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3年ほどの月日が経ったある日の事だ。

忙しいワイン農家にあって、冬の間はしばし落ち着けることが出来る貴重な時期であるから、溜まった書類へのサインだとか、新しい貴族への叙爵などの王にしか出来ない仕事を一気に片づけるために久々に王都にやってきた。リチャードに対して、王宮内の皆の反応は冷ややかなものだったが、王妃たるエルドラは精一杯の礼を尽くしこれを迎え入れてくれた。


「大儀である。苦労を掛けるな。」そのように声を掛けると、どこか辛そうな様子をしたエルドラが頭を下げる。

リチャードにはその表情が少々気になったが、元より賢いエルドラの苦労についてはリチャードには察しがつかぬ。

あまり深くは考えずに王宮内の自らの居住区に入る。


めったに来ないこの一画は、リチャードのためだけに用意された大小15もの居室が連なっており、今いる茶の間なども初めて入る場所であったが、塵一つなく完璧に磨き上げられていた。


溜まっていた面倒ごとを矢継ぎ早に片づけ、ようやっと一息ついたリチャードは今回の来訪においての一番の目的を果たすべく、席につき、王妃たるエルドラを迎える。


挨拶もそこそこにリチャードはエルドラへと用件を伝える。

「そなたが喜ぶかどうか分からぬが、面白いものがあるのだ。」

リチャードがエルドラの前に掲げてみせたのは、ボトルに詰まったある飲み物であった。


「まあ!」エルドラが目を見開く。「もう最初の醸造がすんだのですか? そのような話は全く聞いておりませんでしたわ!」


「ははは。」リチャードは笑った。「まさか! 酒を造るにはまだ早い。これはただのブドウのしぼり汁だ。

2年目の剪定で試みにいくつかできたブドウの房を残しておいたのだ。まあ、我がワイナリーの将来を占うちょっとした遊びというやつだ。正直味はお察しだが、未来のワインに思いを馳せるに良い楽しみとなるかとこのようにしてみたのだ。


村の皆とはすでに味わった。そなたも我がワイナリーの大切な一員であるからして、同じ楽しみを分かち合えぬかと思ってな。

二人で味わおうではないか。」


リチャードがそう説明すると、エルドラは目をキラキラと輝かせてボトルにそのまなざしを向けた。

それから振り返り、侍女に託けをすると、彼女達が素早い動きでグラスを二つ持ってきた。


リチャードはならんだグラスに手ずからボトルを傾け、2つが同じくらいの量になるように注ぎ入れると、その一つをエルドラに手渡してやる。


それから二人でグラスを掲げると、白濁した白ブドウのしぼり汁をゆっくりと口に含み飲み干し合う。


正直酸っぱいだけでとても飲めたものでもないのだが、それでもこれがこの先ワインになるという気配が感じられ、リチャードにはとても嬉しく感じられた。

目を向けると、うっとりとした顔で口に残った余韻を楽しむエルドラの顔があった。


「どうだ? エルドラ。酸っぱいだけでとても飲めたものではないだろう?」いたずらっぽく笑いながら声を掛けてやると、ふるふると首を横に振るエルドラ。

「とんでもない! これがこの先、あの素晴らしいワインのお味に至るのかと想像するだけで心の震えが止まりません! ちゃんとその萌芽が感じられます。このブドウは間違いなくリチャード様のワインのブドウです。ちゃんとその気配が感じられます!」

それから何度もうん、うんと頷いてみせる。

「うむ。まさにそなたの言う通り!」リチャードも嬉しくなり同じようにして頷いた。


この女は恐ろしい女ではあるが、ことワインについてだけはリチャードと同じ思いを共有できる、信頼に足るだけの素晴らしい女であるのだと、リチャードは不思議な共感を覚えた。


リチャードとエルドラがそのようにしてひとしきりうなずき合った後、不意にエルドラが顔を伏せるようにして、その手を自らの目元へと抑えるようにした。


何事かと心配になったリチャードが見守る中、エルドラはそのままはらはらと大粒の涙をいくつも浮かべ、雫が頬を垂れるのも気にする様子もなく、静かに泣き出した。


「どうしたのだ? エルドラよ。何をそんなに涙することがあるのだ?」

リチャードが声を掛けると、エルドラはふるふると首を横に振った。

「いいえリチャード様。別に大したことはございませぬ。ただこのところ色々ございました故、どうにも心が落ち着かないようなのです。」


はあっ。リチャードはため息を一つついてみせる。


「そなたのその台詞、いい加減聞き飽きたぞ。何度も言うが私は愚かなのだ。言葉にせずとも察せよと言われても分からぬ。

何故涙するのかはっきりと口に申せ。何が色々あったのかきちんと言葉にせよ。


なんなら王命とするぞ。答えぬなら罰を与えてもいいのだぞ。」


エルドラはびっくりとした顔になりぱちぱちと何度か瞬きをして見せた。

涙をこぼすことも忘れてしまったようで、これ以上の頬を伝わる雫はなくなっていた。


「いえ、その……。はい。王命とあらば申し上げます。」エルドラはリチャードにもはっきりわかるほどに何度も大きく息を吸っては吐いてみせた。


それから脇に控える侍女に言葉をやり、護衛のものなどを室内から全て退去させる。

その上で、意を決した顔つきとなりリチャードをまっすぐに見据えてくる。

部屋の中に二人きりとなったところでエルドラが口を開いた。


「実は、ヘンリー様との逢瀬がとても辛いのです。身体を重ねようとすると吐き気がして、鳥肌が立つのです。」


なんだそれは。思わずリチャードはぽかんとなってしまう。


「わたくしはリチャード様との約束により、あと二人、彼の人との間に子をもうけねばなりません。これがどうにもしんどくなってしまい、つい先ほどは涙してしまいました。申し訳ございません。」


「いや、謝る必要はないが、それがなぜ今この場での涙につながるのだ? 愚かな私にはさっぱり要領を得ぬのだ。」


エルドラは申し訳なさそうな顔のまま、更に言葉を重ねる。


「わたくしはヘンリー様を愛しておりません。」


「ふむ。」リチャードにはよくわからない話であった。「それがどうした?」


「好きでもない男に身体をひさぎ、あまつさえ子をもうけねばならないという事を考えるに、心の奥底から嫌悪を覚えるのです。」


「エルドラよ。かつてのそなたたちは愛し合っていたのではないのか? 心の持ちようによってはいくらでもまた愛し合えるのではないか?」


「いいえリチャード様。」エルドラはゆっくりと首を横に振る。

「わたくしのヘンリー様への愛は損なわれました。かつて一度目の生でヘンリー様がリチャード様のワインを悪し様に言った瞬間に、あの方への愛情はどこかへ消え去ってしまったのです。

種火が消えたのですから、もう二度と火が付くことはございません。

わたくしはヘンリー様をもう二度と愛せぬのです。


今のわたくしがヘンリー様に覚える感情は嫌悪です。


二度目の生でも、彼の人の嫌なところばかりが目につきます。小さなことに目くじらを立て、自らより優れたところのある人に嫉妬して。


なんと卑小な人であるのかと。

何故一度目のわたくしはこんな男の事を愛していたのかと。


そう考えるとどうにも止まらないのです。」


リチャードとしては困惑するしかない。夫婦の間には余人にはあずかり知れぬ難しい問題があると聞くが、ヘンリーとエルドラの間にも長い間にこじれた何かがあるように見受けられる。


そんなリチャードの戸惑いに気付く様子もなく、エルドラが言葉を続ける。


「リチャード様のブドウの搾り汁は将来のワインを期待させる素晴らしいお味でした。リチャード様はわたくしの頼みを聞き入れ、着実にその目標へと近づいていらっしゃる。


対するわたくしはリチャード様の頼みであるにも関わらず、ヘンリー様との関係が辛くて逃げ出したいなどと考えるようになっているのです。


これはあまりに失礼な話です。リチャード様との約束を果たすことから逃げ出そうとしているのです。

そう考えてしまうと涙が止まらなくなってしまったのです。」


「そ、そうか。そなたも色々と大変なのだな。」リチャードにはよく分からない事ではあったが、とにかくエルドラが苦労しているという事だけは伝わってきた。


「あまり辛いようなら無理をせずともよいのだぞ。そなたはすでに一人お子を授かったのだから、これでお終いにしてもよいのだ。」


「なりません!」エルドラが声を張り上げた。「なりません! リチャード様! リチャード様がそのような事をおっしゃってはなりません!」

そしてエルドラがまたボロボロと目から涙をこぼし始めた。


「わたくしはリチャード様と約束をしたのです。リチャード様が素晴らしいワインをお造りになる代わりに、わたくしはこの国の次代を担う3人のお子をヘンリー様との間にもうけ育てるという、そういう約を交わしたのです。

それをわたくしが一方的な事情から違えるようでは、わたくしは胸を張ってリチャード様のワインを楽しむ資格を失ってしまいます。


必ず頼みは果たします。

ですがただ少し辛いのです。それで涙が流れてしまったのです。

大変お見苦しいところをお見せしてしまいました。お時間をいただければすぐにでも落ち着かせますゆえ、しばし中座する機会をいただけないでしょうか?」


「いや、良い。私が席を立とう。どうせすぐにでも開拓村へ戻る予定だったのだ。少し早いが私が暇しよう。」

リチャードが立ち上がろうとすると、エルドラが慌てたように手をかざし、これを押しとどめようとする素振りを見せる。

「いけません! 我が王。この宮廷はあなたのものなのです。臣たる私がリチャード様を追い返したなどといった評判が立ってはいけません! なにとぞ今しばらくこの場にいてくださいませ。」


リチャードにはよくわからない事ではあるが、どうやらこのまますぐに宮殿を出るのはよくないらしい。

まっこと宮廷というところは面倒が多くてかなわない。

リチャードは浮かせかけた腰を再び椅子へと戻す。


「しかしそうはいっても、私とそなたでは話すことも何もないぞ。元より国の事はそなたに任せっきりで私が聞いてもさっぱり分からぬ。

共通の話題はワインくらいだが、私はワイン造りについてはそなたの意見を聞くつもりはないし、よそで造られたワインの話もしたいとは思わぬ。

そもそも年に数度も会わないから、ほかにそなたの趣味も知らぬし知りたいとも思わぬ。正直私はすぐにでも村に帰りたくて仕方がないのだ。」


リチャードはわざと嫌味っぽく言ってやる。エルドラに対しこれくらいのことはいつでも言えるようになったのが、リチャードにとってはここ数年で一番の進展なのだ。

リチャードはエルドラが苦手ではあったが、以前のように虫唾が走るほどにおぞましいといった印象はだいぶ薄れてきていた。

まあ、安心したころにぶすりと後ろから刺される恐れがあるのがこの女なのだが、リチャードとしてはそこは気にしない事にしたのだ。


「申し訳ありません、我が王よ。ではこのわたくしめの馬鹿げた後悔の話でも聞いていただけませんか?」

溢れる涙もひとしきり落ち着いたのか、目元に当てるハンケチをテーブルの上に戻し、明るい声に戻ったエルドラがそう返事をしてきた。


「いいだろう。そなたの後悔、聞かせてみせよ。」リチャードは仰々しく返してやる。


くすりと笑ったエルドラが真剣な顔を作ってみせる。

「実はリチャード様。わたくしはかねてより、リチャード様がわたくしが近づくだけで鳥肌立てているのを不思議に思っていたのです。

酷いときには蕁麻疹のようなものも浮かべていらっしゃって、どういうことかと疑問に思っていたのです。


そこまで人を嫌がることがあるだろうかと。そんなことがあるのだろうかと。


それが今になって得心いたしました。わたくし、ヘンリー様がそばにいると考えるだけで鳥肌が立つのです。

ヘンリー様に抱きしめられたところが粟立って、ぷつぷつと湿疹のようなものが浮かぶこともあるのです。

それでようやっと理解いたしました。


ああ、リチャード様がわたくしに感じていたものはこれなのかと初めて心に納得したのです。


同時に後悔も致しました。わたくしはここまでリチャード様に嫌われていたのだと。

リチャード様のお心も考えずにずいぶんと不躾なお願いばかりをしてきたのだと。


ですからリチャード様。わたくしは今あなた様に対し後悔の念でいっぱいです。

今までいろいろと申し訳ございませんでした。」

そういって深々と頭を下げるエルドラ。


「止めろ馬鹿者。」リチャードはその様子に腹が立って仕方がなかった。「なんだその話は。そのような後悔を聞かされて、この私にどうしろというのだ。」


顔を上げたエルドラがぼんやりとした表情で笑ってみせた。

「馬鹿にしてくださればよいかと存じます。愚かな女と笑っていただければ幸いです。リチャード様のお嫌いなこのエルドラがもだえ苦しむところを楽しんでいただければこれに勝る喜びはありません。」


「止めろ!」リチャードはほとほと嫌気がさしてきた。いったいなんだ、この女は。どうにも正気とも思えぬ。どうやら心のどこかがおかしくなっているようにも思える。


「止めろ、馬鹿者。そもそも私はもうそなたをそこまで嫌っておらぬ。苦しむそなたを見て笑えるほどに人間を捨てた覚えもない。

そなたが辛いなら無理強いはせぬ。自愛せよ。つまらぬ意地で自分を追い込むな。

頼むから無理のない範囲で務めを果たせ。

これは王命なるぞ。」


「ああっ!」エルドラは声を上げ、そのままボロボロと泣き崩れる。


明らかに常軌を逸したその振る舞いに、リチャードは動揺してしまう。

「だれか! 誰かある! 王妃に大事ある! 誰か!」思わず声を張り上げ辺りを見回すと、入口あたりで控えていた侍女や騎士などが慌てた様子で駆け寄ってくる。


「リチャード様! リチャード様!」何やらうわごとのようにそう声を張り上げながら、その場にうずくまるエルドラ。

集まったものが声を掛けたり気付けのブランデーなどを口に含ませようとしたり、一挙に慌ただしい雰囲気となる。


一体どういうことなのか。リチャードにはまるで分からない。


気遣わし気に様子を見守る侍女頭の女性と目が合い、リチャードはこのものを呼び寄せる。


「エルドラはいつもこうなのか? どうにもずいぶんと心を痛めているようだか、いったいどうなっているのだ?」


目を伏せた侍女頭が小さく答える。


「王妃様はこのところずっと気を張りつめておいででした。それが今日リチャード様にお会いできて、心が少し緩んでしまわれたご様子です。

エルドラ様は本日の事を大変楽しみにしていらしたのです。それが心のたがを緩ませてしまったものと存じます。」


なんだそれは……。どう見ても乱心しているようにしか見えぬ。

楽しみにしていた? 気が緩んだ? 全然これは違うだろう。


「リチャード様! リチャード様!」何やら叫びつつも、側付きどもに抱えられて引きずられるように退出するエルドラ。


リチャードには恐ろしいといった印象しか残らない。いったい王宮では何が起きているのだ。エルドラや皆はどうなってしまっているのだ。


恐ろしい。恐ろしい。


ほとほと王宮というところは自分には理解の及ばぬ伏魔殿であると身に染みたリチャードは、逃げるようにしてその日のうちに辺境の開拓村への帰路へついた。



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