Ch.4.1:王子の野望
イムスタは、この日も気が昂ぶって眠れずにいた。
アミュング国侵攻作戦を二日後に控えた日の夜のことである。
「惜しいことをしたが――」
アマタイカ王国の王子イムスタの脳裏には、ヤスラギ・ユメカが巨大ムカデを倒す姿が再現されていた。手元に置いておきたい人物であったが、権威に跪かず金銭に執着せず力で組み敷けない存在は、手に余る。
大した損害もなく逃げ去ってくれたのは、幸いだったと言える。
「しかし聖騎士は、噂倒れだったな」
神を信奉する敬虔なる者に与えられた加護と天から授かった聖武具によって、一騎当千と称されるのが聖騎士だった。ところが、たった一人の少女によって惨殺されたのだ。
全滅なので経緯は誰も知らないが、おそらく驕った聖騎士が敵前逃亡するヤスラギ・ユメカに天誅を下すべく挑んだのではないかと考えられている。
見つけ出して生死を問わず捕らえるべきとの声は、小さい。
誰も貧乏くじを引きたくないのだ。
とはいえ、約五〇人という聖騎士をたった一人で殺害したのなら、その力は脅威である。
「――だが、人間の争いに関わりたくないのなら、気にする必要はないか」
イムスタは、胸の首飾りに触れた。
宝石が三個嵌め込まれているが、その内の一個は輝きを失っている。
ドアをノックする音がすると、イムスタを服の内に隠して首元のボタンを締める。
「誰か」
「黄の魔術師アカッシャ・アムノです」
「入れ」
入ってきたアカッシャを見て、イムスタは息を呑む。
服装こそ魔術師のローブだが、ハッとするほどに輝いて見えたのだ。
いつも以上に身だしなみを整えている。髪に飾りを付け、薄く口紅をひいている。
アカッシャは、挑むような雰囲気を纏いながら、緊張を隠せずにいる。
無理もない。
イムスタが呼び入れたのは、寝室だった。
あの日、一線を越えた――。
といっても、些細な境界線である。
ただ、アカッシャが望んでいると知りながら、気付かぬフリをして拒んできた境界線である。
それは、アデュオイ城に戻り、秘密を確かめるためにアカッシャを呼んで告げた日である。
「アカッシャ、お前の罪は私の罪だ」
「私が殿下を愛したことが罪ならば、罪を重ねることなど厭いません」
「私もだ、アカッシャ」
「ああ、殿下。私は殿下の物です」
いつもと変わらぬ反応をするアカッシャの手を引き寄せた。
都合良く解釈する性格すら利用して、イムスタは耳元で囁く。
「私は誓おう。二人だけの秘密だと」
「わ、私も生涯の愛を誓います」
「お前の魔術が、生きていたニンナを焼いた事実は、誰にも言わぬ」
「え?」
アカッシャが息を呑む。
だが言葉を反芻する暇をイムスタは与えなかった。
「そなたの魔術でニンナは焼け死に、怒り狂った魔獣が、我を忘れて引き裂いたのだ」
「ま、まさか」
「お前は、必死になると周りが見えなくなるからな」
「そんな――」
アカッシャの体が震えている。
ただ人を殺した恐怖によるものではない。
王家の血筋にあり、かつ、次代国王の妃となるニンナを殺した大逆を畏れているのだ。
「だが表向きの事実は違う。二人だけの秘密だと、誓おう」
アカッシャの思考を奪うように、イムスタは唇を重ねた。
胸に秘めていた感情を明かそうと、愛を語る。
感じていた微かな疑念は、口づけによって燃え上がる感情の炎によって、燃え尽きただろう。
イムスタがこれまで頑なに拒んできた行為を自らに許し、愛という言葉を捧げるだけで、真実を覆いアカッシャの心に植え付けた罪の意識が真実となって根付いてゆく。
愛を囁き合い、共犯を装う。
唇を重ね罪を共に背負うという繋がりが、二人の絆となる
これを真の愛だと感じたアカッシャは、もう逆らえなくなる。
アカッシャを罪の呵責と愛で縛ったのだ。
こうしてイムスタは、従順な愛の奴隷を手に入れた。
以来アカッシャは、軽率な行動を控えるようになった。
露骨な言動で関係を迫ることをしなくなった。
愛を受けとったと自覚したためだろう。
そして今日――。
イムスタは、先に与えようと決めていた。
新たな物を手に入れるために。
改めてみるアカッシャは、美しい。
潤んだ瞳が、すべてを捧げると告げてくる。
もっと早くにこうしていればとイムスタの心に情欲が湧き起こるが、以前は違った。アカッシャの性格は、突飛で強引で、鬱陶しく煩わしかった。
ここまで素直に恥じらいを見せてくれるとは、想像できなかった。
口づけを交わして距離が縮まったからだろうかとイムスタは思いながらも、先走ろうとする欲求を抑え、その瞳を見つめ続ける。
「折り入って、頼みがある」
「何なりと殿下。何時でも殿下の許に参上する際には、準備万端にございます」
「汚れ役だ」
「殿下に穢されるなら本望。今も身を清め、勝負下着に身を包み、覚悟は定めております」
いつものような反応に、イムスタは微笑む。
相変わらずに話を都合良く曲解するが、それも愛おしく思えた。
純粋で従順ならば、最後に褒美を与えるのもいい。
イギャカ山の砦から助け出された時にはどうなるかと思ったが、ニンナの死によって心理的重荷は消え、大公が出陣する流れはまたとない大願を果たす上での好機となっている。
魔王軍の撃退が確実であるなら、その先のアミュング国の統治について展望しなければならない。最も功績を挙げた者が支配するのは、誰の目にも理に適っている。異を唱える者がいたとしても、中心となる存在が不在となれば、どうにでも御しうるのだ。
「ならば我が大願を成就する礎となれ」
「殿下が溜め込まれた願望は漏らさず受け入れましょう」
熱い眼差しと少し赤みを帯びた顔が美しい。
イムスタはすべてを奪いたいとの欲望を胸に、顔を近づける。
額が触れ合う。
お互いの息遣いが重なる。
すべてを捧げてくれる対価として、求めるものを与えるのは正当でもある。
アカッシャの腰に手を回す。一瞬ビクッと体を緊張させたが、そのまま動かずにいると、アカッシャは小さく吐息をはきだした。
「ならば、大公を討て。戦乱に紛れてな」
言葉を理解した動揺がアカッシャに広がる前に、イムスタは腰を抱き寄せる。
一瞬拒み困惑した表情を見せた。
イムスタは有無を言わせぬ決意を纏い、唇でアカッシャの唇に触れた。
困惑は吐息に換わって漏れて行く。
「あ、あのう、殿下――」
「今宵はそなたの望みのままに致そう」
「やっと――」
緊張を含みながらもアカッシャが目を閉じる。
イムスタは、耳元で甘い言葉を囁く。
アカッシャが望んでいるだろう言葉を告げる。
身を委ねてくるアカッシャを誘い、抱きしめ唇を重ねる。
崩れゆくアカッシャの体を支えながら、イムスタは愛を囁き続けた。
上気する息遣いを聞きながら、ひとつずつ、お互いを妨げとなるものをなくしてゆく。
そして隔たりを越えて素のままに体を重ねた。
翌朝。
イムスタ王子が目覚めたとき、一人だった。
放たれた真意を受け取ったアカッシャから耳元に告げられた誓約と制約は、記憶に鮮明に残っている。
「今更ながら、愛おしい女だ」
秘密の共有は、絆を深くする。
秘め事を重ねれば、より、絆は深まる。
アカッシャが抱いていた呵責は、イムスタが受け取った。
代わりに大義名分を与え、その道筋の延長線上に理想を掲げたのだ。
魔王軍から解放したアミュング国に新たな王国を築くという、夢をイムスタは語った。
アカッシャは、体と共に夢を重ねてくれた。
夢の実現に向けて、アカッシャはより積極的になり、従順となる。
「ニンナに感謝すべきかもしれないな」
イムスタは隣の温もりが消え去ったベッドの上に、体を起こした。
大公の別邸での魔獣襲撃事件でニンナは死んだ。
真相は未だ闇の中に封じられている。
「だが、先に手を出したのは、ニンナだ」
イムスタはニンナが飼い慣らしていた一つ目の魔獣に襲われたのだ。
それが切っ掛けであった。
結果として、魔獣の群れが襲来し、すべてが望む方向へと進む道は開けたのだ。
「さて、もう一手、打つとするか」
昼を前にイムスタは便利屋を呼び出した。
現れた便利屋のエブリシン・オルオケは、相変わらず不遜な男だった。
「決まったのか、王子?」
役に立つと思ってカネで引き留めていたが、ニンナが死んだ今となっては、当初の計画は既に破綻している。それなのに飼い主が去っても留まっているのは、カネの方が大事だという価値観で生きているからなのだ。ただし、軽薄そうな言動をしているが、それでいて底知れぬ何かを隠している男だった。
「便利屋エブリシン・オルオケよ。そなたに依頼がある」
「いつだ?」
「明日の未明、川を渡る」
前置きを話しただけで、真剣味を帯びていたオルオケの表情が緩んだ。
「なんだ。開戦の話か」
「なんだと思ったのだ?」
「駆け落ちの話だ」
イムスタにはこの男の思考が読めなかったが、言われてようやく山頂の砦から連れ出された時の話を思い出した。
「言ったはずだ。私は王になり、ハーレムを作りたいと。そのための手助けをしてくれるのだろう、お前は」
「その話は聞いた。が、王子はアカッシャと寝ただろう」
二人だけの秘密という秘め事に留め置くはずが指摘され、イムスタは背筋に冷や汗が流れた。
繋がりという関係が知られるのは都合が悪いのだ。
イムスタは誤魔化そうとした。
「さて、何のことかな?」
「オレは今まで何人の女を見てきたと思っているんだ? 初めてを終えた日の変化を、オレは見逃さないのさ」
オルオケの表情は自信に満ちている。
権力を盾に、何もないと言い張れば表向き押し通せる。
だが、誤魔化しきれない威圧を感じた。
この男にはどちらがより効果的かを天秤に掛ける。
権力による隠蔽よりは、秘密の共有による共犯関係が最善だと思えた。
「だったらどうだというのだ。アカッシャの願いを叶えてやった。本望だろう。だから、アカッシャにも私の願いを聞いてもらうだけだ」
「強欲すぎると、あんた死ぬぜ」
「お前が私を殺すとでも?」
強迫するのかと、オルオケをにらむ。
便利屋一人くらい、いきなりいなくなっても誰も気にも留めないのだ。
共犯者にならないのなら、闇に葬るべきだとイムスタは思った。
権威に従わせ命じるのは好きだが、逆は願い下げなのだ。
「オレは殺さないさ。ただ、守りもしないだけだ」
「お前の守りなど、不要だ」
「それならいい」
「それで、私の依頼を受けるか?」
「まだ話を聞いてないが、断る」
「なぜだ?」
「王子は順番を間違えた。だから、依頼は自動的にキャンセルされた」
何の順番なのか。
暗黙の共通認識に齟齬があるようだが、違いを確かめるには罪の表明が必要だった。
先にニンナを死なせた負い目が、イムスタの心を縛る。
「お前は既に秘密を知っている」
「オレは大公失脚の片棒を担ぐことに同意しただけだ」
「ふ。そうだったな。分かった。もうお前に用はない。やはり駄犬だったようだ」
「オレを駄犬と呼んでいいのは、ユメカだけだ」
「王宮魔導師の弟子も呼んでいなかったか?」
「クリスティーネはおまけだ。ユメカのダチだからな」
「なるほど。で、呼んだらどうなるというのだ、駄犬のジョン」
「オレは、何もしない」
「は? 腰抜けだな」
「本当だぜ、何もしなくなるんだ」
便利屋は執務室を出て行った。
「厄介だな。あいつも消すか。そうだ。ディリアから便利屋に依頼をさせ、戦場に引きずり出せばいい」
ふふ、ふははははは。
王子は不安を笑い飛ばして窓の外を見る。
中庭には、名も知らぬ花が咲き誇っている。
そのような物に興味はなく、ただ願望の満たされた先の花を想っていた。
何もかも上手くいくはずだった。
ニンナが死に、大公家との婚姻によって王位から引きずり下ろされる懸念は消えたのだ。
あとは、大公がいなくなれば、憂いは消える。
魔王とは密約がある。
アミュング国の南方平原に集められた人々を滅ぼし、そこに新たな国を作ることになるのだ。
愚かなアミュング国の者達は、平穏な魔王の日常を奪った罪によって滅ぼされなければならない。
代わりにイムスタが、魔王の代理としてアミュング国を治める。
過去の因習によって、貴族の顔色を覗わなければならないアマタイカ王国の王位など、弟にくれてやればいいのだ。面倒なアマタイカ王国の統治を弟に押し付け、新たな王国を作るほうが遙かに楽なのだ。しがらみのない理想の国家が作れるだろう。
いずれにせよ、魔王は北方の山岳地帯が好みだが、人にとっては南方平原が住みやすいのである。
「これぞ共存共栄。平和的解決だよ」
イムスタは鼓舞するように声高に叫んだ。
聞く者のいない部屋の中で――。




