて、そんな心配は無用だった。佐川さんの用意してくれたジャケットがなかったら、寒くて凍りついていたと思う。

 車で送ってもらうのと違って、バイクの二人乗りはおしゃべりができない。

 ピッタリと身体を重ねているのに、ずっと無言。

 あぁ、俺は佐川さんに命を預けているんだな、と思った。

 いやいや、重すぎるだろ。


「じゃ、おやすみなさい」


 そう言ってあっという間に佐川さんは走り去った。

 俺の心臓バクバク。

 手元のスマートウォッチを見たら、1分間の心拍数が120回を超えていた。

 マジかよ。もしかしていつも佐川さんと会う時そうなの? 充電を忘れて大抵はオモリとしての機能しか果たさないから気が付かなかった。これからはちゃんと充電して佐川さんとの時間を記録したい。

 これはちょっと気持ち悪いか。

 家に入って、シャワーを浴びて、布団に入っても眠れない。佐川さんとのご飯が最高すぎて、俺の頭は大興奮だった。


 バイク好きなんだって。やっぱりね! 

 一人暮らしだって。俺もだよ!

 休みの日もバイク乗ってるんだって。だと思った!

 お姉ちゃんがいるんだって。俺は弟がいるよ! 


 今日かわした会話を反芻して楽しんだ。

 実際に俺がなんと答えたのかは思い出せない。変な事を言っていないと良いんだが。

 こりゃ何周しても寝られんな! と思ったのに、気がつけば眠っていた。

 あっという間に朝が来て、佐川さんとの約束が過去になったのを思い知らされる。

 楽しい予定はなかなか入らないのに出社の予定は何年先までも用意されている。


「社畜つら」


 辛い辛いと言いながら、仕事は好きだから困ったもんだ。

 社長のわがままにうんざりするけど、プロジェクトが終わってピザパーティーをすればそんなに嫌なやつじゃないか!って思っちゃう。ローンチ後のエゴサーチは胃がギリギリ痛むけど、便利!とか楽しい!とかあればあっという間に天にも昇る夢心地。我ながらチョロいとは思うが、それが元気な社畜でいる秘訣かもしれない。

 楽しい、辛い、辛い、辛い……からの楽しい。たとえそれが半々じゃなかったとしても、楽しい!の瞬間が強烈すぎて俺はまた仕事にのめり込んでしまう。ナチュラルボーン社畜なのかもしれない。

 「にゃんにゃん大旋風(仮)」はいつもより外部の人間がたくさん関わるプロジェクトだから、実際の業務そのものよりも、スケジュールの調整や相手からの連絡を待つ事に時間を割く必要があった。

 今までの俺だったら、やきもきしたんじゃないだろうか。

 ところが俺には佐川さんとの約束があるから、待つのも辛くないのです!

 初めてご飯を食べたときのように待ち合わせて出かけることはないが、一緒に夕飯を食べに行くようになった。

 それもその辺の横丁に止まっているフードトラックでサッと食べる感じのやつ。

 夜シフトの佐川さんは満腹まで食べないので、そういう軽食スポットをたくさん調べてあるらしい。

 会社の近くの場合は、一緒に歩いて食べに行くし、遠い時は佐川さんが買ってきてくれる。

 ジャークチキン、ファラフェルサンド、ちくわパン、カリフォルニアロール、ワッフル・アンド・チキン。

 日本にいるのに世界旅行気分でいつも楽しくて仕方がない。それでもお値段は驚きのワンコインとか+アルファくらいらしいのに、佐川さんはなかなかお金を受け取ってくれない。

 そもそものスタートは俺が佐川さんに感謝するために企画したことだから、俺が払うと言っているのに。だから俺はコンビニで飲み物を買い、佐川さんに渡す。

 普段水しか飲まないと佐川さんは言うから、ストレート果汁のお高いリンゴジュースや、眩しい色をした無果汁の炭酸飲料や、有名珈琲店とコラボしたカフェオレなど、色んな飲み物を紹介している。

 佐川さんは、まず受け取る時に何か一言感想をくれる。目に眩しい色ですね、とか、渋いラベルですね、とか。そして次に会う時に少し長めの感想を教えてくれる。リンゴを食べるよりリンゴ味がしました、とか、カフェオレ飲んだの十年ぶりかもしれません、とか。その度に俺の中の佐川さん情報が更新されて嬉しくなる。

 佐川さんが休みの日は一目でわかる。

 ビビッドなライダーススーツを脱いで、シックなライダースジャケットを着ている。

 そして、食事が終わった後で「送っていきましょうか?」と聞いてくれるのだ。


「まだ仕事が少し残っているから」

「その辺で時間を潰しています。どうせ帰り道ですから」


 佐川さんは遠慮する俺にぐいぐい押してくる。こんなに爽やかな押し売りがこの世に存在して良いわけ?

 俺だって佐川さんに送って欲しいに決まってるから、すぐに折れる。


「じゃあ、カバンとってきますね」

「急がないでください。いつまでも待っています」


 いつまでも、だって。俺もいつまでも大好き。

 このために俺は通勤用のカバンをリュックに変えた。もちろん佐川さんには言っていない。

 急いで佐川さんの元に戻ると、俺の買って行った飲み物を飲んでいるところだった。輸入品フェアで見つけた外国製の緑茶だった。


「おいしいですか?」


 俺が聞くと、佐川さんはどうぞ、とボトルを差し出してきた。

 え、いいの?本当に飲んじゃうよ?佐川さん口つけたとこに俺も口つけちゃうよ?

 我ながら気持ち悪いことを考えてるのをおくびにも出さず受け取った。

 ドギマギしながら、一口飲む。


「あっま!」

「ですよね?」


 ガムシロップにお茶を入れたみたいな味に目を丸くすれば、佐川さんはお腹を抱えて大笑いしていた。

 あ、佐川さんも大爆笑するんだ。


「こんな味だと思わなくて。すみません。俺が責任持って飲みますね」


 一気飲みしてやれ、と思ったのに、ボトルは佐川さんの手に回収されていった。


「これは俺が米田さんにもらったものなので、俺のものです」


 そう言って、バイクの物入れに入れられた。

 代わりに、防風用のズボンと上着を渡される。

 いつの間にか用意されていたその上下はとても暖かい。もしかして俺のために買ったのか、と一瞬思ったが、流石に聞けなかった。自惚れがすぎるだろ。でも、明らかに佐川さんのサイズじゃない。俺にぴったり過ぎる。もしも聞いてそうだったら、嬉しくて来月の給料を全額募金してしまうかもしれない。逆に、元カノの、とか言われたら死にたくなると思うので、絶対に聞くことはない。


「じゃ、今日もよろしくお願いします」

「はい」


 佐川さんは右手を伸ばして、俺のヘルメットの顎紐に指を一本引っ掛ける。

 そうやって必ず確認をしてからバイクに跨る。

 指が少し顎をくすぐっていく感触に、俺がゾワリと鳥肌を立てていることは秘密だ。

 そして、俺は佐川さんのお腹に両腕を巻きつけ、命を預ける。

 今日はずっと間接キスをしてしまったことを考えていた。

 中学生かよ。俺、25歳ですけど。

 走り出したと思ったら、あっという間に到着してしまう。

 佐川さんと帰る日だけ、俺の家は海の向こうになってしまえば良いのに。

 防風着を脱ごうと思ったら、佐川さんが手を伸ばしてリュックを持っていてくれた。

 優しすぎないか?


「おやすみなさい」


 佐川さんはそう言って、すぐに行ってしまう。

 あっという間に赤いランプは見えなくなって、俺は部屋に入る。

 あの日、俺が佐川さんへのお礼ディナーとして計上した予算は一人一万円の計二万円だ。あの日の定食は一人千二百円だったから、二千四百円。飲み物を買って渡しても、渡しても、使いきれない。まだ一万五千円はあるだろう。それよりも、佐川さんが俺に払っているお金の方が多いんじゃなかろうかとさえ思ってきた。

 俺は楽しいけど、佐川さんはどうなんだろうか。


 ◆◇◆


 にゃんにゃん大旋風以外にも俺が関わっている案件はあって、そのうちの一つでトラブルが起きた。

 個人経営レストラン向けのメニューデザインアプリだった。入社後初めての仕事で、機械に不慣れな人でも簡単に操作できるようにとユーザーインターフェイスを極限までシンプルにした思い入れのあるサービスだ。

 そうするとどうなるか。

 答えは簡単。俺の睡眠時間が削られる。

 にゃんにゃん大旋風に関することが落ち着いてから取り掛かるから、結果、俺は会社に居続けることになる。完璧な徹夜状態。幸いなことに事態はさほど重大じゃなかったので、ほぼ復旧したと言って良いだろう。

 朝日が眩しいぜ。

 ポコンとスマホが鳴って数分後、ようやく俺はスマホに手を伸ばす。睡眠時間を削られた人間は処理速度が異常に遅くなるから仕方ない。

『夕飯どうですか?』

 佐川さんからのメッセージにもちろん俺は前のめりで返事をする。

『ぜひ、ご一緒したいです!!』

 あああああ!元気出た!

 ふわふわ頭を強制稼働させるために、エナジードリンクを注入して仕事に取り掛かる。

 お楽しみが待ってるなら俺は何時間でも働けるぜ!!


「まいまい、元気じゃん!」


 出勤してきた明石先輩はそういうので、エイッとウインクをしておく。


「ファンサが古い」

「げ、しーちゃんにそんなこと言われたくないもん!」

「まいまい、こわぁい」


 全力でアイドルごっこをしたってお互いに目は死んだままだ。


「髭剃ってきます」

「おう。偉いな」


 突然正気に返って解散した。

 こんなところで無駄なエネルギーを使ってるんじゃないよ、全く。

 髭を剃って、パンツを変えると人はスッキリすると社会人になって知った。風呂入ってないし寝てないのに、刷り込みなのかリセットされた気分になる。

 そうやって自分自身を騙し、仕事関係者を騙し、一日を乗り切った。

 全ては夜ご飯、佐川さんに会うためだった。


 ◆◇◆


「お疲れ様です」


 今日の佐川さんはお休みだったようだ。


「今日はもう仕事終わりですか?」


 俺がカバンを背負っているのに気がついた佐川さんはそう言って笑顔を浮かべた。


「へへ、そうですね」


 なんの面白みもない返答しか返せない上に、俺は佐川さんに会えた喜びで、だらしなく顔を緩めた。


「じゃあ、一緒にどこか食べに行きます?」

「良いですねぇ」


 お決まりの手順で身支度を整え、佐川さんの背中に引っ付いた。

 あぁ、なんて幸せなんだろう。


 佐川さんが連れて行ってくれたのは、繁華街から一本入った路地に停車中のフードトラックで、コロンビア料理と書かれていた。


「コロンビア料理なんて初めてです」

「うまいですよ。ずっと米田さんに食べて欲しかったんだけど、これは出来立てのがうまいから、どうしようかなって考えてたんです。やっと食べてもらえる。良かった」


 佐川さんの脳内に存在できた瞬間があるなんて嬉しすぎる。

 そんなこと口にしたらおかしい人だと思われるか。


「米田さんは、鶏肉、豚肉、牛肉、どれが好きですか?」

「どれも好きですね」

「ですよね〜。何買ってきても美味しそうに食べるもんなぁ」


 そりゃそうだ。

 佐川さんが俺のために買ってきてくれるんだから、なんでも美味しくなるに決まってる。


「俺のおすすめは、豚肉なんですけど、」

「じゃあ、豚肉で!」


 被せ気味に言った俺に佐川さんは、早いなぁと笑う。

 コロンビア料理なんて何が出てくるのかわからないけど、佐川さんがお勧めしてくれるなら、美味しいに決まっている。

 トラックの横に置かれたプラスチックの椅子に腰掛けて、佐川さんを眺めた。

 トラックの中の人と話すから、珍しく見上げている角度の横顔が見られる。長い髪は下ろしていて、頷くたびにサラサラと肩を滑り落ちた。

 調理中の様子を覗き込んだり、何か尋ねたり、佐川さんは楽しそうだ。バイク以外にも佐川さんには好きなものがあって、俺はそのほとんどを知らないんだなぁ、と当たり前のことを思う。

 俺は佐川さんの全てを知りたいけど、きっとそれは無理な話だ。それでも、少しでも良いから、これからも見せてくれると良いんだけどなぁ。

 取り止めもなく、そんなことを思っていると、佐川さんが両手に紙の箱を持って帰って来た。


「お待たせしました。これが、アレパです」

「あれぱ……?」


 紙の箱を受け取れば、ずっしりと重い。

 中に入っているアルミフォイルを開ければ、湯気とともに食欲をそそる香りがした。香辛料が強いわけではないが、これは絶対うまいやつだと思わせる香りだ。中身は少し乾燥気味のピタパンのように見える。ファストフード店のハンバーガーくらいの大きさだが、とにかく重量感がある。

 円形をしたピタパンらしきものの上部に切り込みが入り、中にぎっしりと裂いた豚肉が入っていた。

「いただきます」

 おそるおそる掴んで食べてみると、パンの部分は思いの外もろい。簡単に噛みきれて、内側はよく肉汁が染みていた。

 小さな一口ではダメだ。

 これはガブっと食べるやつ。

 意を決して思い切り食らいつけば、口の中いっぱいに肉汁が広がった。

 醤油味とも違う旨味を感じる。

 カッテージチーズみたいなのが入っていて、それがまたクリーミーで美味しい。

「佐川さん、これはヤバい。ヤバいやつです。これを知らずに生きてきたなんて……」

 完全にどうかしてる感想なのに、佐川さんは顔を顰めたり、嘲笑ったりしない。

「気に入ったみたいでホッとしました」

 佐川さんは俺の一口目を見守っていたようで、まだアルミフォイルを開けさえしていなかった。

「出来立てが美味しいんでしょう? 佐川さんも食べないと」

「そうですね」

 俺も佐川さんの一口目を食べるところを見たいと思ったのに、肉汁を吸ったアレパは脆い。少し目を離しただけでもバランスを崩し、バラバラになってしまいそうなので視線を動かすことさえできなかった。

「このタレも美味いんですよ。米田さんもかけますか?」

 俺がアレパを崩壊させないように慎重に食べていると、佐川さんに聞かれたので、俺は頷いた。

 口の中は肉でパンパンになっていて声が出せないから、きっと佐川さんは無視されたと思うかもしれないと思ったのに、俺のアレパの上にオレンジがかったクリーム色のタレがぽとんと落ちてくる。

 佐川さんだって同じものを食べているのに、どうして片手が空くのだろう。視線を動かせるのだろう。

 サウザンアイランドドレッシングにそっくりなタレだったが、味は全く違う。辛かったり、酸っぱかったり、強い刺激はないのに、確かに味の変化が起きて、アレパを食べる速度が増した。

 アレパの中には潰したジャガイモも入っていて、それがまた美味しい。たっぷりの肉汁を受け止めているから、飲み物を飲まなくても喉が詰まる心配もない。

 一個で足りるだろうかと思ったのに、食べ終わってみればすっかりお腹がいっぱいになっていた。

 俺の両手は肉汁まみれで、ところどころに肉の繊維がついていた。行儀が悪いのは百も承知だが、そっと舌を伸ばして舐めとった。

「米田さん、ほっぺにも付いてますよ」

 佐川さんが指で拭った場所は口から離れていて、どうしてそんなところまで飛んでいるのか不思議だった。

 礼を言おうと視線を上げたら、ちょうど佐川さんが俺のほおを拭った指を口に入れたところだった。

「〜〜ッ!」

 舐めとった肉の繊維を咀嚼しているところでよかった。

 そうじゃなければ俺はおかしな叫び声をあげていただろう。

 少しだけ見えた舌は唾液で光っていた。

 赤く柔らかな粘膜の動きを見たのは一瞬なのに、はっきりと脳に焼きついた。

 成人指定しないとまずいよ、佐川さん。

 優しくて、かっこいい佐川さんはエロくもあった。

「大変だ……」

 やっと興奮がおさまって、口を開いた俺の呟きを誤解した佐川さんはおしぼりの追加を貰ってきますと席をたった。

 遠ざかる後ろ姿は見慣れたライダーススーツではないけど、やっぱり形の良い尻が目立った。

 かっこいいな、佐川さんの尻。

 俺もあれくらい魅力的な尻だったら、もっと勇気が出るのだろうか。

 大好きな佐川さんと特別な関係になりたいと思いながら、何もできずにいることに焦れていた。

 でも、確実に幸せな未来を望むなら、変わらない今を続けていくのも最良の選択の一つだとわかっている。

 幸せは恐ろしい。

 満たされているはずなのに、次から次へと欲しくなる。

 今日も俺の中の佐川さん情報は大幅更新された。

 それで満足するべきでしょうよ。


「……さん、米田さん」


 佐川さんに呼ばれて、頭を動かせばぼんやりとしか見えなかった。


「米田さん、寝ちゃってましたよ」

「そんなことないですよ」

「しっかり寝てました。もう帰りましょう」


 いつだって俺はまだ帰りたくないのに、もっと一緒にいたいのに、佐川さんはすぐに俺を帰らせようとする。

 俺といるの嫌なのかな。


「嫌なわけないでしょう」


 佐川さんの優しい声がした。

 差し出された手を掴めば、引き上げられて立たせようとしてくれるが、俺は身体に力が入らない。


「米田さん、家まで送るから頑張ってください。早く家に帰ってぐっすり寝れば元気が出ますから」


 寝ても、エナジードリンクを飲んでも、俺は元気になんかならない。

 俺の元気の素は佐川さんだから、佐川さんがいなけりゃ元気は出ない。


「そういうこと簡単に言っちゃダメですよ」


 言ってないよ。

 心で思うだけならいいじゃないか。

 俺は佐川さんに会えると思っただけで元気が出るし、佐川さんに会うためならなんだって頑張れるのは本当なんだから。


「口に出てますよ。そんなこと言ったら、俺期待しちゃうじゃないですか」


 ぐにゃぐにゃで立っていられない俺を支えるために、佐川さんは俺を抱きしめるみたいになっていた。

 耳をくすぐる湿っぽい佐川さんの吐息も、緊張した声も、全部俺だけのものな気がした。


「俺、佐川さんが大好きです」


 何度も頭の中で繰り返した言葉だから、上手に口にできたはずだ。

 徹夜明けでぼんやりしていた頭は急速に覚醒した。

 あぁ、これどうなっちゃうんだ?


「米田さんのこと、好きです。でも米田さんの好きと俺の好きが同じかは、わからない」


 俺を支える両腕に力が入って硬くなったのに、俺を強く抱きしめてはくれない。

 脱力して、両脇に垂れ下がるだけだった両腕を佐川さんの背中に回して、力を込める。

 初めて、佐川さんを抱きしめた。


「俺の大好きは、こういう好きです。佐川さんのことをもっと知りたいし、もっと仲良くしたいし、独り占めしたい。そういう大好きですよ」


 俺の言葉の一呼吸後で、佐川さんの腕が俺に力強く巻きついた。

 一瞬呼吸が止まるほどの強さで、とても気持ちが良かったから、俺も一生懸命佐川さんを強く抱きしめた。


「俺の好きと一緒です。米田さん、俺と付き合ってください」


 佐川さんの顔が見たくて顔をあげれば、すぐ近くになった。

 いつもより緊張した顔で、少し頬が赤くなっていた。

 誰にも見せたくないけど、ずっと見ていたい。

 そう思ったのに、叶わなかった。


「ん……」


 柔らかな感触が唇に当たる。近すぎる佐川さんに焦点が合わない。

 だからキスの時、人は目を閉じるのだろうが、ぼやけていても俺は佐川さんを見ていたかった。


 ◆◇◆


 大人でよかった。

 子どもの時みたいに、自分の願望を叶えるのに保護者の許可や助けがいらないから。


 繁華街の路地裏で想いを告白しあった俺たちは、晴れて恋人同士になった。

 もう一秒だって離れたくない。

 じゃあ、離れなきゃいいじゃないか。


「佐川さん、ホテルに行きましょう」


 明らかに怯む佐川さんに俺は追撃の手を緩めない。


「俺、徹夜明けで限界です。多分、バイクの後ろに乗ってられません。ちょっと休ませてください」


 そこに嘘は一ミリもない。

 ただ下心に一切言及していないだけだ。


 優しい佐川さんは、俺に無理はさせられないと思ったのだろう。


「近くにあるみたいですから、休んでいきましょう」


 俺の望みを叶えてくれた。

 ホテルの部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、壁に押し付けられて唇を奪われ……ることもなく、佐川さんは風呂を準備し、お茶を入れ、部屋着とタオルの準備を脱衣所に整えた。

 このあとえっちなことは何もなく、俺は一番風呂を勧められ、佐川さんに髪を乾かして貰い、ふかふかの布団で包まれて寝た。


 気が利いて、優しくて、かっこいい。

 この佐川さんが俺の恋人なんです。

 大好き、佐川さん。


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