Ch.3.22:血まみれの、美少女
「急がないと――」
クリスティーネは弾む心で廊下を駆けていた。
ユメカと共に行っていいと、師匠のディリアが許可してくれたからである。
思っていたよりも時間が掛かったのは、ディリアが戦術会議に呼ばれて不在だったのと、少し眠ってしまったからだった。
だからクリスティーネは急いで、待ち合わせの場所、空中庭園へと急いだ。
三階のドアから外に出る。
薄闇の世界に、黒い植木の影がいくつも漂う。
ユメカが待っていてくれると思えば、恐くはない。
ただ、空気は重苦しかった。
夜の冷気に澄んだ爽やかさはなく、夜の帳の下に星々を覆い隠す厚い雲が垂れ込めている。
湿気を帯びたぬるい風がクリスティーネを包んだ。
「降るのかな?」
クリスティーネは走るのを止め、空を見上げる。
東の空は明るくなってきているようだった。
世界を覆い尽くすような黒い雲のせいで、夜明けがまだ先だと思える。
「オネーサマ?」
空中庭園にユメカの姿はなく、クリスティーネの心はざわついた。
待ちくたびれて先に行ってしまったのかと不安になる。
雲で朝陽が見えないだけで、もう太陽が昇ってしまったのかと焦った。
植え込みの向う側に人影が見えた。
待っていてくれたと思うと、不安は弾けるように消え喜びに溢れる。
だが、迷路のような道を回り込んで芝生の庭に足を踏み入れ、瞬間高鳴った鼓動が重く沈み込むように足を止めた。
ユメカではなかった。
見覚えのある女性、ディリアに仕える侍女だった。
足音に気づいて振り向いた侍女が笑顔を浮かべて近付いてくる。
クリスティーネは思わず一歩後退っていた。
見たくない現実、聞きたくない真実を恐れたのだ。
困惑したように侍女も歩みを止めたので、クリスティーネもその場で踏ん張れた。
侍女が恐いのではないし、避けたいほど嫌っている訳でもない。
「クリスティーネ様、ユメカ様より伝言がございます」
「伝言?」
クリスティーネの心に違和感が芽生える。
「南東の森で待っているそうです」
「え?」
ユメカがそんな事をするだろうかと、クリスティーネは首を傾げる。
いつも側に居てくれて、どこか行くときは優しく手を引いてくれるのがユメカだった。
何の理由もなく待ち合わせ場所を変え、伝言だけを残して行ってしまうことはないと思えた。
「うそ――」
クリスティーネの心の中に、絶望が広がる。
師匠のディリアが森を去った時も、唐突だった。
書き置きの文字だけで、別れを告げられたのだ。
「本当に一緒に来る意志があるなら、一人で城を出なさい、とのことです」
「そう、ですか」クリスティーネは俯く。
「では、言伝は確かに伝えましたので、私はこれで失礼します」
侍女が立去った。
一人になり静けさに包まれると、クリスティーネは気持ちを切り替えるように息をはきだした。
空を見上げる。
広がる雲はより暗く、今にも雨が降り出しそうだった。
「オネーサマ。自分で決めて、自分で行動しなくてはいけないと、そういうことなのでしょうか?」
クリスティーネには、自分の意志で定められた領域から出た経験がない。
ミューニム大森林から外に出たのは、数えるほどだった。
年に何度かイムジム・タウンに買い物に行ったのも、魔法通信で必要な物を買いに行くようにと、ディリアに指示されたからだった。それ以外で出たのは、トキメキ・ストールンことジョンが奪い去った聖獣を取り戻すための緊急事態が初めてだった。
自発的に大森林の外に行こうと思ったことはない。
それに出るときは、ゴーレムたちが一緒だった。
そんなゴーレムたちは、もういない。
マザーゴーレムと子ゴーレムを失っても途方に暮れなかったのは、ユメカが助けてくれたからである。一人になる不安から逃れるためにユメカに縋ったという心理も根底にあった。そして、旅をして、ディリアに会えたのだ。
ディリアのところまで連れて行くというのが、ユメカがしてくれた約束だった。
約束が果たされ、クリスティーネはユメカの側にいられなくなったと思っていた。
だからディリアの指導に従い、もう二度とディリアに置いて行かれないようにと必死だった。
言われるままにディリアと行動し、良き弟子となるように努めた。
それでも、ユメカへの憧れ、ユメカの温もりは忘れられなかった。
久しぶりにユメカと会って一緒に行こうと誘ってくれて、クリスティーネはすごく嬉しく思うと同時に、自分の本心に気づいた。
それでも、ディリアの許可なくユメカと一緒に行くとは言えなかった。
ディリアが許可してくれたとユメカに言われ、その言葉を疑った訳ではないが、確かめなければならないと思った。ディリアはユメカを魔王より悪い存在だと疑っていたからである。
ディリアに尋ねると、予想した通り意味合いが違っていた。ディリアの元を去るには、修行を終えなければならないというのだ。つまり、今すぐは認められなかったのである。
だが、クリスティーネは本心に気づいてしまっていた。
ディリアといるより、ユメカと一緒の方がずっと嬉しくて楽しくて、心が満たされていた。
それに、ここでユメカと別れたら、もう二度と会えなくなるかもしれないとの不安があった。
だからクリスティーネは、初めてディリアの意見に従わず、一緒に行かせて欲しいと頼んだ。
断固拒否されるかと思っていたが、意外にもあっさりとディリアは許可してくれた。
ただし、一つだけ条件が付いた。その条件とは、ユメカが責任を持ってクリスティーネを守ると宣言することだった。
「オネーサマなら――」
絶対に守ると宣言してくれると信じて、待ち合わせ場所の空中庭園に来たのだ。
だが、条件を満たすために必要な、ユメカがいなかった。
クリスティーネは絶望を予感した。
伝言を残してくれたことで一縷の望みは繋がっているが、クリスティーネはすぐに決断できなかった。
「オネーサマは、わたくしを試されているのでしょうか」
クリスティーネは心のどこかで期待していた。
ユメカに手を引かれ、あるいは背負われ、現状から連れだしてくれるのを。
でもそれでは、自分の決断にはならないだろう。ユメカに「自分で考えて決めなさい」と言われたことがあった。連れて行ってもらうのでは、ユメカの意志に寄り添い、ユメカの行動に乗っかるような道になる。自分の道ではないのだ。
「ですが、オネーサマ、どうすればいいの?」
城から出るには、ディリアが定めた条件を満たす必要がある。
ユメカが守ってくれるとの宣言がなければ、同行は許されないのだ。
同時に二つの違反を犯すことになる。
「オネーサマ、わたくしは、城から出られないのに」
まだユメカが近くにいるかもしれないと、クリスティーネは空中庭園から城壁の上へと向かって走った。見える範囲にいれば、叫べば声が届くかも知れないし、すぐに追いついて宣言してもらえれば、ほんの少しずるしたことにはなるが、条件は満たせる。
ぐるりと城壁の上を走って、南東側に立つ。
夜明け前の外町を抜ける道に、人影はなかった。
絶望の断崖が目の前に広がっているようにクリスティーネには思えた。
「オネーサマ――」
見捨てられた気がして、クリスティーネの心は乱れた。
不意に、見知らぬ情景が脳裏に浮かんだ。
立去る若い男女の後ろ姿。
クリスティーネは、それを見ていた。
泣きながら「待って」と叫んでいるのは自分だった。
でも足は動かず、追い掛けることはできなかった。
必死に泣いて、わめいて、戻ってきて抱き上げてくれるのを願っていた。
だが、クリスティーネの願いは叶わず、泣き疲れていつしか眠ってしまった。
目を覚ました時、見知らぬ老人の姿があった。
師匠のリディアだった。
「わたくし、捨てられたんだ――」
ずっと忘れていた記憶。
立去る男女は、両親だった。
男に肩を抱かれる女は頭をもたげ、寄り添って歩き去って行く。
二人の間にクリスティーネの居場所はなかった。
物心ついた時、ディリアから両親について聞いた話とは違う。
実の両親は死んでみなしごになったのを引き取ったと言われていた。
だが真実は、親に置いて行かれたのだ。
クリスティーネは、要らない子だったのだ。
だから両親から捨てられたのだ。
「オネーサマも?」
見捨てて立去って行くのかと思うと、涙が溢れた。
「でも、あの時とは違う」
ユメカは伝言を残してくれた。
この先の森で待っていてくれるなら、捨てられたわけではない。
ユメカに必要とされているのか、要らない子なのか、クリスティーネは確かめたかった。
そう思った時には、城壁から飛び降りていた。
風の魔法で体を浮かしてふわりと地面に着地し、そして走った。
日の出が近いはずなのに世界は薄暗い。
厚い雲に覆われた東の空を見ながら、クリスティーネは走る。
すぐに息が切れた。
これまでなら、遠出する時はゴーレムに担がれていたし、イムジム・タウンから逃げ出す時も王子を助けに向かうときも、途中でユメカが背負ってくれた。ディリアと国境を見回る際は、馬車に乗っていた。
自分の足で走り続けた記憶はあまりなかった。
ポツリ。
空から雨が落ちてきた。
すぐに雨脚が速くなる。
大雨になり、道がぬかるむ。
クリスティーネは、フードを深く被り、魔杖を握り締め、泥に足を取られながらも、懸命に走った。
街並みを抜け、郊外に出る。
灰色の雨の帳の向こう、ぼんやりと黒い大きな影が浮かび上がってくる。
森だった。
空は雲に覆われているが、夜に比べれば随分と周囲は明るくなっていた。
森の奥で、魔力が弾けるのを感じた。
「まさか?」
ユメカが戦っているのだとクリスティーネは思った。
脳裏に、魔術師タース・リディルプスの名が浮かんだ。
「オネーサマ、今助けに行きます」
魔力が使われた方向へと、クリスティーネは走る。
闇に閉ざされた恐ろしい森に入る。
道なき森の下草を魔法で薙ぎ払い、クリスティーネは真っ暗な森の奥へと走る。
「オネーサマ、どこ?」
ユメカを呼びながら、必死に走る。
声は激しい雨に掻き消される。
最悪の事態を予想する。
どこをどう走ったか覚えていない。
ただ、魔力が弾けた方を目指した。
しばらくして、雨は小降りになってきた。
沢の流れる音が聞こえる。
近付いて、岩に上って周囲を見渡す。
雨のせいか、小川の水は酷く濁っている。
周囲に黒い塊がいくつも倒れている。
「黒クリちゃん?」
声に振り向くと、黒い人影が佇んでいた。
「オネーサマ?」
クリスティーネは魔杖に明かりを灯す。
「明かりは点けるな!」
ユメカの激しい声にビクッとなり、怒られたように硬直して魔法を解除できなかった。
魔杖から光が放たれる。
ユメカの全身は、何かで汚れていた。
真っ赤な髪。
赤く濡れた顔。
どす黒く汚れた服。
手には抜き身の剣が握られていた。
「どういうこと?」
ユメカが近付いてくる。
クリスティーネの足は竦んでいた。
恐る恐る見回すと、周囲にいくつもの血塗られた死体が倒れている。
「オ、オネーサマが?」
「あんたが黒幕か!」
激しい怒りの形相で、ユメカににらまれた。
クリスティーネは怯えた。
「動くな。少しでも動いたら――」
ユメカが剣を構えて迫ってくる。
クリスティーネは混乱した。
理由が分からなかった。
恐ろしくなって目を閉じる。
お腹の辺りに焼けるような痛みを感じた。
右手を腹部に当てる。
濡れていた。
ゆっくりと目を開ける。
血が出ていた。
「え?」
立っていられなくなり、クリスティーネは倒れる。
世界から音が消えていた。
無音の世界に包まれる。
激しい痛みに、目を閉じる。
それでも痛みは消え去らなかった。
意識が遠退きそうになる。
ふと誰かに抱き留められたのを感じた。
ユメカかと思ってうっすらと目を開けるが、違う。
だが、見覚えがある。
ユメカはどこにいるのかと見れば、走り去って行く後ろ姿が見えた。
「オネーサマ――」
手を伸ばすが届かない。
声を出したはずなのに、届かない。
遠く遠く、ユメカが走り去って行く。
一度も振り返らなかった。
ぼんやりとする視界に、自分を見捨てて走り去って行くユメカを見ていた。
ケガした自分を見捨てて行くのだとクリスティーネは思いながら、痛みと悲しさと苦しさに、目と心を閉ざした。
どれほど時間が経っただろう。
クリスティーネは温かな温もりに包まれているのを感じて目を開けた。
ベッドの上だった。
「よかった。目を覚ましたね、クリスティーネ」
「――お師匠様?」
体を起こそうとする。
腹部に痛みが走った。
頭がぼんやりとして、記憶が定まらない。
何がどうしてどうなって寝ていたのか、思い出せなかった。
悪い夢を見ていたような感覚だけがあった。
「まだ起きてはいけない。重傷だったのだ」
「オネーサマは?」
心の中に生じた空白を埋めるために、クリスティーネが無意識に求めたのはユメカだった。
「逃亡したよ。ウォイク聖国から送られてきた聖騎士を惨殺して」
「ウソ――」
朧気な記憶の断片が、頭の中に浮かび上がる。
「クリスティーネも危うく殺されるところだったのだよ」
「ウソよ、だって――」
否定する言葉は浮かばない。
蘇る記憶に、心が痛み苦しくなる。
血にまみれたユメカの姿。
その周囲に血を流して倒れる無数の人間。
目にした現実は、ディリアの言葉を肯定している。
「ヤスラギ・ユメカはやはり、魔王さえ操る黒幕だったのだよ」
師匠ディリアの言葉は、クリスティーネの心を凍らせるように響いた。




