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当て馬令嬢は運命の出会いを所望します~しかしヤンデレ従者に邪魔されます

作者: 水沢まな

短編作品です。よろしくお願いします。

視点が第三者、ヒロイン、ヒーローと場面によって変わります。

――――穏やかな昼下がり。


 一人の令嬢が美しく整えられた庭園で、お茶の時間を楽しんでいた。

 彼女のそばには、給仕も務める優秀な従者が一人控えている。



 しばらくお茶を嗜んでいた令嬢は、やがてそれを飲む手を止め、目の前に置かれた手紙を手に取った。


 それに目を通すと、令嬢は物憂げにつぶやく。


「まただわ。」


「そうですね。」


 従者は空になったカップに茶を注ぎながら、淡々とそれに相槌を打つ。



「これで何度目かしら。」


「十三回目でしょうか。なんだか不吉な数字ですね。」


 茶を注ぎ終われば、次には足りなくなった茶菓子をワゴンから取り出し、主の前に並べていく。



「十三回。不吉……。そうよね、あなたの言う通りだったわ。もうそんなに数を重ねていたのね。」


 令嬢は遠い目をして、そうつぶやく。従者が入れ直した茶を一口飲んで、ふうと息を吐く。



「……ところで、今度はどういう理由かあなたは聞いているの?」


「幼い頃に結婚を誓った少女と、運命の再会を果たしたそうです。」




 グシャッ!

 その言葉を聞いた令嬢は、手にしていた手紙を握り潰した。


「そう……お手紙には家の都合と書かれていたけど、またそういう理由なのね……。」


 令嬢の声色が、物憂げだった先ほどと比べて、険しいものへと変わっていく。握り締めたその手は、ワナワナと震えている。



「前回は、『騎士としていっしょに任務にあたっていた女性が、自分を庇って怪我をしたから、責任を取って彼女を娶りたい』だったかしら?」


「はい。今は相思相愛の仲で幸せに暮らしているそうです。」


「前々回は、『海で倒れていた少女を保護したら、実は遠方の国の令嬢で、恋に落ちた二人は彼女の国へと旅立ってしまった』とご家族が謝罪に来たわよね?」


「はい。ご両親も嘆かれていましたが、彼は今ではその国で立派な領主として務めていらっしゃるそうですよ。」


「さらにその前は、『亡くなったと思われていた元婚約者の女性が、実は生きていて、互いに想いを通わせたから再婚約するつもりだ』と言われたわよね?」


「はい。あれには驚きましたね。事故で記憶を失って、彼に再び出会うまで、田舎で平民として過ごしていたそうです。今度この二人を元にした観劇が公演されるようですよ。」




 ガタンッ!

 突然、令嬢がテーブルに強く手を突き、立ち上がった。その体は小刻みに震えている。


「なんでこう毎回毎回……」


 下を向いたまま、彼女は小さな声でつぶやく。


「どうしましたか?」


 そう淡々と問う従者の顔を、キッと見上げた令嬢の顔は、怒りに眉を吊り上げている。




「なんで毎回、こんなに何度も、私の婚約は破棄されるのよ!」



 令嬢はとうとう大きな声で喚き散らした。ひとしきり怒りをぶちまければ、次にはテーブルへと顔を突っ伏してワンワンと泣き始める。


 そんな彼女を横目に、従者はつぶやいた。


「運命の理ってやつですかね。」





*****

 しばらくの間思いっきり泣いたおかげで、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

 テーブルに突っ伏していた顔を上げて、前を向く。涙に濡れた顔に髪が張り付いて、鬱陶しいことこの上ない。


(こんなことでいつまでも泣いているわけにはいかないのよ。)


 私は由緒あるトルトイ侯爵家の一人娘ユリア。いつでも毅然とした振る舞いをしなくては。



 涙をグッと拭い、私の回復を待っていた従者に、お茶をもう一度入れてもらう。


 先ほどから、私の後ろに控えているのは、幼馴染であり従者のアルフォン。アルフォンの父親がトルトイ侯爵家の執事ということもあり、幼い頃から私の従者としてともに過ごしている。

 昔からの付き合いのせいか、私に対して何の遠慮もなく、思ったことをそのまま口に出してくるちょっと生意気な従者だ。私がこうして傷心していても、慰めの言葉をかけてくる気配は全くない。



(大体、私のこの脈々たる婚約破棄の歴史を、アルフォンは昔から予知していたわけだしね……)




 忌々しいあの日を思い出す。

 私が十四歳になったその日。私に初めての婚約者が出来た。お相手は、身分の釣り合いのとれた三つ年上の侯爵家の長男だ。


 初めての婚約に私は心躍らせた。

 しかしあの従者は、そんな私にとんでもないことを言い放ったのだ。


「お嬢さま、失礼を承知で申し上げます。おそらく今回の婚約はすぐに破棄されるでしょう。」


 突然の従者の言葉に私は衝撃を受けた。純粋に結婚に憧れる無垢な十四歳の私は、泣いて縋ってその理由を従者に問い質した。



 泣きわめく私を前にしても、彼は全く顔色を変えず、次にはこう言ったのだ。


「実は私には前世の記憶があるのです。そして、今いるこの世界の一部の未来を知っています。その記憶によれば、お嬢さまは、今後も婚約をしてはそのお相手に別の女性が現れ、婚約を破棄されるという出来事を、何度も何度も繰り返すことになるでしょう。」



 その彼の告白に、私は驚愕した。そして目を見開いたまま卒倒した。



 目覚めた後は、おかしな発言をするアルフォンを医師に診せようと、一目散に彼を邸宅内の診療室まで引きずっていった。しかし、覚えがないと白を切ったアルフォンに、当然医師は異常なしとの診断を下す。おかしな妄想をしたのは私のほうだと、逆に私が哀れみの目で見られることになった。全く解せない。




 その後、アルフォンの言うように、相手に他に好きな女性が出来たという理由で、その婚約はひと月で破棄された。そしてまたアルフォンの言うように、私は今に至るまで、何度も婚約破棄を繰り返しているのだ。





*****

 お茶を切り上げて部屋に戻り、ベッドに屍のように横たわりながらアルフォンに問う。


「あなたの記憶では、私はあと何回こんなひどい思いをすれば、運命の相手に出会って幸せな結婚が出来るのかしら?」


「お嬢さま……今時運命だなんて。」

 こちらは真剣に聞いているというのに、この従者は鼻で笑ってきた。


「いいから答えなさい!」


「わかりませんよ。私の記憶では、お嬢さまは一度も、どなたとも幸せな結婚には辿り着いていませんでしたから。」



 何度聞いても返ってくる答えは同じ。わかっている。それでも聞かずにはいられない。



「……あなたの記憶がアップデートされることはないの……?」


「お嬢さま、よくそんな言葉を覚えましたね!アップデートだなんて難しいお言葉を……。このままいけば、私の前世の世界にトリップするようなことがあっても、すぐに順応して生きていけますよ!」


 項垂れる私をよそに、嬉々としてアルフォンはそう答えた。私は全く嬉しくない。

 普段は滅多なことでは表情を変えず、感情の起伏を表に出さない男のくせに、前世の話となると急にテンションを上げてくるのだ。なんて従者だ。


「だからそんなことはどうでもいいの!私は結婚したいの!愛し愛される相手と運命の出会いをしたいの!」


 思わず起き上がって、大声で自分の願望を叫んでしまった。貴族令嬢にあるまじき姿だ。



(でもそうしたくなる私の気持ちもわかってほしい……。)



―――婚約した相手を「いいな」と思っても、相手がすぐに別の人を好きになり、あっさり婚約破棄。


―――やっと愛の言葉を囁いてくれたと思ったら、次の日には「運命の出会いをした」と言われ婚約破棄。


―――全く好みではないが、結婚してからゆっくりと愛を育もうと決意して婚約しても、しばらくすると相手に別の結婚の王命が下り、婚約破棄。




(いくらこの国の慣習が婚約や結婚に対して寛容だからと言って、こうも婚約破棄が繰り返されるのはおかしいでしょ!?)


 この従者に言わせれば、「元は乙女ゲームの世界ですから」というよくわからない理屈で、この理不尽な事態にも説明がつくらしい。




「私ってそんなに魅力がないのかしら……。」

 思わず弱気な本音が漏れてしまう。


「そんなことあるわけないでしょう。お嬢さまは間違いなく魅力的なお方です。男に見る目がないだけです。」


 アルフォンはすぐさまそれを否定した。アルフォンのその言葉に、私は頬が熱くなってしまう。


(この従者は、たまにこうやってどストレートに褒めてくるのよね。)


 動揺する姿を見られたくなくて、アルフォンに背を向け、窓の外を眺める振りをする。赤くなった頬を戻すべく、必死で別のことを考える。




(アルフォンも家族も私に責はないって言ってくれるけど……)


 それでも結婚までたどり着かない。


 お父さまもお母さまも、もはや普通の貴族令嬢としての私の結婚は諦めていて、私の好きなようにしなさいと最近では言ってくる。まあ好きにしていいと言われても、このままではその結果も婚約破棄へとつながるのではないだろうか。私の結婚運はどうなっているのか。



 気を紛らわせようとしたのに、落ち込むようなことを考えてしまった。

 頭を抱えて項垂れる。瞑想の世界に入ろうと布団の中に潜り込んだ。




「それなら私と結婚すればいいじゃないですか。」




 布団の中に潜り込むや否や、すぐにアルフォンのそのつぶやきが耳に入ってくる。

 体が一瞬震えてしまう。それを誤魔化すように、すぐに布団から顔だけ出して、彼のつぶやきにこう答えた。


「……いやよ。あなたは家族同然よ。結婚とか婚約とか……考えられないわ。」



「……ではどうぞご自由に。」


 彼はそれ以上言葉を重ねずに、いつものように支度を続ける。




 いつの頃からか、私が婚約破棄をされる度に、アルフォンがこんなことを言ってくるようになった。

 私が何度同じ答えを繰り返しても、アルフォンは納得した様子を見せない。そして、またしばらくすると、同じこの問答を繰り返すのだ。


(同情されているのかしら……)


 婚約破棄で自信をなくす私を、少しは慰めようとしているのかもしれない。


(でもそんなことで、求婚なんてしないでほしいわ。)


 本気ではないとわかっていても、毎回恥ずかしいくらいにうろたえてしまう自分がいる。

 

 落ち着きのなくなった顔を見られたくなくて、私はもう一度布団に潜りこんだ。今日はこのまま寝てしまおうか。




 しばらくそうして布団の中に籠城していると、先ほどまで忙しなく動いていたアルフォンが手を止めて、こちらに近づいてくる気配がする。



「……お嬢さま、せめて少しでも何か口に入れてから眠られたほうがいいですよ。」


 いつもよりもほんの少し優しげなその声に、布団から再び顔を覗かせる。アルフォンは何か飲み物の用意をしてくれているようだ。


「これをお飲みになられている間に、軽い夕食を用意してきますから。」


 そう言って、彼はカップをベッド横のサイドテーブルへと置いた。カップからは甘い香りが漂っている。


 匂いにつられベッドから起き上がり、カップを覗けば、用意されていたのは私の大好きな飲み物だ。

 カップを手に取り、そっとそれに口をつける。



「……ココアって本当に美味しいわ。あなたの前世は美味しいもので溢れている世界なのね。……毎日入れてくれればいいのに。」


「紅茶とは違って、砂糖をたっぷり使った飲み物ですよ。毎日飲んでいれば、あっという間に肥えてしまいます。」


 口ではそんな意地悪なことを言うが、これも彼なりの優しさなのだと知っている。こんな時の私を見つめる彼の視線は、とても優しげで、まるで愛しいものを見ているかのようだ。


 昔から私が落ち込んでいると、彼はよく自分が前世で食べていたという飲み物や食べ物をわざわざ作って、私に振る舞ってくれていた。その中でも、このココアは特に私のお気に入りだ。

 この国ではほとんど流通していないカカオという実の粉を、アルフォンがわざわざ他国から取り寄せて細かく選別していることを私は知っている。



(主人想いの従者よね……)



 だからあんな求婚の言葉もかけられるのだろうか。

 でもそれを真に受けるようなことは、私はしてはいけない。



(だってあなたは愛の言葉は囁かないもの……)



 そんなことを思ってココアをもう一口飲み込めば、甘いはずのその味が、少し苦く感じたのは気のせいだ。





*****

 それからの私は運命の出会いのため、奔走する毎日を送った。


 まだ婚約者のいない男性を見繕っては、お父さまにお願いして、茶会やパーティーへの誘いの手紙を送ってもらう。さすがに手紙を出せる先も少ないが、それでも誘いに応じてくれる方が何人か見つかった。気合いを入れて約束の時を待つのだが、なぜだか毎回その手前になると、悉く彼らに別の婚約者が見つかって約束は流れてしまった。


 それならば自分から出会いの場に出向こうと、友人に誘われた夜会には全て参加した。しかし、なぜだか私の周りに集まるのは年若い令嬢ばかりで男性はさっぱりだ。最近我が領地で開発された化粧品に興味があるようで、彼女たちから押し寄せる質問の嵐に耐えている間に、あっという間に迎えが来て会場を去ることになってしまう。




(なぜかしら?以前に増して男性と出会う機会が減っている気がするわ……。)


 遂に今日は何の予定もない。さすがに声を掛ける先も、出向く先もなくなってきた。


 自室のソファで呆然としながら物思いに更ける。


(このまま独り身でトルトイ侯爵家を担っていくことになるのかしら……。)


 この国では、女性の爵位継承も認められている。しかし大抵の女性は夫とともに家を支え、領地を運営していくものだが。




 遠い目をしてお茶を飲んでいると、メイドが手紙を届けに来た。いつもはアルフォンの仕事だが、彼は今朝から別の用事で外出している。


 毎日届く大量の手紙に目を通すのも、貴族としての日課の一つだ。いつもはアルフォンが不要な手紙は処分してくれるが、今日はやることもないので、一つ一つ自分で確認をしていく。


 すると一つの手紙が目に止まった。以前夜会で挨拶をしたバルト侯爵家のご夫人からの手紙だ。



(バルト侯爵家……これは以前令嬢たちとの茶会で話題になっていた、お見合いパーティーへの招待状じゃないかしら!)


 慌てて手紙を開封し、その内容を確認する。やはり思った通り、茶会への誘いの手紙だった。

 

 ここのご夫人は男女の結婚を斡旋するのが趣味で、定期的に茶会を開いては、年頃の若者たちを招待して出会いの場を作っている。貴族だけでなく、親交のある裕福な平民の子息も参加するが、どれも確かな名のある家の者たちばかりなので、信頼できる出会いの場として、令嬢たちの間で噂になっているのだ。



(ずっと気になってたのよ!婚約破棄ばかりの私だから、招待状が送られてこないのだと思っていたけど……これはチャンスだわ!)



 すぐに参加の返信を書き、それをメイドに預ける。


 今度こそ素敵な相手に巡り合えるかもしれない。久しぶりに心がウキウキする。

 ニコニコとお茶を楽しんでいると、アルフォンが外出から戻って来たのか、いつものように部屋を訪ねてきた。



「お嬢さま、どうされました?随分ご機嫌な様子になられましたね。最近は枯れ草のようにしおれた顔ばかりされていたのに。」


「あなた、その例えはもう少しどうにかならないの?」


 会って早々その言い草はなんだ。

 いつものこととはいえ、アルフォンのあまりの言い様に思わず苦い顔になってしまう。でも今日はすぐに顔がにやける。今の私はそんな不躾な言葉も笑い飛ばせるような爽快な気分だ。



「実はバルト家のご夫人から茶会の招待が来たのよ!あのお見合いパーティーと言われている茶会への誘いが!私のところにやっと!」


 嬉々として、アルフォンに先ほどの招待状を突き付けた。


 以前からアルフォンにはこの茶会の話題を何度も出してきた。その度に、「お嬢さまのところにそのお誘いは来ないのでは」と彼に軽くあしらわれてきたのだ。



「でも茶会まであまり日にちがないのよね。すぐにドレスやアクセサリーを選び始めないと!アルフォンも手伝ってちょうだい。」


「……かしこまりました。」


 そう答えるアルフォンは、いつもと違ってなんだか冴えない表情だ。


 従者であるアルフォンに確認もしないで、勝手に予定を変えたので怒ったのだろうか。

 不安になってしばらくアルフォンの様子を見ていたが、その後の彼はいつものように淡々と完璧に準備を進めていく。すぐに茶会の準備は整った。



 そしてあっという間にその日はやってきた。





*****

(やっぱりだめだわ。)


 バルト侯爵家の美しい庭園の隅っこで、私は一人項垂れていた。

 今日は従者のアルフォンもこの茶会には同行していない。

 お見合いパーティーというだけあって、皆会場には一人で参加している者がほとんどだ。たまに同伴者がいても、それは令嬢の母親くらいだった。



(こんな場所に一人でいると余計に惨めね。)


 意気揚々と茶会に参加したが、やはり私の連続婚約破棄記録は社交界でもよく知られているようだ。男性に声を掛ける時はいつもお父さまが間に入っていたから、自分ではこの扱いにあまり実感が湧いていなかった。貴族の令息と話をしても、私の名を伝えると皆そそくさとその場を去っていく。



(まあ普通は私に問題があると思うものよね。)


 むしろここに至るまで、よく新しい婚約者が見つかり続けたものだ。




 もう帰ろうかと挨拶のためバルト侯爵夫人を探していると、よそ見をしていたせいか、近くを歩いていた人にぶつかってしまった。


「申し訳ございません!」


 すぐにそちらを振り返り、謝罪をする。


「いえ、私も考え事をしながら歩いていたもので。ご令嬢に対して失礼を致しました。」


 そう丁寧に返してくれた人は、社交界では見たことのない男性だった。整った顔立ちをしていて、服装も華美ではないが上品で清潔感がある。しばらくぼうっと顔を見つめてしまう。


「私はアルド商会のウィンストンと申します。美しいご令嬢、お名前を伺ってもよろしいですか?」


「トルトイ侯爵家のユリアと申します。」


 我に返って慌てて返事を返す。よく考えずに名乗ってしまったが、私の名を聞いたら、この彼もすぐにこの場を立ち去ってしまうだろう。



「あの名家のトルトイ侯爵家のご令嬢でしたか。ますます失礼なことを致しました。」


 彼はそう言って礼を取り、私に穏やかな微笑みを見せた。



 結果として彼がその場を立ち去ることはなかった。それどころか、ぶつかった時に私が痛めたところがないかを気にした彼は、その後優しく私を椅子までエスコートしてくれた。


 その場でしばらく二人で会話をする。

 どうやら彼はアルド商会の会長の息子で、父親と取引のあるバルト侯爵夫人から今日の茶会の招待を受けたようだ。普段は仕事の話ばかりで、貴族の令嬢と普通に話す機会はないようで、彼も緊張しながら会場の隅で過ごしていたらしい。


 しばらくは彼の話を楽しく聞いていたが、後から貴重な時間を無駄にしたと彼に後悔をさせたくない。話がひと段落したところで、私の婚約破棄の歴史を彼に話した。



(今度こそこの場を去ってしまうかしら……?)


 そう不安に思っていたが、話を聞いた彼は、「全て相手に非があることだ」と逆に私を慰めてくれた。



(なんて優しくて素敵な人なのかしら!)


 今までにない男性の反応に、一気に胸が高鳴る。


 その後も茶会が終わるまでの時間を、私はずっと彼と話して過ごした。茶会の終わりに、彼は素敵な笑顔を浮かべながら、「手紙を送るので、後日また改めてお会いしたい」と私に告げてくれた。





*****

 らんらん気分で侯爵邸へと戻った。部屋に入りベッドに飛び込むと、今日の出来事を思い出して、思わずベッドの上を転げ回ってしまう。


(やっと出会えたわ!こんな私を受け入れてくれる人!)


 婚約破棄が続いて、生涯独り身を覚悟していたのに、あんな素敵な人と出会えるとは。茶会に誘ってくれたバルト侯爵夫人に本当に感謝だ。



 私が喜びを噛みしめていると、部屋のノックが鳴る。

 入室を許可すれば、そこにいたのは強張った表情をしたアルフォンだった。



「……そのお顔を見る限り、茶会はうまくいったみたいですね。」


「よくわかるわね!そう!素敵な出会いがあったの!今度また私に会いたいって言ってくださったわ。」


「その方から早速手紙が来ております。」


 アルフォンが固い表情のまま差し出したその手には、一通の手紙が握られている。



 なんて早さだ。ウィンストン様は家に戻ってからすぐに、手紙を送ってくれたようだ。

 アルフォンから手紙を受け取って、中身に目を通す。それは婚約破棄の手紙なんかじゃなく、正真正銘デートのお誘いの手紙だ。



 私は満面の笑みで、アルフォンに目を向ける。


「お父さまの許可は取れた!?」


「……取れました。お嬢さまのお好きにして良いそうです。」


「良かったわ。」


 お父さまの許可が取れたことにほっとする。

 以前から私の好きなようにしていいとは言われていたが、相手の彼は大きな商会の後継者とはいえ平民だ。嫌な顔をする貴族の親も多い。

 基本、貴族の間ではこうした誘いの手紙は家宛てに出し、当主の許可を得て逢瀬を重ねる。ウィンストン様もそれに則って、すぐにお父さまに手紙を出してくれたのだろう。



「返事をすぐに書くわ。」


 興奮した気持ちを抑えられない。慌てて返信のために紙を取り出し、了承の手紙を書こうとする。



「……行かれるのですか?」


 そんな私の様子に、珍しくアルフォンが眉を潜める表情を見せた。その顔を見て、何故だか胸がチクリと痛む。


「……もちろんよ。」


 それでも行かないという選択肢はない。千載一遇のチャンスだ。


「普通はもう少し手紙のやり取りをしてから、お会いになるか決めるものでは?」


 今日の彼は妙にしつこい。その表情もどんどん険しくなっている。


「今日の茶会でもうたくさん話をしているもの。以前のような初めてお会いする方とは違うわよ。」


 いつもと違うアルフォンの表情に少し怯むが、ここで引くわけにはいかない。彼を無視して手紙の返事を書き、封を閉じる。




「……その男のことを好きになったんですか?」


 これまで聞いたことのない、ぞっとするほど低い彼の声に、一瞬体が震える。顔を上げて彼を見たが、アルフォンは俯いていて、その表情はわからない。



「好きとか……そんなすぐにはわからないわ。でも今度こそうまくいくかもしれないから、この出会いを大切にしたいのよ。私も侯爵家の跡取りよ。できれば結婚して身をきちんと固めたほうがいいに決まっているじゃない。」


 まだ婚約とかそんなことまで考えているわけじゃない。でもこれが運命の出会いを果たす最後のチャンスかもしれないのだ。



「そんなに結婚がしたいのですか?」


「そうよ。ずっとそう言ってきたじゃない。」


 暗い声でそう尋ねてくるアルフォンから目を逸らす。いつもと違う彼の様子に、私の心も落ち着かない。


(部屋を出て、話を切り上げてしまおうかしら。)


 この空気は居た堪れない。部屋を出ようと顔を上げると、アルフォンが鋭い瞳でこちらを見つめていた。その視線に体が動かなくなる。




「……じゃあなぜ私ではダメなのですか?なぜ私の求婚は受け入れてくださらないのですか?」


 彼は消え入りそうな声で、私にそう問いかけてきた。

 彼のその言葉に私は完全に動揺してしまう。慌てていつもの言葉を繰り返そうとする。


「またそんなこと言って……。だから私とあなたは……」


「何ですか!?家族ではないでしょう!……いつもあなたはそんな言葉でごまかしてくる!」


 声を荒らげてそう言い放った彼の表情を見て、驚いた。


 アルフォンはとても苦しげな、今にも泣きだしそうな表情を浮かべていた。




「アルフォン……あなたどうして……」


 その表情の意味することを知りたくて彼に問いかけようとするが、アルフォンは私の書いた手紙を手に取ると、すぐに部屋を出て行った。


 残された私は彼を追うことも出来ず、ただ茫然と彼の出て行ったドアの扉を眺めるだけだった――――





*****

 それからアルフォンが私のそばにいる時間がぐんと少なくなった。

 どうやらお父さまに別の仕事を任されているようなのだが、アルフォンがそばにいないとなんとなく気持ちが落ち着かない。



 あの後、すぐにウィンストン様からはデートの詳しい日時を告げた手紙が届いた。私が誘いを受けたことを、彼はとても喜んでくれたようだ。


 今、私はウィンストン様とのデートの支度を、メイドたちに協力してもらいながら進めている。いつもの外出では、私の身支度についてはアルフォンがほとんど決めてしまうため、こうして自分主体で洋服やアクセサリーを決めるのは初めてかもしれない。思っていたより悩むことが多く、時間がかかってしまった。



(うまくいくかしら……)


 ウィンストン様との約束の前夜、私は布団に入りながら、明日のデートの様子を頭の中で思い描いていた。ウィンストン様と街を歩く自分の姿が浮かんでくるが、すぐにそれがアルフォンのあの日の苦しげな表情に変わる。



(しばらくアルフォンと話をしていないからか、気を抜くとすぐに彼の顔が浮かんでくるわ……。)



 幼い頃に彼が私の従者になってから、こんなに顔を合わせない時間が長くなるのは初めてだった。

 実際には、毎朝部屋に挨拶にはやって来るが、目も合わせず、終わればすぐに彼は部屋を出て行ってしまう。



(やっぱりあの日のことがあったからよね……)


 あんな風に感情を表に出すアルフォンの姿は初めて見た。彼の言葉を思い返してみれば、あの求婚はずっと本気のつもりで言っていたということだろう。


 本当はきちんと話をしないといけない。それは自分でもよくわかっている。


(でもアルフォンは一度も私を好きとは言っていないもの……)


 アルフォンの本音を聞くのをこわいと思ってしまう。何も見ず聞かずを貫いていれば、ずっと夢を見ていられるから。



 目を閉じて、無理やり思考を手放そうとする。

 それでも何度もアルフォンの顔が浮かんできて、その日はなかなか寝付くことはできなかった。





*****

(すっかり寝不足だわ。)


 あれから結局寝付けたのは、明け方近くだった。メイドに身支度を整えてもらうが、まだ頭がぼんやりしている。

 悩みに悩んで決めたドレスに身を包み、髪もそれに似合うようセットしてもらう。

 今日は街歩きをするために、いつもよりだいぶ簡素なドレスにしてみた。庶民のそれに近い形のものだ。しかし、上等な布を使い美しく繊細な刺繍が裾全体に施されたそれは、見る人が見れば、高位貴族の装いに相応しい上等なものであることはすぐに気が付くはずだ。



(ウィンストン様は気に入ってくださるかしら……。)


 いつものようにアルフォンに太鼓判をもらった装いではないため、不安を感じてしまう。


 アルフォンは早朝から別の仕事で外出しているようで、今朝は会うことさえ出来なかった。今日は夕方まで屋敷に戻らないようだ。


(朝早くでもいいから顔が見たいと素直に言えれば良かったのに……。)


 会話のない今では、以前のような我儘も言えなくなった。アルフォンのいない日々に慣れることはこれからも難しそうだ。


(やっぱり今日の外出が終わったら、アルフォンと話をしましょう。)


 そう決意して、部屋を出る。


 アルフォンのことばかり考えているうちに、約束の時間になってしまった。そのことになんとなく罪悪感を覚えてしまう。今日はウィンストン様との外出に集中しなければならないはずなのに。


 屋敷のホールで待っていれば、すぐに彼が来たとの知らせが入った。


「ユリア嬢、お迎えに上がりました。」


 そう言って礼をするウィンストン様の姿を見て驚く。彼は煌びやかな衣装に身を包み、貴族然とした装いをしていた。

 街歩きのため簡素なドレスを着た私とでは、明らかに釣り合いが取れない。ウィンストン様も同じことを思ったのか、私の姿を見て少し眉を寄せる。しかし、彼はすぐに笑顔になって、私に手を差し出した。

 私もおずおずとその手を取って、彼に馬車までエスコートされる。



「ウィンストン様、申し訳ありません。街歩きと聞いていたので、できるだけ簡素なドレスのほうが良いかと思ってしまい……。」


 馬車に乗ってすぐ、私は今日の服装について謝罪した。

 私の言葉にウィンストン様は少し顔をしかめたが、すぐに自分の豪華な上着とタイを取り、ラフな白シャツ姿に変わる。


「私がきちんとお話をしていなかったのが悪かったようですね。今日は貴族街の店に行こうかと思っていましたが、ユリア様の装いに合わせて平民街に場所を変えましょう。」


 穏やかな口調を装っているが、どこか棘のある言い方だ。

 このドレスも簡素ではあるが、粗悪なものでは決してない。貴族街を歩いていても、さほど問題にはならないはずなのだが。


(早速失敗してしまったわ。)


 少し冷たくなってしまった馬車の空気に耐えながら、目的地に到着するのをひたすら待つ。

 

 馬車が止まった先は平民街の中でも煌びやかな店が立ち並ぶ、賑わいのある通りだった。


「ここはうちの商会と取引のあるお店が数多く立ち並んでいるんですよ。」


 少し表情が明るくなったウィンストン様に連れられて、通りに並ぶ店を眺めながら道を進んでいく。一つ一つのお店を紹介していくウィンストン様は、先ほどとは打って変わって明るい声色をしており、その姿は自信に満ち溢れている。私は店の中を覗く間もなく、ウィンストン様についていくのに精一杯だ。


(こんなことならもっと歩きやすい靴で来るべきだったわ。)


 靴もドレスに合わせてそれほど飾り気のないものを選んだが、新しいその靴はまだ足に馴染んでおらず、所々が擦れて痛む。普段アルフォンと出歩くときは、彼が私の歩調に合わせてゆっくりと進んでくれるため、新しい靴で出掛けてもこんな風に足を痛めることもなかった。自分できちんと気をつけなくてはいけなかったのだ。

 ウィンストン様は私の様子は全く気にしていないようで、どんどん前に進んで行ってしまう。


 通りを隅から隅まで歩いたところで、ウィンストン様の馴染みのレストランへと二人で入った。そこでも彼の話はずっと、自分の商会のことで持ち切りだ。



(ウィンストン様は普段から仕事に没頭していらっしゃると仰っていたものね。)


 前回の茶会の時はどうだっただろう。あの時は気持ちが浮かれていて、話している内容をあまり気にしていなかった。でも思い返せば、あの時も彼は自分の仕事の話ばかりしていた気がする。


(どうしましょう。お話していても全然楽しくないわ。)


 あの時はあんなに長く話していても全く苦痛に感じなかったのに、なんだか今日は一向に心が躍らない。

 話題を変えようと、ウィンストン様自身のことを聞きたいと切り出しても、いつの間にか商会の話に戻っている。それならば私自身の話をしようと切り出せば、今度は侯爵家の事業の話に切り替えられてしまった。


(ご自身のことや私のことを話すつもりはないのかしら。)


 もっとウィンストン様がどんなことが好きなのか、普段どんなことをして過ごしていて、何を楽しいと感じるのか……そういう話が聞きたいのだ。恋愛をする男女というのは、そういうものだと思っていた。


(アルフォンとなら、日常のどんなくだらない話でもいくらでも話し続けることができるのに……。)



 そんなことを考えてしまい、思わず頭を横に振って、その思考を取り払おうとする。

 ウィンストン様に集中しなければ。その思いで無理やり興味のない会話に相槌を打ち続ける。


 そんなことをしている間に、いつの間にか食事は終わり、次は商会に案内したいとウィンストン様からお誘いを受けた。

 その申し出に私はすぐに頷くことができない。商会に行けば、ウィンストン様のお父さまがいらっしゃるだろう。親に顔合わせをするのは、結婚の意思があると相手に示すのと同じ行為だ。


(私は本当にウィンストン様と結婚したいのかしら……?)


 つい先日まで運命の出会いだと浮かれていたのに、こんなことを考えてしまう自分に愕然とする。

 

 黙ったまま何も答えない私の態度に、ウィンストン様は痺れを切らしたかのように席を立つ。そして私の足元に跪き、真剣な表情で私にこう告げた。



「……ユリア嬢。素直に申し上げますが、私はあなた様と結婚したいと思っております。どうか今日商会を訪れ、私の父に会ってくださいませんか?」


 彼の申し出にますます私は混乱してしまう。とてもじゃないが、今日決められることではない。でもこのチャンスを逃せば、彼との未来はなくなるだろう。


(どうしたらいいのかしら……。)


 私が戸惑っていると、コンコンとドアをノックする音が響いた。


「こんな時に……」


 苛立った様子で立ち上がったウィンストン様がドアを開けると、どうやら店の給仕が急ぎの伝言を預かってきたようだ。二三言葉を交わすと、急にウィンストン様の顔色が変わった。


「……ユリア嬢。申し訳ない。仕事で急用が入ってしまい、今日はこれで失礼しないといけなくなってしまった。」


「わかりました。」


 私は素直に頷く。ウィンストン様の顔色は悪い。


「……でも私の先ほどの言葉は本気です。出来るだけ早くあなたの返事がほしい。どうか真剣に考えていただきたい。」


 そう言って、彼は私の手の甲に口づけた。憧れだったはずのその仕草にも、なぜだか全く胸がときめかない。



 その後彼は馬車まで私を見送ると、馬車が出発するのを待つことなく、足早にその場を去って行った。


(ウィンストン様は随分慌てていらしたようだけど、大丈夫かしら……?)


 彼の様子は気に掛かったが、あの場で求婚の返事をせずに済んで良かったのかもしれない。あの時すぐに返事をしていたら、その答えがどちらであっても私はきっと後悔していただろう。



(今は何も考えたくないわ。屋敷に戻ってもう一度考えましょう。)


 私は目を閉じ、馬車が侯爵邸へ着くのを待った。





*****

 侯爵邸へと戻り、自室に入ると、体にどっと疲れを感じた。そのままベッドへと倒れこんでしまう。


(なんだか今日は疲れたわ……)


 楽しいデートになるはずだったのに、気持ちが全く盛り上がらなかった。


(ウィンストン様への返事を考えないと……。)


 待っていたはずの言葉だ。出会いの場がなくなっていた最近の自分を思い返せば、彼の申し出は諸手を挙げて受け入れるべきものだろう。


 しかし、そう考えていると、あの日私に想いをぶつけたアルフォンの顔が頭に浮かぶ。


(ダメだわ。どうしてもあの日のアルフォンの顔が頭から離れない。こんな気持ちで他の人からの求婚なんて受け入れられないわ……。)


 ウィンストン様の求婚はお断りしよう。これで生涯独身の身になっても、それはもう自分の責任だ。


(そしてアルフォンが戻ったら、きちんと話をしないと……)


 自分は彼に何を伝えるべきなのか。

 未だ出ないその答えを考えるため頭を働かせようとするが、なんだかうとうと眠くなってきてしまう。


(ダメだわ……アルフォンが帰るまで起きていないと……)

 

 

 そう思うが、私は強い眠気に耐えられず、そのまま目を閉じてしまった。





*****

 外からの物音で、私はふと目を覚ました。窓を見ると外はもう暗闇に包まれている。



(随分長く眠ってしまったみたい……)



 今は何時だろうか。時間を確かめようと時計を探すが、明かりが灯っていない部屋は薄暗く、なかなか見つけることが出来ない。

 明かりを灯すためにろうそくを手探りで探していると、静かにドアが開く音がする。


 その音にドアのほうへと振り返れば、見慣れた人影が目に入る。



「アルフォン……?」


 そこに居たのは旅装姿のままのアルフォンだ。どうやら今外出先から戻って来たらしい。



「お嬢さまもお戻りになっていたんですね。」


 その声にいつもより冷たい印象を受けた。薄暗くて表情はわからないが、こちらに近づいてくるアルフォンの足取りはなんだかぎこちない。

 早朝から仕事に出ていたのだ。アルフォンもさすがに疲労がたまっているのかもしれない。


「アルフォン、疲れているの?私ももう眠ろうとしていたから、あなたも休んでいいのよ。」

 

 話をしようと思っていたが、今日はもう彼を休ませたほうがいいだろう。話は明日にしようと、彼に部屋に戻るよう促す。

 しかし、私の言葉を聞いたアルフォンはその場で足を止め、鋭い視線で私を見つめる。


「デートが楽しすぎてはしゃいでしまいましたか?普段よりもずっとベッドに入るのが早いようですが。」


「いえ……そうね、楽しかったわ。」


 アルフォンと言い合いをしてまでウィンストン様に会いに行くのを強行したのに、結果的にはうまくいかなかった。それをどうやって伝えていいのかわからず、なんとなく誤魔化して返事をしてしまう。


 申し訳なさに下を向いた私は、アルフォンの表情が変わったことに気付かなかった。




―――ドサッ!

 突然、視界が変わる。

 

 驚きで一瞬何が起きたのか理解できなかった。


 腕に痛みを感じると同時に、アルフォンにベッドに押し倒されていることに気が付く。目の前には冷たい目をしたアルフォンの顔が見えた。



「アルフォンなに……」


 何をするのかと問いたかったが、ふと冷たいものが顔に落ちてきたことに気付いて、そのまま何も言えなくなってしまった。


(……泣いているの?)


 目の前のアルフォンの瞳から、一筋涙が流れ落ちている。

 

 彼が涙を流すのを私は初めて見た。




「どうして……どうしてあなたは俺を見てくれないんですか……?」


 その声はいつもの彼のものとは違って、とても切なげで、悲しげで……思わず驚きで体が震えてしまった。それを拒絶と取ったのか、彼はますます私を押さえる手に力を入れる。



「なんであんな急に現れたろくでもない男に心を許すんですか?他の男と婚約していくあなたの姿を、俺はずっと耐えて見守ってきたのに……いつか婚約はなくなると、俺を見てくれる日が来るかもしれないと願って……。」


 苦しげに心の内を告げる彼の言葉に、胸が痛くなる。



「……あの男と結婚するんですか?」


 突然アルフォンから出たその言葉に驚いた。彼は私がウィンストン様から求婚を受けたことを知っているのだろうか。


「アルド商会から正式な婚約の申し出書が届いていました。あなたは彼からの求婚を受け入れたのでしょう?」


 私は了承の返事などしていない。ウィンストン様が先走って侯爵家に送ってきたのだろう。



「アルフォン、それは違うわ。お願いだからこの手を放して、話を聞いて。」

 

 私は慌てて誤解を解こうとする。とにかく落ち着いて彼と話がしたい。 

 手を放してと乞うが、彼は首を横に振ってそれを拒否する。


「放したらあなたは私から逃げるでしょう。だから絶対に放しません。」


「そんなことないわ!大体どうしてあなたはこんなこと……」


 どうしてアルフォンはこんなに取り乱しているのだろうか。

 訳を問おうと口を開いたが、私の声は彼の強い声にかき消された。


「なんでって……あなたを愛しているからに決まっているじゃないですか!誰にも渡したくない!俺のものになってほしいのです!」


 そう叫んだ彼の瞳からまた涙が零れ落ちた。


「ゲームのシナリオを知る俺なら、あなたの婚約者たちとヒロインの出会いを邪魔することなんていつでも出来た。あなたの幸せを思うならそうしたかった。でも俺は耐えられなかったんです。俺以外の男と将来をともにするあなたの姿を見たくなかった。」


 そう告白するアルフォンの顔は苦しげに歪んでいる。


「ずっとあなたに申し訳ないと思っていました。悲しむあなたを見ながら、婚約が破棄になったことにほっとする自分がいた。あなたの味方の振りをしていながら……俺はあなたが誰のものにもならないことに喜んでいたんですよ。とんでもない男です。幻滅したでしょう?」


 自分を蔑むように彼は苦笑した。

 また私の頬に冷たいものを感じる。しかし今度は私自身の瞳から流れた涙だった。



 それを見たアルフォンは一瞬とても傷ついた顔を見せた。しかしすぐに私の頬に零れた涙を、優しく拭ってくれる。



「申し訳ありません。あなたを泣かせてしまった。正直言うと、あの男との結婚は賛成できません。考え直してほしい。でもあなたがそれを望むなら私はもうあなたを止めることはできません。……今回の罰はいくらでも甘んじて受け入れます。私と顔を合わせるのも嫌だと仰るなら、私はお嬢さまの従者を外れ、屋敷から出て行きます。」


 アルフォンはそう言うと、ベッドから降りて部屋のドアへと向かう。



「待って!」



 その背中が遠くなっていくのに耐えられず、声を上げて呼び止めた。

 彼は一瞬動きを止めたが、またすぐにドアに向かって足を踏み出す。




「わたし、私もアルフォンを愛してる!ずっと、ずっと幼い頃から好きだったの!」


 涙のせいで声がかすれる。それでも必死に声を上げて、アルフォンの背中に向かって思いの丈をぶつける。


 私の叫びを聞いたアルフォンの肩が震える。彼はその場に立ち止まったが、こちらを向いてはくれない。それでも私は話続けた。


「……でもそんなこと言えないじゃない!私はこの家の娘であなたは従者で……言ったらもうあなたといっしょにいられなくなる。あなたと結ばれることが叶わない夢だなんて、私の方がずっと昔からわかっていたもの!」


 主人と従者の恋が、幸せな結末を迎えるなんてことはただの夢物語だ。幼い恋ならなおさら、きっと二人は引き離されてしまう。


「それならせめて、私はあなたが誇れる主人であろうって、侯爵家の主としてふさわしい立派な姿をあなたに見せたいって……ずっとそう思ってきたのに……。それなのに私はどんどん婚約破棄されるし。あなたにはそういう運命だって言われるし。でもアルフォンは私に求婚してきて……」


 言っていることは支離滅裂だ。涙で顔も頭もグチャグチャで、うまく自分の気持ちを言葉に出来ない。それでもアルフォンにわかってほしくて、必死に胸の内を声に出す。


「あなたが結婚しようって……すごく嬉しかった。でもあなたと婚約できたとしても、もし、もしこれまでと同じように私が婚約破棄される運命だったら……あなたと婚約破棄になんてなったら、もう二度といっしょにいられないじゃない……。そんなの私は耐えられないの!あなたにだけはずっと私のそばにいてほしいの!」


 泣きじゃくりながら、アルフォンに訴えかける。涙で視界は滲んでいて、もうそこに彼がいるのかさえわからない。



 すると、突然強い力で手を引かれ、そのままあたたかな胸に引き込まれるようにして抱き留められた。



「私を愛しているって本当ですか……?」


 頭上からアルフォンの震える声が聞こえてくる。私はすっかり彼の腕の中に包み込まれていた。


「本当よ。こんな状況で私が嘘をつくと思う?」


「申し訳ありません。夢のようで……」


 そう言ってアルフォンは私を包む腕の力を強くする。私は目を閉じて、彼の胸の鼓動に耳を傾ける。その音に耳をすませれば、段々と気持ちが落ち着いてくる。




「あなたと私が離れるだなんて、そんなこと一ミリも不安に思う必要はありません。私があなたを離すわけがないでしょう?死んでもあなたを解放することなんてできない。……いいんですか?お嬢さまが思っている以上に、私は執念深い男ですよ?」


「いい。アルフォンだからいいの。あなたがいい。」


そうしてアルフォンの胸に頬を寄せた。彼の腕の力が一層強くなる。


「幸せで死んでしまいそうです。」





*****

 しばらくそうして二人で黙ったまま抱きしめ合っていた。


 やがてアルフォンは私から少し身を離し、神妙な顔で尋ねてきた。



「ところで……あの男のことは本当にいいんですか?」


 一瞬何のことか本当にわからなかった。

 しかし、すぐにウィンストン様のことだと思い至る。


「いいも何も、求婚の返事もしてないのよ。よく考えて断ろうと思っていたの。返事をしていないのに、婚約の申出書がくるとは思わなかったわ。」


 お父さまに誤解される前に、すぐに話をしなくては。……そしてアルフォンとのことも。



「……お父さまは私たちのことを許してくださるかしら?」


 思わず不安な心を口に出してしまった。お父さまのことは、私が説得しなければいけないことなのに。


「もう私の気持ちはお話ししてあります。その上で、お嬢さまが私と同じ気持ちなら、二人の仲を認めてくださるそうです。」


 アルフォンのその言葉に驚いて、目を丸くしてしまう。彼がすでにお父さまにそんな話をしているだなんて思ってもみなかった。



「私は随分前からお嬢さまに求婚していたでしょう。あの頃にはもう侯爵様ときちんと話をしていました。あなたと結婚するために必要な条件もいっしょに。」


 そう言ってアルフォンは私の頬を優しく撫でる。彼の手はあたたかくて心地良い。


「私は他家の侯爵家の養子になることが決まりました。あくまで書類上の話ですが。これであなたとの結婚に何も支障はないですよ。」


 そう言って優しく私に微笑みかける。その言葉と微笑みに、私は一気に体の力が抜けてしまう。

 アルフォンのあまりの手回しの良さに驚いてしまった。


「やっぱりあなたはすごいわ。」


「お嬢さまのためならどんなことだってしますよ。」


 アルフォンがそう言うと、本当にどんなことでもやってのけてしまいそうだ。

 今回のこともどんな手を使ったのか気になったが、全て私との結婚のためにしてくれたことだと思えば、まあ今はその手段については問わなくてもいいだろう。



 あたたかい腕の中で緊張が解けたせいか、頭がぼんやりして眠くなってきてしまった。目蓋が閉じそうになるのを必死に堪える。


「眠っていいですよ。」


 私の様子に気付いたアルフォンが、優しく頭を撫でながらそう囁く。甘く柔らかなアルフォンの声に安心して、私は我慢するのを止めて目を閉じた。

 彼が優しく私を抱き上げてくれるのを最後に感じた。





*****

 眠る彼女をそっとベッドに寝かせる。布団をかけると柔らかな笑みを浮かべて、それに抱き着いている。愛らしいその姿に、この場を離れ難くなる。


 しかし、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。早く侯爵様の元へと向かい、結婚の承諾を得なければならない。彼女が余計なことを気にする前に、早く外堀を埋めなければ。



(やっと素直になってくれた。)



 お嬢さまが俺のことを特別に想っていることは、とっくの昔から気付いていた。年々、俺を見るその美しい瞳に、熱が積もっていくのをずっと近くで見てきたのだから。



 しかしいつまで経っても、俺の求婚に彼女は全く応えてくれない。


 挙句の果てに、運命の出会いやら、愛し愛される人との出会いやらなんてことを望むようになった。



(君はとっくに運命の出会いを果たしているというのにね。)


 幼い頃、従者として紹介されたあの時よりずっと前に、俺とお嬢さまはもうすでに出会っていた。

 それを覚えているのは俺だけだったが。





***

 前世の世界で、俺はゲーム開発の仕事に就いていた。ある時担当した乙女ゲームの開発の仕事で、俺は彼女に出会った。


――――前世のお嬢さまに。



 俺と彼女は出会ってすぐに意気投合し、恋人同士になるまでそれほど時間はかからなかった。しばらくの交際期間を経て、俺たちは結婚の約束もした。

 少しドジなところもあるが、何事にも前向きに取り組み、人への気遣いも決して忘れない。そんな彼女を俺は心から愛していた。


 仕事でも俺と彼女は良きパートナーだった。



「私このキャラ大好きなの。キャラデザももちろんだけど、なんかライバル令嬢っぽくないというか、ちょっと抜けてるこの性格とかツボなんだよね。悪役令嬢じゃなくて、当て馬令嬢って言われちゃうのもわかるな~。」


 俺といっしょに開発した乙女ゲームのライバルキャラを、彼女はずっと気に入っていた。


「どの攻略対象を選んでも婚約者はこの子になっちゃうから、いつまでもこの子は幸せになれなくて可哀そうだよね。この子が幸せになる結末も用意してあげたかったな。」


 嘆く彼女の姿を見て、せめてファンディスクか何かで、彼女の願いが叶えられないかずっと考えていた。


 二人で穏やかに過ごす時間も、仕事の話で盛り上がる時間も、俺にとって幸せな宝物のようなものだった。





――――しかし、そんな幸せは一瞬にして消え去った。




 ある日、彼女は俺の目の前で死んだ。


 暴走したトラックの事故に巻き込まれて。






 力なく倒れる彼女の体を抱きしめ、我を忘れて泣いて縋っていたことまでは覚えている。


 しかし、そこで一回俺の意識は途切れた。





――――気が付けば俺はこの世界にいた。




 明るい日が差す庭園で、俺の目の前には一人の少女が立っていた。眩しい日の光が反射して少女の顔はよくわからない。

 周りには他にも人がいるようだ。大人の話し声が聞こえてくる。


 その声に耳を傾けていると、俺の頭の中に段々と今の自分の情報が流れ込んでくる。



(ここは、あのゲームの中みたいな世界だな……)


 何故だか俺はすんなりと今の自分の状況を飲み込んでいた。


(俺は死んでこの世界に転生したってことか……?)


 自分が前世で最後どうなったのかを思い出そうとする。

 しかしある光景を思い出して、すぐに思考を放棄した。



(どうでも良い。どうせもう俺はこの世界の住民だ。)


 彼女を亡くしたことで、俺の心はほとんど壊れていた。




 しばらくぼんやりとした頭で、大人たちの話を聞き流していた。

 すると、光りに慣れた目が、段々と目の前にいる少女の姿を鮮明に映し出していく。


(この子が俺の主人になるってことか。)


 顔だけは覚えておいたほうがいいだろうと、目を凝らしてよく見てみれば、少女の姿に驚愕した。


――――そこにいた少女は、前世の彼女そのものだった。


 正確に言えば、写真で見た幼い頃の彼女の姿にだが。



 俺はその一瞬にしてわかった。彼女もこの世界に生まれ変わっていたのだと。





***

(あの瞬間、君にもう一度出会えたことをどれだけ神に感謝したことか……。)


 俺の主になったその少女には、前世の記憶はないようだった。

 

 しかしその少女の内面も前世の彼女そのものだった。誰に対しても親切で、お人好しで、辛いことがあっても前向きに努力する。そして少し抜けていて、おっちょこちょいな一面もある……。

 たとえ俺に前世の記憶がなかったとしても、俺は彼女を愛してしまっていただろう。


 

 そう、俺は彼女を愛していた。この世界のユリアお嬢さまを。



 しかし今世は、二人の立場が違った。彼女は由緒正しい侯爵家の跡取り令嬢。かたや俺はただの平民の彼女の従者。

 このままでは俺が彼女の隣に立つ未来は訪れない。


 俺は必死に学んだ。平民の従者には必要ない知識も、寝る間も惜しんで学び続けた。幸い、今世の俺の頭の出来は飛びぬけて優秀だったようで、学んだことはすぐに吸収していった。


 年を経て、自分の発言が少しずつ受け入れられるようになった頃、俺は新しい事業を侯爵様に提案するようになった。このゲームの世界観はよく理解しているつもりだ。俺の提案した事業は次々と成功を収めていった。

 まずは彼女の父親である侯爵様の信頼を勝ち取ることが大切だ。同時に俺の力を示すことで、養子として受け入れてくれる貴族の家がないかも探し始めた。




 お嬢さまが十四歳になった年。彼女に初めての婚約者が出来た。

 平静さを保とうと努めていたが、内心嫉妬で気が狂いそうになった。しかしゲームと同じ展開なら、彼女は婚約破棄をされる運命だ。


 従者という仕事は、他家の情報収集をするにも便利な仕事だった。

 お嬢さまの婚約者となった攻略者たちが、シナリオ通りに動いているか、いつでも監視は怠らなかった。時には彼らがヒロインとスムーズに出会えるよう、率先して手助けをすることもあった。


 婚約を破棄され、落ち込むお嬢さまを見ると胸が痛む。でも彼女が他の男と幸せになるところなど見届けられるわけもない。次、彼女を失えば……俺は完全に壊れるだろう。

 

 結局、何年経っても、何度婚約を繰り返しても、彼女が結婚までたどり着くことはなかった。

 

 侯爵様から許可を得た俺は、彼女に求婚するようになった。強く攻めては逃げられてしまうかもしれない。拒否されればすぐに引き下がり、でも絶対に彼女を諦めることはなかった。

 彼女は俺のことを想っているはずだ。早く彼女を手に入れたいと焦れる心を必死で抑えた。俺が諦めなければ必ず求婚に頷いてくれる日が来ると願って。



 

 予定外の出来事が起こったのはあの日のことだ。俺が外出している間に、彼女は一通の招待状を手にしていた。それはずっと俺が気にかけ、決して彼女の目に触れさせないようにしていたものだ。


 貴族や裕福な平民の子息令嬢を集めた、茶会という名のお見合いパーティー。

 そんなもの、ゲームの設定では聞いたこともないイベントだった。


 俺は恐怖した。本来のゲーム内にないそのイベントは、彼女を婚約破棄のループから救い出してしまうかもしれない。ずっとその招待の手紙が届く度、俺は彼女の手に渡る前にそれを処分してきた。


 しかし、遂に彼女がその茶会に参加することになってしまったのだ。



 茶会の参加者をすぐに調べる。貴族の家のほとんどは侯爵家からの新たな婚約の申し入れを丁重に断ってきた先ばかりだったが、平民の家の子息はもちろん違う。

 嫌な予感が胸をよぎった。彼女を止めたかったが、それを計画するには茶会までの時間があまりにも短い。



 そして彼女はその茶会で一人の男と出会うのだ。

 アルド商会のウィンストン。



 その男の手紙を見て、俺はすぐにその男について調べ始めた。

 調べてみれば、やつはただの詐欺師だった。確かにアルド商会の会長の次男だったが、後継者となるのは優秀な長男のほうだ。しかも会長である父親もろくな人間ではないようで、すでに商会の実権は長男が握っている状態だ。

 それをなんとか覆したいと、父親と次男のウィンストンがバルト侯爵夫人に取り入って、未婚の貴族令嬢が集まる茶会へと参加したのだろう。長男を商会から追い出せるような、高い地位を手に入れることを目指して。



(お嬢さまに手を出すとは馬鹿なやつらだ。)


 他にもやつらは高位貴族に取り入るために、不当な取引きを貴族たちに勧めたり、高価な商品を商会の利益を無視して売り捌いていたりもした。

 屋敷に戻る前に、やつらの悪事の全てを関係のある貴族の家とアルド商会の長男に告げてきたので、やつらは数日の間に完全に社会的に立場を失うだろう。





 侯爵様の執務室の前に立つ。 


(これでようやくお嬢さまを自分のものに出来る。)


 喜びに歪む口元を正して、そのドアを静かにノックする。


 入室を許可する声を聞き、俺はその扉を開いて、部屋の中へと入っていった――――





*****

 窓から差し込む光で目を覚ました。久しぶりにぐっすり眠れた気がする。


 ベッドから起き上がり、待っていたメイドに身支度を整えてもらえば、すぐに部屋のノックが鳴る。


「お嬢さま、おはようございます。」


 いつものように部屋に入ってきたのはアルフォンだ。しかしこれまでと違い、彼の顔はとろけそうな甘い微笑みを浮かべている。


「おはよう……」


 昨日のことを思い出して、なんだか顔を合わせるのが恥ずかしくなってしまう。思わず頬を押さえてアルフォンから視線を逸らしてしまった。


 アルフォンはそんな私を見て、フフッと少し笑った。



「お嬢さま。朝から申し訳ありませんが、私と朝の庭園を散歩していただけませんか?」


 彼からそんな申し出があるのは珍しい。しかしそれを断る理由もない。

 

 すぐに私が頷くと、アルフォンは優しく私の手を取って、庭園までエスコートしてくれる。二人並んで庭園へと向かった。

 これまでの私とアルフォンは、いつも彼が私より一歩下がってつきそうように歩くことばかりだった。それが今はこうして恋人のように手を取り合って、隣で並んで歩いている。

 その事実が嬉しくて、思わず顔がにやけてしまう。




 よく整えられた侯爵邸の庭園はいつ来ても美しいが、特に朝の庭園は、朝露に濡れた花々が日の光を反射しキラキラと輝いていて、一層美しく目に映る。


 私たちはしばらく互いに黙ったまま庭園を歩き、花々を見て回った。しかし、しばらくして屋敷から離れた庭園の中央まで来ると、アルフォンは突然私の方へと振り返り、その場に跪く。


 下から私を見上げた彼は、真剣な眼差しで私を見つめている。


「お嬢さま……いえ、ユリア様。この心が狂いそうなほど、私はあなたを深く愛しています。生涯を掛けあなたを愛し、死が二人を分かつとも、私はあなたのそばを離れることはないでしょう。――――どうか私と結婚していただけませんか?私の心すべてをあなたに差し上げます。どうかあなたと幸せな結婚を、幸せな人生をともに過ごす権利を私に与えていただきたい。」


 アルフォンはそう告げると、私の手を取りそっと口づける。



 アルフォンのその突然の告白に、私は目を見開いて驚いた。

 彼の真摯な言葉に目の奥が熱くなる。涙を堪えて、その手に自分の手を重ね、静かに頷いた。



「はい。必ずあなたと二人で幸せな人生を歩みます。」



 私がそう答えると、彼は私を強く抱きしめ、口づけた。

 突然の口づけに私が驚く間もなく、アルフォンはそのまま私を抱き上げると、子どものようにその場でくるくると回り始める。


 

 満面の笑顔を浮かべ、笑い合う私たちの姿を、屋敷の皆が微笑ましく見守っていた――――





*****

 由緒あるトルトイ侯爵家の長女ユリア。彼女は幾度となく婚約破棄を繰り返し、社交界では彼女の結婚を不安視する声も多かった。


 しかし、ある時突然に、とある侯爵家へ養子に入った元平民の男性と彼女との婚約が発表される。


 身分違いの異例の婚約は、すぐに社交界に知れ渡った。この婚約もこれまでと同じようにすぐに破棄されるのではと、周りは固唾を飲んで見守ったが、それから半年も経たぬうちに、二人は正式に婚姻を果たす。



 二人の式に参列した人々は、見目麗しい新郎新婦と、彼女を深く愛する新郎の姿を見て、頬を染め愛し合う二人の仲を羨んだという。


 彼女が結婚式で身に着けた、美しく透き通ったベールという名の被り物は、当時は見なれぬものとして女性たちの間で大変注目を集めた。

 その美しさは花嫁たちの憧れとなり、それを身に着け結婚した夫婦は皆、トルトイ侯爵夫妻のように生涯幸せな結婚生活を送ったといわれてる。

 やがて時を経て、それはこの国の正式な花嫁の装いへと変わっていくのだ――――







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