Ch.2.8:欲望と策略
騎士隊長のアダセン・アジミュは一人になり、フッと笑った。
廊下を、館の奥にあるイロム・イムジム伯爵の居室へと向かっているところである。
「不幸中の幸いだったな」
アダセンが騎士として伯爵に仕えて十年になる。
伯爵の性格も趣向も知りすぎている。それだけに、言われるまま命じられるままに、粛々と領主の機嫌を損ねないように振る舞うのが処世術として身についている。だからこそ、聖獣を捕獲できなかった代わりに依頼した便利屋を契約違反として捕らえたところで、怒りを買うのは目に見えていた。
だが、一筋の光明はある。
物欲も食欲も金銭欲も名誉欲も大きい伯爵だが、目に余るほどに旺盛なのは色欲だった。その趣向について思うところはあるが、とやかく言うことはない。ただ、その性質に沿うことで保身を図るだけである。
美少女二人の存在によって伯爵の興味はそちらに向かい、失態は欲望を満たす一助を為した功績によって上書きされるだろう。
ただ、アダセンはそれ以上を望んでいた。
別の結末である。
力自慢の部下オーズィキァでさえ持てなかった不思議な剣を持つあの美少女なら、ゴーレムを倒したあの美少女なら、何かしてくれるのではないか思うのだ。騎士として伯爵に忠誠を誓った服従の頸木から解き放たってくれる何かを、密かに待ち望んでいる心は偽れなかった。
「遅かったな、騎士隊長」
アダセンは足を止め横を向く。
邪な思考に気づかれたかと焦り背中に冷や汗が流れるが、顔は平然さを保った。
階段脇の暗がりに、幽霊のようにぼんやりとした白い影が見える。白のローブを着た魔術師である。いつの頃からか食客として逗留する、怪しげな痩身の老人である。頭髪はくすんだ白で、皺が深い。
この魔術師は、伯爵と共に、地下室を改装して秘密の何かをしている。何をしているかアダセンには予想が付いていたが、それを口にすることも、真偽を確かめることもしていない。部下とその家族を守るためには、伯爵家の存続が必要だからである。
「魔術師殿は、ご帰還がお早いご様子で」
「鍛えておるからな」
「是非ともその鍛錬方法をご教授頂きたいですな」
「我が弟子になりたいと?」
「弟子にならねばご教授頂けないのでしたら、諦めましょう。私は騎士ですので」
「賢明な判断だ」
「ところで、聡明なる魔術師殿が、聖獣を奪った五人を殺したのは何故でしょう?」
「あれは、大公に仕える騎士だったのだ」
「炎騎士だったと?」
「そうではない」
「では、オノイ殿が集めているという騎士ですか」
「詳しいようだが、騎士隊長殿も、鞍替えを望んでいるのかな?」
「御冗談を。私は伯爵閣下に忠誠を誓っておりますゆえ」
「そういうことにしておこう」
魔術師が不気味に笑った。
心の内を見抜かれているようで、気味が悪い老人だった。
正直好きにはなれないし、今後も関わりたくない人物である。
「ところで、そろそろ魔術師殿のご尊名を伺いたいのですが」
「不要なことだ」
「魔術の霧で助力して頂いた礼をするのに、名を知らぬままでは礼を失するというもの」
「無用な気遣いだ。これも領主との契約の一部だからな」
「そうでしたか」
アダセンは天井を見上げてから、視線を魔術師に戻した。
国王が聖獣を探しているという情報をもたらしたのも、契約不履行の便利屋がどこに居るか教えてくれたのも、魔術師なのだ。その真意が掴めなかった。
「魔術師殿は今回の件、大公閣下が関わっておられるとお考えですかな」
「推測の話をしても無意味だ」
「ですが便利屋と大公閣下に繋がりがあるなら、一大事」
「それよりも、ゴーレムを倒した少女を連れてきたのは問題だ。なぜ殺さなかった」
「その少女が持つ剣は、一番力のある部下でも持ち上げられなかったのです」
「それで、炎騎士が羨ましいと?」
アダセンは魔術師を睨んだ。
暗に、イロム・イムジム伯爵の待遇の悪さを批難されたからである。
先祖伝来の魔剣を持たない騎士は、功績を上げて仕える貴族から下賜されるか、技量に応じて貸与されるしかない。だが、伯爵はそうした武器収集のための出費を嫌うのだ。イムジム・タウンの防衛のために配備されていた爆裂槍も、先代が備えた物だった。
アダセンにも秘めたる心には不満があるが、仕える主人に対して表向き口にすることは、騎士として断じてない。
「武器の力に頼れば技量は高まりませんし、魔剣がなくとも魔物と戦う知恵と工夫をすべきなのです」
「ほほう。ではどのような工夫があって、連れてきたのだ?」
「契約によって縛ればいいでしょう。魔術証文があるのですから」
「ならばお手並み拝見といこう」
「無為徒食と誹られるのは嫌ですからなぁ」
「くっくっく。騎士隊長は気苦労が多いようだ」
アダセンは渋い顔をした。
食客としているだけの役立たずと皮肉ったつもりだったが、魔術師には通じなかったからである。これ以上話していては気分が悪くなると、アダセンは視線を廊下の奥へと転じた。
「では失礼。閣下にご報告せねばなりませんので」
これ以上の会話を拒むように背を向け、アダセンは足早に廊下の奥の部屋へと向かった。
イロム・イムジム伯爵の居室のドアをノックして来訪を告げると、ドアが開き、中からはべらせていた侍女が二名、そそくさと出てくる。近隣の村娘を物色し、領主が召し抱えた侍女である。働きに出した家は対価を得て暮らしが楽になり、娘は贅沢な暮らしができるようになる。双方利益が得られるのだが、娘は心身を蹂躙される現実を知って病んでいく者も多い。
アダセンは無感情の鎧を心に着込み、侍女と入れ替わって入室した。
お楽しみを邪魔されて不機嫌そうな伯爵が座るソファーに近付かず、ドアから数歩入って立ち止まった。伯爵は縦よりも横に大きな人物で、転べば一人で立ち上がれないほどに体格がいい。柔らかなソファーに埋もれるように座り、つまらなそうにグラスのワインを飲んでいた。
「閣下、例の便利屋を連れて参りました」
「聖獣は?」
「謎の五人組に奪われたと便利屋は弁解していますが、契約違反には変わりありません」
「奪われた? なぜだ?」
「便利屋は約束通り宿の厩舎に聖獣を入れた木箱を置いたと言いますが、我々が受け取りに行くまでの間に、五人組が奪い去ったというのです」
「んん? 意味が分からんなあ。なぜ奪われる前に受け取らなかった」
「町にゴーレムが現れましたので、防衛が先と考えました」
「アダセン・アジミュ、お前は無能か」
伯爵の手からグラスが飛んだ。
狙いは逸れてアダセンの脇の床に転がる。毛足の長い絨毯が衝撃を受け止めたためグラスは割れなかったが、代わりにワインは絨毯に赤いシミを広げて行く。
「申し訳ございません。なにぶんゴーレムは巨大でしたので」
「違うだろう! お前は事の軽重が分かってない。希少な聖獣と、いくらでも代わりのいる町民どもと、どちらが大事だというのか」
「領民の安全を守らなくては、閣下の名声に傷が付きます」
「そうではない!」
深く腰を下ろしたソファーから立ち上がろうとした伯爵は、座面へと横に転がった。そのまま体を捻るようして伏せとなり、もそもそと足を下ろし、ソファーに手を突っ張ってようやく立ち上がる。伯爵はソファーの脇に立てかけていた杖を手にすると、よたよたとアダセンに近付く。
背はアダセンの方が高い。
見上げるのも億劫そうに溜め息をつくと、杖でアダセンの足を打ち据えた。
「儂を見おろすな、無礼者」
「は、失礼しました」
アダセンは慌てて跪く。
その頭上へと、伯爵は杖を振り下ろす。
次いで、杖を左右に振って横面を叩いた。
「どうか、御容赦を」
アダセンが深く頭を下げる。
「ならば、どうすればよかったか、言うてみよ」
「まっさきに聖獣を確保すべきであったと、猛省しております。お許しください閣下」
「そうだ。まず儂に詫びるべきなのだ。そして反省すべきなのだ。だが、儂は極めて寛容なので挽回の機会は常に与えている。で、どうした?」
「町を襲ったゴーレムは、一人の少女によって倒されました。年の頃は十五歳、美少女剣士と評判にございます」
「ほう。美少女とな? で?」
伯爵は興味を抱いたらしく、手で顔をなで始める。頬や鼻顎などをなで回している時は、様々な妄想を膨らませているのだとアダセンは知っている。
伯爵が前のめりの期待を抱いてくれたのだ。
杖で打ち据えられるような罰を受けようとも、その怒りを忘れさせるようにおもねり、機嫌良くなってもらわなければ生きて行けない。嫌われてしまえば、給金が支払われなくなるだけでなく、命を奪われかねない。生きるためであれば何でも利用する。そのために、関わりの無い誰かが犠牲になろうとも、構わなかった。
「ゴーレムを操っていた魔法使いはさらに幼くかわいらしい少女でしたので、魔法使いの真似事をしていたのでしょう」
「な、なんと。で、どうした?」
「美少女剣士は魔法美少女を助け、町から逃走しました」
「そ、それで、もちろん追いかけたのだろうな?」
「閣下のご推察通りにございます。追跡しましたところ、驚いたことに、美少女剣士と魔法美少女は、便利屋と一緒だったのでございます」
「ふぉ? なぜに?」
伯爵が首を傾げたので、アダセンは話の運びを間違えたと悟った。
伯爵は理解する道筋の途上にいるのではなく、理解が遠く及ばない、理解に至る道の手前で迷子になっているのだ。愚鈍と言うには時に鋭さを見せる思考が垣間見えるために適さないが、極めて狭い視野しか持ち合わせていない。
「美少女剣士と魔法美少女は、便利屋の仲間だったのでございます。そこで、まとめて捕らえて連れて参りました」
「ほ、ほう。では、ここにいるのだな?」
「左様にございます。前庭に引き据えております」
「ぐふふふふ、そうかそうか」
伯爵の頭の中でどのような妄想を生みだしているかを想像する気は、アダセンにはない。いかにして伯爵の不興を買わずに済ませ、有益となるかを感じてもらうか、という点が最重要なのだ。それが生き残るための唯一の手段だからである。
伯爵はふらふらとソファーへと戻って倒れ込むように座った。
立ったまま妄想を膨らませるのが苦痛になったのだろう。
「おや? すると聖獣もか?」
「聖獣はおりませんでした」
「んん? するとなにか、やはり聖獣が手に入らなかったのか?」
「便利屋の言うように聖獣を奪い去った五人組はいましたが、残念ながら魔術師殿が皆殺しにしてしまいましたので、尋問もできませんでした」
「むむ? 先生は領内をうろつく怪しい騎士を葬ったと言っていたがな」
「私は魔術師殿から、その五人組は、大公閣下の騎士と聞きました」
「大公殿の騎士? なぜだ。意味不明だな」
「推測するに、大公閣下も聖獣を探されておられるのでしょう」
「そ、それはまずい。だが、先生が始末してくれたのなら、問題ない。だが、聖獣はどうするのだ」
「美少女剣士と魔法美少女は、便利屋の仲間です。聖獣を捕まえたと偽り、ゴーレムによるイムジム・タウン襲撃の混乱を装って大公閣下の騎士に聖獣を入れた木箱を奪わせたのだと考えます。つまり、初めから便利屋には、聖獣を捕らえてくるつもりはなかったのかと」
「なんと、許せん許せん許せん。なぜ便利屋が美少女を二人もはべらせているのだ」
「いえいえ閣下。美少女剣士こそが、便利屋の主人だとわかりましてございます」
「事実か?」
「左様にございます」
「ぐへへへへ。ならば証文が有効ではないか」
「そうなるでしょう」
「そういうことなら、疲れ果て不安になるまで待たせてやる。その上で、ぐふふふふ。ああしてこうしてくれるわ。くっくっく。どれほどの美少女か、楽しみだ」
「どうか、閣下のお力で美少女を従順になるまでご指導していただきたく」
「おお、おお、任せておけ。慣れておる。どの口も開かせてみせるわ。儂の情熱を注いで指導し、礼儀作法をしこんでくれるわ。はっはっは」
「しかしながら閣下のお手を煩わせてしまうご無礼、どうか御容赦ください」
「構わぬ構わぬ。契約違反で死の恐怖に怯えおののき、不安に青ざめ焦燥する頃合いを見計らって儂が登場すれば、命乞いをして従属を誓うであろう」
「左様にございます。閣下の御威光に、美少女は濡れそぼって足元に縋るでしょう」
「ぐわっはっは。楽しみよのう。楽しみよのう。では早速、そなたは様子を見て参れ。もう頃合いであろうかのう。青ざめて奮えておるやもしれぬぞ」
「は。では早速に」
腰を低くしたままドアの前まで下がると、敬礼をしてアダセンは退室した。
廊下に出ても、神妙な表情は崩さない。
誰に見られているか分からないからである。
アダセンはあえて不機嫌そうな顔を作り、前庭の様子を覗き見る。
思わず苦笑した。
美少女剣士は、待ちくたびれた様子も不安に怯えている雰囲気もなく、楽しそうに何やら熱中していたからである。
やはり何かが変わりつつあると、アダセンは感じていた。
時代の転換点というのだろうか、大きく世界の流れが変わりつつある感覚がある。
力自慢の部下ですら持ち上げられない剣を持つ少女ならば、ゴーレムを倒したのは演技ではなく、真実の可能性が高い。それならば鬱屈した境遇から抜け出す機会が訪れるかも知れないと、期待する心が芽生えている。
騎士としての体面を保ち大義名分が立つように伯爵と縁を切る状況。
それを、アダセンは待ち望んでいた。




