Ch.4.27:湖上の、美少女
クリスティーネは土塁の上から眺めていた。
見えるのは、イギャカ山のカルデラ湖の岸。
何百何千という魔獣が、湖岸全体を覆うように集まっている。
七日間。
昼夜を問わず襲撃を受けた。
それでも味方は全員無事でいる。
クリスティーネ一人の力ではなかった。
アダセンたち五人の魔術騎士がサポートしてくれた。
工兵たちも、ジョンが持ち込んだ魔術武具を使って、戦ってくれた。
そうやって全員で撃退し続けたからである。
正直なところ、クリスティーネはかなり疲れている。
あまり寝ておらず、水と食糧も限られているという理由だけではない。
魔獣を何匹倒しても、次々と山の外側から現れるからだった。
無尽蔵と思えるほどに集まり来る魔獣の姿を見て、徒労感が芽生えている。
それが八日目を迎えた今日、魔獣の襲撃が停滞している。
これまでは、特に夜、魔獣は湖面を泳ぎ渡ってきた。
怪鳥も空から襲ってきた。
それらの多くを、クリスティーネは魔法で殲滅した。
何匹か撃ち漏らして上陸されても、魔術騎士たちが討ち取ってくれた。
魔獣の攻撃に合わせて防戦するだけでは休む間もないため、湖岸の魔獣を目がけて爆裂魔法を放ったこともあった。
狙ったのは人間を由来としない魔獣だけだが、それを見定めて討つべき場所を教えてくれたのは、ジョンだった。
すると、魔人は戦線を下げ、攻撃魔法の射程外に本体を置くようになったのだ。
結果として、一人の死者も出すことなく、生き延びている。
ただ、湖面には無数の魔獣の死骸が浮き、湖水は汚染された。
時折異臭も漂ってくる。
風の通りが悪いカルデラの底にいる限り、悪臭は増すばかりだった。
それでも、より鼻の利く魔獣が逃げずに留まっているのは、魔人による統率が効いているからだとジョンは教えてくれた。
その魔人が攻撃魔法の射程内にいる間に倒しておくべきだったと、つい考えてしまう。
だが、ジョンに止められたのだ。
クリスティーネは、右隣で土塁の縁に座るジョンを見た。
「本当なのですか?」
「魔人が元人間だって話か?」
クリスティーネはうなずいた。
魔人も巨人も、膨大な魔力を注がれて組成転換した姿だとジョンは言った。
人間を捨てたなら殺してもいいとクリスティーネは思ったが、元の人間に戻す方法があるかもしれないと言われて、迷ってしまったのだ。
仮定の話だったが可能性を否定できなかったのは、想像を超えた現実をユメカに何度も見せつけられていたからである。
剣で魔法をはじき返すことなど、ありえなかった。
発現した魔法を剣で斬り裂いて消滅させることなど、できないはずだった。
ましてや、倒した魔物の死骸が光になって消えるなど、非常識過ぎるのだ。
だが、現実に見てしまった。
常識も固定観念も知識も否定されたのだ。
だから魔人になった者が人間に戻る方法がないとは、断言できなかった。
「オレが本当だと言うのを信じて行動した後に、ウソだと知ったらどうするんだ?」
クリスティーネは無意識に魔杖を握り締めていた。
ジョンを信じて裏切られた。
ユメカを信じて裏切られた。
再び信じて裏切られる愚かな繰り返しをしようとしている矛盾。
信じたいと思う心が、どこかにあるのだと気づかされる。
「ジョンを信じるのではありません。魔人を人間に戻せる可能性があると信じるのです」
「そんな夢物語を信じていると、身を滅ぼすぜ」
ムッとしてクリスティーネは魔杖をジョンの喉元に突き付ける。
初めにその可能性を口にしたという自覚がないのかとにらみつけるが、ジョンはヘラヘラとした軽薄な笑みを浮かべている。
憎たらしさが満ちてくるが、一方で気負わずに話せる貴重な存在なのは間違いない。
ジョンがいなければ、孤独だった。
アダセンたち騎士とも一線を引いて意見を聞こうとはしなかっただろう。
そうすれば、間違いなく、魔人も巨人も殺していた。
後から、それらが元人間だと知ったなら、どうなっていただろうかと想像してしまう。
そしていつの日か、それらを元の人間に戻す方法があると知ったなら、人間を殺さないという誓いも偽りだったと自己嫌悪に陥り、精神的に打ちのめされてしまうだろう。
ジョンには感謝すべきなのだろうが、また騙されている可能性も否定できなかった。
「どうですか、敵の様子は」
下から声がした。
土塁の内側に、五人の騎士の姿があった。
隊長のアダセン・アジミュ、迅速さを旨とする副隊長のユーボン・アッティン、強力自慢のオーズィキァ・アイカイノ、坊主頭のオデュン・イシク、戦術家のイブナク・アイモナである。
ジョンはゆっくりと立ち上がり、服に付いた砂をはたき落とした。
「魔獣だって喉が渇くからな。そろそろ総攻撃をしかけてくる」
湖岸を埋め尽くすように集まる魔獣は湖水を飲んでいたが、死骸によって汚染されてまともに飲めない水になってしまっている。
南側の外輪山を少し登れば小さな沼地もあるが、そこは力のある魔獣が陣取っている。
ほとんどの魔獣は、満足に水を飲めないのだ。
生存本能によって統制が効かなくなるのが先か、渇きに弱るのが先か、といった段階だった。
騎士たちが土塁の上に登ってきた。
「白昼堂々、来ますかね?」
昼間だと湖面を渡るのがはっきり見える。
クリスティーネが魔法で狙い撃つのは容易となる。
それを知ってかこれまでは、昼間は休めない程度に散発的に仕掛けてくるだけだった。
「来るさ。それより、体の調子はどうだ?」
「問題なく。ジョン殿に調整して頂いたのが良かったのでしょう」
「クリスティーネが魔石結晶の不純物の並びを整えてくれたからだ」
「その方法を教えてくれたのは、ジョンですから」
いやな奴だと、クリスティーネはむくれる。
ジョンが肩をすくめてやれやれと言うように首を振っている。
「折角持ち上げてやったのに、自分で降りるなよ」
「事実は、事実ですから」
「いえいえ。クリスティーネ殿は偉大な魔導師です。クリスティーネ殿がいなければ、初日で全滅していたでしょうから」
「ですが、あなた方の働きがなければ、初日で上陸されていました」
「単におこぼれを頂戴したまで。それだけでも、我々は消耗しきってしまいました」
「魔石ドーピングの副作用だからな」
「またジョンは妙な言葉を使いますね」
「性分なのさ」
「いずれにせよ、魔石の腕輪を使い続けていると極度の疲労や体のしびれだけでなく、皮膚が硬くなり、筋肉が異様に発達してきました。続けていれば死ぬか魔獣化するかというジョン殿の話も、真実かと――」
珍しく本当のことを言ったのかと、クリスティーネはジョンを見た。
一瞬、ジョンが寂しそうな表情をしたように見えた。
だがすぐに錯覚だったと思えるように、惚けた笑みに隠されてしまった。
「本当の話だ。取説も読まずに危険な玩具で遊ぶなってことだ」
「オモチャ?」
「そういうものだ」
「ジョンはまた妙な言い方をするのですね――」
「それより――」
ジョンが振り返って湖岸を指した。
「――アミュング国の兵士を先陣にするらしい」
瞬時に芽生えた不安の理由を確かめるように、クリスティーネは湖岸を注視する。
森の陰から甲冑を身につけた兵士が整然と進み出て来る。
そこに巨人たちがいくつもの筏を運び、湖に浮かべ始める。
森の木々に隠れて、この準備をしていたのだ。
「クリスティーネ殿の弱点に気づかれましたか」
弱点と言われて瞬時にこみ上げてきた怒りを、クリスティーネは抑えた。
爆裂魔法を放てば、筏に乗って島に渡ってこようとする人間の兵士をまとめて滅ぼせる。
だが、人を殺さないと自分に制約を課してしまった。
それが、弱さとなったのは事実である。
人を殺さないというのは間違いだったのかもしれないと、クリスティーネは思った。
何もせずにいれば、島に上陸されアダセンたちや工兵が戦うことになる。
無駄な争いが起き、守るべき味方が死ぬ危険が増えてしまう。
「違うぜアダセン。それはクリスティーネの最大の強みだ」
「ジョン殿、その強みとやらが、今この戦場で役に立ちますかな」
「可能性はゼロじゃない」
「低い可能性に期待は持てません」
「だが致命的な失策なんだぜ。魔人は生身の人間の命を盾にした。命を軽く扱われ奴隷扱いだと気づけば、いずれ魔人も魔王も倒そうと人は決意する。脅威を背景にした支配は終わりの始まりを迎える」
「それは、昔話ですかな?」
「目の前の現実だ」
「いずれにせよ、戦術は変わりません。少し、敵を討つ数が減るでしょうが」
会話の流れを遮ってイブナク・アイモナが声を発した。
この状況で少数が多勢と戦うには、籠城戦術しかなかった。
島への上陸阻止。
上陸されたら土塁で阻止。
土塁を突破されたら砦の石垣で阻止。
石垣も突破されたら、地下に退避。
そこまでの間に、魔王軍が消耗して撤退してくれるのを願うという消極的戦術である。
援軍が期待できない以上、減らせる時には敵を減らしておきたかった。
だが、先陣の人間を盾にして魔獣が接近してくるなら、攻撃しづらくなる。
戦力を削げなければ、撤退はしてくれないだろう。
もちろん、最後の手段も考えている。
島に聳える岩山を破壊して湖に沈めるのだ。
岩山の内部はすでに、中をくりぬいてある。
水中への落下の際に、魔法で岩を操り、水中でつなぎ合わせて通路にしようというのだ。
チンマイ作戦と名付けたのは、ジョンである。
練習もなしで初めての魔法を使うことには、クリスティーネも不安がある。
ただ、その失敗以上に恐れているのは、ディリアから役立たずの烙印を押され、弟子失格を宣告されることだった。
「砦を捨てて逃げたら、お師匠様の指示を守れなかったことになります」
「そもそもの戦略が間違っているのさ」
「いいえ。お師匠様は正しいです。わたくしがお師匠様の教えを守り、敵をことごとく滅ぼせばいいのですから」
「悪い、間違えた」
「え?」
「ディリアの戦略は間違ってない。だが、目的が違うんだよ。多分な」
「どういう意味です?」
「敵が動きました」
アダセンの声にクリスティーネが魔杖を向ける。
人間の兵士が筏に乗り、漕ぎ出してくるのが見える。
筏の数は二〇ほど。
巨人がその筏を押しながら泳いでくる。
その間を、四足の魔獣が泳いでくる。
人間を殺さないために魔法をためらった結果を、クリスティーネは予想する。
人間と巨人が島に上陸し、その間から魔獣が斜面を駆け登ってくる。
そうなると、近すぎて一度の魔法で攻撃できる範囲が限られる。
撃ち漏らしが増え、早い段階で砦まで魔獣が押し寄せてくるだろう。
「やはり、攻撃するのが一番いい方法です。向こうは敵なのですから」
「早まるなって。魔人は兵士を盾として使ったつもりだが、こっちにしてみれば、他の魔獣を射程まで引き出す囮になるんだぜ」
「どういう意味です?」
クリスティーネの決意は振り子のように揺れる。
敵であれば人間でも殺すのか、敵でも人間なら殺さないのか。
優柔不断に迷う意志は、これも弱さである。
一人でこの場から逃げてしまえば、人を殺さずに済ませることはできる。
だが、別働隊を守れとディリアに言われている。
守れないのもまた、ディリアへの裏切りだった。
だから、第三の選択肢があるなら、それを選んだ道筋の先を見たかった。
「筏が島と岸の中間に来たら、湖面を凍らせて動きを止めるんだ」
「え? ですが――」
広範囲を凍らせるには少し手間が掛かる。
巨人の怪力でも砕けないくらい厚く凍らせるには、膨大な魔力を注ぐ必要がある。
ずっと集中し続けなければならないのだ。
「魔力を使って魔法という現象が具現化すると、魔力は残滓となって異界に消えて行く。一時的に疎となるが、揺らぐ波のように反動で密になろうとする。その性質を利用すれば、自然と魔力が供給され続け、魔法効果が持続するんだ」
ジョンに説明された瞬間、クリスティーネは悟った。
今まで漠然と感じていた魔力の波動を、言葉として解釈することで頭の中に現象が抽象化されて法則が見えたのだ。
「分かりました」
クリスティーネは魔杖を両手で持ち、瘤のように膨らんだ先端を上に向けてくるくると糸を紡ぐように魔力の流れを導く。
「世界を包みし大いなる根源たる力、我は今それを欲する。
無辺の彼方より我が元に集りて我が力となれ。
我は命じる。
凍てつく極寒の風よ、吹き裂きしばれ。
【氷結の魔女】!」
魔杖から放たれた青白い光が幾筋もの閃光となって半球状に広がる。
虚空で魔力が干渉して増幅し変質し、空中の蒸気を氷結させながら極寒の冷気が湖面に吹き付ける。
クリスティーネが魔力の流れを導くと、集中しなくても自然に魔力が集まり、魔法が発言し続ける絶妙なバランスを保って安定した。
湖面は見る見ると凍り付き、半円状に岩礁のような氷塊が生まれ、またさらにそれらが繋がり合って、一帯を氷漬けにしていく。
そこに筏がぶつかり、進めなくなる。
巨人が拳を氷に叩き付けても、割れることはない。
クリスティーネは冷気によって兵士と巨人が氷漬けにならないようにと注意しながら、魔法の範囲を調整する。
だが、その氷に乗り、越えてくる魔獣があった。
巨大狼のフェンリル。
四方に角を生やすクレイオス。
極寒の風も身に纏う毛皮が防いでいる。
「よし、分断成功だ。クリス、思いっきりやれ」
「はい!」
【氷結の魔女】を止めるとクリスティーネは、魔杖を構えて意識を集中する。
外世界の魔力に働きかけ、内世界に引き込む手応えを感じる。
「世界を包みし大いなる根源たる力、我は今それを欲する。
無辺の彼方より我が元に集りて我が力となれ。
我は命じる。
極寒の息吹よ、冷気を纏いし刃となれ。
【氷霜の刃剣】!」
クリスティーネは湖上に満ちた冷気を利用した。
最小の魔力で氷のナイフが虚空に生まれる。
無数に生まれた氷のナイフが魔獣へと容赦なく降り注ぐ。
分厚い毛皮でも防げずに、魔獣は次々と鮮血にまみれ息絶えて行く。
「ここまでやるとは。貴様の師匠はさぞかし優秀なのだろう」
不意に上空から声が振ってきた。
見上げれば、怪鳥が島の上を旋回している。
その背に、魔人の姿があった。
「だがこれでは魔王様に無能の誹りを受けてしまう。よって奥の手を使うことにした」
旋回する巨大な鷲のような怪鳥が大きく外輪山の方まで飛び去り、そこから真っ直ぐに向かってくる。
怪鳥の背に乗る魔人は、肩に大きな筒のような道具を担いでいる。
「ジョン、あれは?」
「クリス、かなりやばそうだ。全力で防げ」
「そのようですね」
「くたばれ、ザコども。【迫撃の弾丸】」
魔人が構えた筒から閃光が放たれる。
空間を歪ませるような巨大な波動が、湖上の島のクリスティーネたちを飲み込もうとしていた。




