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雑記(仮題)  作者: soo
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初穂料は五千円。それでお祓いと破魔矢と厄除けのお札とJAのお弁当がつく。

 この部分はあとで消す予定だけど、昨日の記事はあれから何度も書き直した。最初に載せていたものよりは軽く茶化した感じにしたつもりだけど、やっぱり根っこは湿っぽい。何度書き直してもモヤモヤする。もどかしい。多分テーマが私のキャパオーバーだった。結論の出ない話を衝動に任せて書き殴って、自爆。そんな感じ。あーあ、あーあ。


 他人に己を理解してもらうことと、他人の言動を変えること。この二つを私は諦めている。投げやりになっているわけじゃないよ。普通に無理って思っているだけ。だって私は他人をそうそう理解できないし、誰かのために自分を変えることもできない(たまにできるけどね。欠点を直すとか)。

 私よりも人間ができている人なら可能なことかもしれないけど、まあ、そういう人はそもそも自分のしたことを己の中にしまっている。人には言わない。どや顔もしない。格好いい。そうなりたい。いや、やっぱいいや。大変そうだもんな。私は不遜な自分が好きだしな。

 話がそれちゃったんだけど、基本はそういう風に考えている私がどうしても諦められないのが母なんだと思う。理由も多分、母だから。分かって欲しいし、考えを改めて欲しい。母の理想を生きられない私をできればそれでも受け入れて欲しい。諦めればいいんだろうし、何度も諦めてきたんだけど、やっぱり何かあると期待しちゃうんだな。家族って、本当に厄介。


 人間関係は偶然の一致で成立すると私は思う。ある地点でお互い心地良い距離に接近すれば特別な感情や関係が生まれるし、時期を過ぎれば必ず離れる。心より先に寿命で別れることもあるしね。今一緒にいることしか大切じゃないし、今この瞬間に相手を好きでいることにこそ意味がある。そう思って他人と接している。でも家族はちょっと違う。最初から、心地よさと心地悪さの混沌の中でくっついていて、離れるにはパワーがいる。そう考えるとこういうことって、血の繋がった家族に限らずあるのかもね。混沌を共有した他者同士なら、誰にでも起こり得ることなのかもな。


 いつか、スッキリとこの問題について書ける日が来るのかな。来たらいいけど、来なくてもいいや。人生にひとつくらい、一生解けない難問があったっていいさ。


(ここまで。あとで消すかも。消さないかもしれんけど)


* * *


 ブログやエッセイを書くのに気が進まない理由が三回目にしてちょっと分かったかもしれない。早くない? 私もそう思うよ。でも、うっすら察してきた。基本、私が根暗なのがバレるからだわ。もう知ってるよって人がいたらゴメン。私はバレていないと思っていたんだ……。

 明るくて痛快なところを見せたいけど、自分の素を掘り進めていくと何か真っ黒な液体がいっぱいわいてきて、ちょっと火種があるとすぐに燃えるんだよね。もう、すっげえ燃える。メラメラする。怒りとか憎悪とはちょっと違うんだけどね。感情じゃない。想いみたいなものかも。えっ、黒いとか嫌だな。でも、今のところすごい黒いんだよなあ、どう見ても。毎日雑記を更新することで少しでも濾過できたらいいね。そうしたら正体がもう少しはっきりするかな。


 それはそうとして、今日は節分だったので厄払いに行ってきた。会社に入ってびっくりしたんだけど、厄年を気にしない人もいるんだよね。私は神社にお参りに行くたび「今年の厄年」を確認するんだけど、数年前まで皆そうだと割と本気で信じていた。「そんなの見たことない。厄年って何?」って言われたときの衝撃よな。ちなみにその人はちょうど厄年だったんだけど、運悪く新車の外車をぶつけたらしく「厄年だからか」って納得し、その後人生初の厄払いに行ったらしい。

 そういうわけで、今年の厄払い。少し前から厄年関係なく節分は厄払いに行くことにしている。近所にそれなりの大きさの、でもあんまり有名じゃない神社があって、毎年そこで豆まきをしてくる。初穂料は五千円。それでお祓いと破魔矢と厄除けのお札とJAのお弁当がつく。

 正直、本気で厄を祓いたいというより一年のルーティンみたいな感じ。季節を感じるこの行事が好きだし、神社の社殿に入れるのも嬉しい。非日常感に気持ちが浮き立つ。私は信仰を持っていないけれど、この日は神さまの存在をちょっと近くに感じる。


 節分祭り(地元の神社では厄払いをこう呼ぶ)は午前から夕方まで一時間おきにあるので、今年も最終回の十八時をとった。夜の神社って普段は怖いけど、厄払いの日は堂々と入れる。社殿の中はぼんぼりとか、壁に取り付けた和紙の照明で照らされていて、民家とは明らかに光が違う。いいなあって思いつつ、始まるまであれこれ観察して楽しんだ。何度も来ている場所な上、大きな変化もないんだけどね。分かってるんだけど、毎年やる。そのうち神主さんたちが入ってきて、すみっこに置かれた和太鼓をドンドン。盛り上がってきたぞ~ってところで厄払いが始まり、大体三十分くらい。祝詞をあげてもらって、最後は豆まきで〆。途中ちょっと眠くなったりもする(頭を下げているので居眠りしてもバレない)。


 少し前まで、神さまに願うことはいっぱいあった。でも最近は大体いつも似たようなことを願う。「なるべく人を憎まず、恨まず、誰かの不幸を願ったりせずにいられますように。努力するのでお力をお貸し下さい」って感じのこと。ちなみに盛ってません。ガチです。これは本当にガチ。だって、これめっちゃくちゃ難しいじゃん。そしてやると心がズタズタになるじゃん。自分のことが嫌になるじゃん。でも難しい。日記に悪口をつい書いちゃう。ツイッターを見て「ザマァ♪」って喜んじゃうときもある。やりたくないんだよ~本当に。減らしたい。だから神さまにお願いしている。浄化してくれ、この魂!

 文才とかお金とか、夢とか野望とか、願いたいことは探せばある。でも、私は少し前から「幸せな時間」を人生最大の価値基準にしている。他人からどんなに可哀想に見えても、私が満足しているなら大勝利ってな。そういう強さが欲しいんだ。そのために悪意はため込みたくないし、なるべく抱えるきっかけも減らしたい。でも難しいんだよ~頑張っているんだけど。前より少しはできるようになったけどね。今後もこの方向で突き進みたい。だから、来年もまた豆まきに行く。

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