Ch.3.8:残り香の追跡犬
ユメカ達が王子救出に向かった日の夜。
大公の別邸に滞在するジョンは、大事な用があるとの伝言を受け、密かにニンナ・ア・ユイモの私室に招かれていた。
魅惑的な胸元を大きく開けた薄手のネグリジェ姿のニンナに、ジョンは迫られているところだった。
「あんな未発達なのと、私とどちらが好みかしら?」
「そりゃあ、もちろん、決まっているじゃあないですかあ」
ジョンが鼻の下を伸ばす。
「あら、正直な坊やは好きよ」
「お、オレを誘惑してくださるので?」
「さあ、どうかしらねえ」
ニンナはジョンの鼻の頭を指先で触れると、ゆっくりと降ろし、服の上から胸からへそまでなぞるように撫でた。
「ひ、人の婚約者にこんなことされて、いいんですかあ?」
ジョンは鼻息を荒くした。
「今だけのお楽しみですから」
「そ、その心は?」
「結婚してしまっては、婚約者ではなくなってしまうもの」
「ああ、それはなんという麗しき真理。狂おしき心理じゃあないですか」
「ふふ。面白い坊やね」
「お美しいご婦人に、喜ばれるのは本望ですよ」
「あら、嬉しいこと言うのね」
「女性を喜ばせるのが、男の甲斐性ってもんですよ、ニンナさん」
「名前、呼んでくれるのね、嬉しいわ」
ニンナがジョンの胸に頭をもたげた。
かぐわしい香水の香りに、ジョンは衝動を抑えるようにニンナの両肩に手を置いて、押しのける。
「いけません、奥さん」
「気の早いこと。私は未婚ですよ」
「先手必勝なのですよ」
「あら、あちらもお早いのかしら」
「早撃ちガンマン、早落ちガマンというのはいかがでしょう」
「楽しみだわ」
「ですがニンナさん、目的は何です?」
ジョンは改まって背を向けて距離を取る。
「さすがですね、私の本心、見抜かれてしまいましたか」
「それはもう、オレのアンテナ感度はビンビンですから」
「ふふ。素敵ですわ。では正直に申し上げましょう。あなた、つまり便利屋エブリシン・オルオケに、折り入って頼みがあるのです」
「ほう。オレのその名を知っていらっしゃるとは、ニンナさん、なかなかヤリ手ですね」
「私の情報網は、この国を越えて張り巡らされていますのよ」
「世界的な蜘蛛の巣のように?」
「面白いたとえをなさるのね。知的な坊やは好きよ」
「オレも、美人は大好物ですよ」
「あら、嬉しい」
「ですが、商売は別。美人割引はしませんよ」
「厳しいのね」
「世の中世知辛いのです」
「同感だわ」
「それで、便利屋のオレにどんな依頼で?」
「王子を私の元に連れ戻してきて欲しいの」
「それは意外なお申し出だ。ユメカ達に頼んだのでは?」
「それは、王子の救出」
「助けた後、首都ではなく、あなたの元に連れて来いと?」
「直接王子を救い出す力のない私には、人脈と権力と財力を使うしかないのでしょう? お膳立てしたのは私なのに、あの白の騎士に功績を横取りされては困るとは思わない?」
「確かに、横取りや横恋慕はいけませんねえ」
「そうよねえ」
「それでオレに?」
「どんな依頼も受けてくれるとか。しかも確実だと聞いているわ」
「その分値が張るとは聞いてませんか?」
「なので、大金貨千枚を用意しているのよ」
「そいつは、大盤振る舞いだ。だが、大金貨じゃダメだ。金貨にしてくれ」
「あら、持ち運べて? 倍以上重くなるわよ」
「つまり、大金貨は、金貨の価値の半分以下ってことですかねえ」
「それは、金としての価値であって、貨幣の価値とは違うのよ」
「分かっているが、他の国じゃあ、通じないのですよ」
「いいわ。金貨で支払いましょう」
「だが、口約束じゃ、困る」
「では、魔術証文に記しましょう」
「魔術証文がウソだって、もう分かっているんですよ、例の貴族の所で」
「やはりそうでしたか。ですから私も覚悟を決めてきたのです」
「どんな?」
「あら、分からないのかしら?」
ジョンはニンナに手を引かれた。
その先は、大きなベッドの方だった。
「王子救出のため、私も体を張るのよ」
「つまり、保険だと?」
「あなたと私の契り。あなたとの関係が王子に知られたら、私は婚約を解消され、愛する王子を失ってしまうわ。」
「大した覚悟ですねえ、ニンナさん」
「だから、私は絶対に約束を守るという保証になるのよ」
「悪いんですが、一つ問題があります」
「なんでしょう」
「オレはあんたの初めてになるのは嫌なのですよ」
「ふふ。これは秘密の話ですが、口外しないとお約束してくださいます?」
「秘密は守りますよ、ニンナさん」
「私は、殿下のため、夜伽の修練をしております」
「なら、これも修練と言える訳ですかあ」
「はい。ですから、何ら疚しいことは致しませんのよ」
「それなら、遠慮なく」
ジョンはニンナをベッドの上に押し倒した。
「ふふ、強引ですのね」
「ニンナさんこそ、積極的じゃあないですか」
ニンナの腕がジョンの頭を胸に抱きしめようとする。
「積極的なのは、お嫌い?」
「人によりますよ」
「私は、どうです?」
「もちろんあなたは、最――」
ぐぎゅるるるるる――。
雰囲気を破壊する破壊音がジョンの腹から鳴り響いた。
「ど、どうしたの?」
「ここはガマン、ガマンの子。機を逸すればし損じる。心変わりがあな恐ろしや」
「な、なんなの?」
「心配は要らない。こっちの話ですよ」
ぐぉお、ぎゅるぎゅるぎゅる。
恐怖の大○王が降臨しそうな禍々しい音に、ニンナが表情を強ばらせる。
「や、やっぱりおかしいのでは?」
「気にしなくていいですよ。前と後ろ同時に発射するだけのことです」
「ご冗談を」
「冗談じゃあありません、マジも本気、気が狂うほどの生真面目さですよ」
「ふ、ふざけるんじゃあない!」
ジョンは突き飛ばされ、ベッドから落ちた。
「とっととしてこい、汚らしい犬の分際で!」
「おお、さっきまでの優しいニンナさんはいずこへ?」
「ここを汚したら、体から生えてるもの、すべて切り落としてやるわ」
枕の下に隠していたナイフを取り出して、ニンナは鞘を捨て、突き出した。
「わ、ご勘弁を」
ジョンは慌てて腹と尻を押さえて部屋から飛び出す。
「禊ぎしてから出直しなさい」
ニンナの怒号をドアで遮ると、ドスッとドアの向こうに何かが刺さる衝撃を感じた。
恐い恐いと、ジョンは大きく息を吐き出した。
「ふう、危ねえ危ねえ、危うくオレの根源が奪われるところだった」
気を持ち直してジョンは、のんびりと廊下を歩く。
向こうから商人が歩いてくるのが見えた。
仲介者のイークソン・エデキである。
「おや、お早いですね。てことは、値切られたましたかな?」
「あんたはどうだったんだ?」
「あっしはもう、朝まで」
「そういつは強勢だね」
「ひっひっひ。まあ、商売柄、交渉事はじっくり、というのが重要でして」
「そりゃあ、いい話を教えてもらった」
「まあ、商売人の先輩としての助言と思ってくださいな」
「なら、ニンナさんに伝言を頼んでいいか?」
「なんでしょう」
「依頼は、受けたと」
ジョンは言い置くと、外に飛び出した。
服の匂いを嗅ぐ。
ニンナの香水の匂いが移っていた。
「臭いな」
ジョンは服のまま川に飛び込んだ。
泳いで対岸に渡る。
「待っていろよ」
ジョンは駆けた。
想い描く理想の夢はどこで香るのか、犬になったジョンの嗅覚は冴えていた。
「マイハニーの香りが恋しいワン!」
朝陽を待ちわびる白んだ空の下、ジョンは犬のように山を駆け登っていった。
日の出と共に、カルデラ湖を望む場所に至った。
ジョンは額の上に手をかざして遠く影の濃い場所を見た。
山の稜線から陽光が差し込みつつあるが、対岸の斜面を照らすだけに留まっている。
低い角度の陽射しが届かないどんぶりの底にある湖の中程にある島で、黒く長い影が蠢いている。
「おお、あれがムカデ長老か」
ジョンは両手を筒状に丸め、双眼鏡を覗くように両手の穴から湖上の島を見つめる。
「マイハニーが戦っているワン」
おう、おおう。ほう、ほほう。へえーっ。
戦いを覗き見ながら感嘆の声を上げていたジョンが、手を下ろした。
「さすがはマイハニーだ。オレの出番はなさそうだな」
視線を下ろす。
湖畔では、イーブが魔獣たちに囲まれて苦戦していた。
「ありゃあ、おっさんがやばそうだ。が、オレはおっさんを助けるのは趣味じゃない。行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ」
ジョンは手を顎に当てて考え込む。
「うーん、マクベス。いや、ハムレットか? 危ない。またマイナス点をもらうところだった」
ジョンはクビをゴリゴリと回すように、周囲を見回した。
「お、いい岩発見!」
斜面に突き出て落ちそうで落ちない巨石へと駆け寄ると、ジョンは跳び蹴りを食らわす。
巨石はズズズズっと音を立てて傾き、バランスを大きく崩し、斜面を転がり落ちて行く。
「マイハニーは身近な人の死を悲しむだろうからな」
木々をなぎ倒しながら転がり落ちる巨石を追って、ジョンはカルデラの底へと駆ける。
「落石だあ!」
ジョンの大声が周囲に響いた。




