Ch.1.-3:ヤスラギ・ユメカ誕生!~前編~
イアラ川に船が一艘、遡上している。
甲板に立てられた一本マストの帆が風をはらむ。
川の流れは緩やかで、弱い南風が吹いていた。
「城壁みたいね」
マントを着てフードを被って顔を隠す人物の呟きだった。
高音域に鈴のような余韻を伴う澄んだ声は、若々しい。
魅惑的な少女を想起させる声だった。
彼女は左舷側の近くに座り、景色を眺めている。
川の右岸。
堅牢な石造りの堤防が、下流からずっと続いている。
「お客人、初めてかな? これがウォイク聖国の名所のひとつ、聖なる岸壁だよ」
「聖なる? これが?」
「洪水から土地と住人を守る、神の叡智によって築かれたと言われている」
「ふうん」
頷きながら発した彼女の声は、どこか懐疑的だった。
舳先に立って水深の浅い場所を避けるように指示をしていた船頭は、難所を越えたためか、川面視線を上げ、左舷側一番前に座る客人に移していた。
船員は三名。
大量の荷が積まれ、その隙間に数名の客が座っている。
アビク国からアマタイカ王国へ向かう航路である。
物資運搬のためにあるが、荷の隙間があれば人も乗せるのだ。
夏は過ぎたが、まだ陽射しは強く暑い。
船を操る三人の男は上半身裸で全身に汗をかいているほどである。
旅客は皆軽装だが、フードを被った彼女だけが異質だった。
「お客人、本当にキスタに寄らなくていいので?」
「興味ないわ」
「皆の憧れの場所なんだよ」
船頭は気落ちした表情を見せた。
キスタ地区は、ウォイク聖国の交易地である。
周辺諸国からあらゆる物が集まり、取引される。
人と物とカネが集まる地区で、何本もの通りの両側に様々な商店が建ち並んでいる。
食事も安くて旨いと定評があり、夢の国だという伝聞が広まり、誰もが憧れる場所である。
ウォイク聖国の中心、聖都に入るための経由地で、天国に最も近いとさえ言われている。
この船は物資運搬船だが、荷物扱いの乗客が要望すれば、キスタ地区の川岸に寄せて降ろしてくれるのだ。
正規のルートでは関所を通る必要があり、上陸する際には入国審査を受け、入国税を支払わなければならない。
だが、船頭の口利きがあれば、裏ルートを使って格安で入国できるというのだ。
その際の仲介料が、船頭にとっての臨時収入となるのだろう。
不意に影が差した。
船が巨大な石造りのアーチ橋をくぐったのだ。
「土木工学の専門家でも現れたのかな?」
フードの影から呟く声が漏れた。
「なにか言ったかな?」
「神の叡智はどうやればもらえるのかって、思っただけ」
「それは毎日の祈りと信仰心だよ」
簡単だというように、船頭は笑った。
「本当かしら」
「お客人、疑うと天罰が下るよ。神は嫉妬深いからね」
「それ、何の教え?」
「知らないとは驚いた。お客人は、だいぶ田舎から来たのかな」
「まあね」
「なら、仕方ない。聖言教だよ」
「ふうん。それって、すばらしい教えみたいね」
「そりゃもう。国王が聖言教を厚く信仰したお陰で、ウォイク聖国は他よりも産業も文化も発展したからね」
「さっきの石橋も?」
船頭は頷いた。
「お陰で渡し船をやっていた連中は職を失ったがね」
「失業したのなら、大変じゃない」
「聖言教の司祭様は、失業者に施しの手を差し伸べてくださる。前よりも稼ぎが増えたと喜ぶ奴の方が多かったくらいだよ。逆に羨ましいね」
「それで世の中平和になったのなら、いいんだけどね」
「残念ながら、数年前に北方の国に魔王が現れ、この辺りでも魔物が出没するようになった」
「本当に魔王?」
フードで顔を隠した彼女が、少し身を乗り出した。
興味を抱いたようである。
船頭は少し自慢げに咳払いをした。
「太古の昔にいたという禁句の名を持つ魔王の再臨とも、燃える炎の髪を持つ魔女だとも噂はあるが、何が本当かは知らないね。だが、司祭様がくださる護符を持っていれば、安全安心だ。魔物も寄りつかない」
「へえ。そんな便利アイテムがあるんだ」
「護符がいるなら、聖都行きを勧めるよ。安物は修行中の助祭が作った護符だからな。司祭様の、できればより上位の司祭様が作られた護符がいい」
「効果にもランクがあるんだ」
「是非一度行くといい。ただ、聖都アルアバッヒは防魔の壁によって守られていて、その門は狭く厳しいがね」
「どういうこと?」
「簡単に言えば、着飾る者や武器を持つ者は入れない。清貧なる者の都だよ」
「それなら、やめておくわ」
彼女はマントの内側で左腰に下げている剣に触れた。
「護符があれば、そういうのも無用になる」
「護符がなくても無用になる方がいいわよ」
「違いない。が、そのためには救世主の降臨を待たなくてはならないのさ」
「救世主なんて、いつ来るの?」
「世界中に敬虔なる信徒が現れ、祈りで満ちれば降臨くださるそうだ」
「気の長い話ね。でもそれだと、今生きてる人は救われないわね」
「そのために神は、奇跡の力を与えてくださったのだよ」
「奇跡の力?」
「魔を討ち滅ぼす力。聖導師様が使う奇跡と、聖騎士様が使う御技だよ」
「結局、魔王は力ずくで倒せってことか」
「救世主が現れても、魔王を倒すのは力ずくだろう」
「そうかもね」
「おっと、もうじき到着だ」
船頭が上流に視線を転じる。
左岸にある桟橋が見える。
帆の向きが変えられ、船体がゆっくりと横を向く。
船員の一人が舷側に立ち、舫い綱を持って桟橋との距離を測っている。
飛び移ろうというのだ。
「先に降りるわよ」
フードを被った彼女が立ち上がる。
「あ、お客人、危ないからまだ座ってな」
「大丈夫よ」
フードの陰から、滑らかな頤が覗く。
一瞬見えた顔立ちに、船頭は驚いた表情を見せる。
初めてフードの彼女が美少女だと知ったのだ。
桟橋までおよそ一〇メートル。
フードを被った彼女はふわりと桟橋へと跳んだ。
風でたなびくマントはまるで鳥の翼のようだった。
腰に下げた長剣の重さすらまるで感じさせず、羽のように桟橋に降り立つ。
マントの内側に着ているスカートがひらりと舞うように踊り、すらりと伸びた脚が太陽の陽射しに白く輝いて見えた。
「おおーっ」
語彙力に乏しい船頭はただ感嘆の声を上げるだけだった。
しばし見とれていたが、桟橋の美少女が振り返って手を振ると、笑みをこぼした。
「お客人、魔物に気を付けなよ」
「ありがとう」
フードを被った美少女は桟橋から護岸へと跳び乗ると、土手を駆け登ってゆく。
「アマタイカ王国か。久しぶりだな」
美少女は大地踏みしめるように土手の上を川に沿って歩いた。
軽やかな足取りである。
しばらく右手に広がる湿地帯を眺めながら土手を進む。
川港の街並みを避けるためだった。
点在する貯水池の水面に水鳥が泳ぐ波紋が描き出される様子が見える。
湿地を貫くように作られた道を見付けると、美少女は土手を降りてその道に入った。
歩きながら、フードの端を摘まむ。
「もう、平気かなあ」
マントに付いたフードを被っていると、周囲の音が聞きづらい。
おまけに視界も狭まる。
陽射し避けと顔を隠す役には立つが、風通しは悪く蒸れるのだ。
オイグナ路に入り、見渡す。
街道から逸れた道だけに、人通りは少ない。
それでも、北に向かう道筋に、二人組の旅人らしき姿が見えた。
「あの人達がいなくなってからにしようかな」
美少女は歩く速度を落とし、前を歩く二人との距離を保った。
前を行く二人が、時折振り返る。
警戒されているようだった。
「やっぱり――なのかな」
しばらくして、二人は、休憩を装うように脇道に逸れていった。
「今のうちに追い越そう」
美少女は足を速めた。
先程前を歩いていた二人が入っていった脇道の奥を、ちらと見る。
異様な気配があった。
「助けて」
不意に半裸の少女が駆け出してきた。
つまずいて少女が転ぶ。
破れた布を体に巻いて体を隠しているが、胸がはだけそうだった。
それよりも目立つのは、大きな痣だった。
胸元から肩を越えて背中にかけて広がる青黒い痣。
首筋から髪で隠した右頬にも広がっており、若くてかわいらしい姿を台無しにしている。
「それはつまり、誰を何から助けて欲しいのかな?」
美少女はそっとマントのフードに指を掛ける。
キラリと陽光を弾いて輝くように、赤い髪がフードの内側からさらりと流れ出た。
痣の少女の表情は変わらない。
何も見ていないようだった。
言葉には必死さがあるが、表情は義務的な作業をしているようだった。
「お父さんを、助けて」
痣の少女の声は、少し無機質に響いた。