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ひと月の間に色々なことがあったが、ともかくリチャードは開拓村のあった場所へと辿りついていた。
本来、そこには何もないはずであった。
一度目の人生において初めて訪れた際の開拓村は、うっそうと茂る森の入口に申し訳程度の掘っ立て小屋が用意され、村人としてこれから共に暮らすべき数十名の人々と、リチャードは肩を寄せ合いしばらくは窮屈な小屋生活を続けたものだった。
二度目の生において、その場所にはすでにいくつかの屋敷が立てられていた。
土地はすでに開墾され、いくつかの場所にはブドウの苗が植えられていた。
リチャードは思わずごしごしと自らの目をこすった。
途中までの道のりは記憶の通りの景色であった。
どうにか人ひとり歩ける程度の獣道のような山道を掻き分けてたどり着いたその場所は、確かに間違いなくかつて苦楽を共にした開拓村その場所であるはずだった。
「なんだこれは……。」思わずそう呟いているうちに、屋敷の周りをうろつく使用人か何かがリチャードに気付き、指さし何かをまくし立てる声が遠くに聞こえた。
何人かがその声を聴きつけ、屋敷の周りにわらわらと人が集まってくる様子が、リチャードの立つ小山の上からも見て取れた。
それからあたりが騒然となり、しばらくして屋敷の中から一人のうら若い貴婦人と思しき女性が現れた。
リチャードには遠目に見てもすぐに分かった。
誰あろう見間違うもない、エルドラであった。
逃げる気にもなれず為されるがままに屋敷の中に通されたリチャードの前に、ニコニコと笑顔を振りまくエルドラが座っていた。
「思ったよりもお早いお着きでした。お怪我などはございませんか? お体の具合はいかがですか?」などと気遣う言葉などを掛けてくる。
知ったことか!
思わず悪態でもついてやろうかとも思ったが、そもそもリチャードとしてはもはやどういう状況かさっぱり分からぬ。狐にでもつままれたような気分である。
「ああ」だとか「うん」だとか適当な返事をしているうちに、茶が一杯用意された。
手を付けずにそのままにしているリチャードに対し、「安物ですよ? リチャード様のお好きなお味かと存じます。いかがですか?」などと勧めてくるエルドラ。
ちょうど喉が渇いていたリチャードとしてはこれを飲まぬ選択もなく、ずずっと啜ってみれば確かにえぐみと渋みのあるつまらない味がする。
ようやっとひとごごちついたリチャードがため息を一つ漏らすと、くすりと笑ったエルドラが続けて口を開く。
「ここは宮廷ではありませんから手短に事情と用件などをお伝えいたしましょう。
まずはリチャード様。一番に大切なことを申し上げますが、リチャード様は一度目の人生の記憶がおありですね?」
唖然となった。
なんと言葉を返してよいか分からぬまま、リチャードが口をパクパクとさせているうちに、エルドラが続けてこう話を進める。
「わたくしにも一度目の記憶があるのですよ。ヘンリー様と夫婦になり国を治め、齢59になるまで歳を重ねたかつての記憶が。」
ごくりと唾を飲み込む音がした。
ハッとなり我に返ってみると、それはリチャードが自ら唾を飲み込んだ音であった。
そんなリチャードの様子が面白いのか、エルドラはコロコロと笑ってみせつつも、更になおも話を続ける。
「わたくしとリチャード様、二人だけが未来の記憶をもっています。ですから、かつてのリチャード様が人生の全てを傾けた開拓村に特別な思いがある事をわたくしだけが知っておりました。
あの男爵令嬢との出会いを無下にされ飛び出したリチャード様がこの開拓村へと足をむけるであろうことを、わたくしはおおよそ想像がついていたのです。
ですから下手に追いかけず、時期を見計らって先にこの場でお待ちしていた次第なのです。
この土地は公爵家の力を使って植民を済ませ、すでにわたくし個人のものとしてあります。現王カール様より許可もいただいております。
いずれリチャード様がこの地でワイン造りに精を出される日のために、先んじてわたくしが押さえておいたのです。
勝手なことをした自覚はございますが、二度目の生で何か間違いがあってこの地を他のものに取られることが怖かったのです。
この地は正しくリチャード様のワインのために供されるべき土地であるとわたくしはそう強く期待するものだからです。
土地の様子を見るために予めいくつかの屋敷を建て一部にブドウを植えましたが、あまり大きくはいじらぬようにしていますから、リチャード様の悪いようにはしていないつもりです。
ですがわたくしはブドウ農園の細かなところはよく分からぬのです。
良ければ後で見回っていただき、余計なところがあれば指摘いただけると助かります。
なるべく前回と同じような状態でリチャード様にはワイナリーを始めていただきたいと考えているのです。」
「待て……! 待て待て! そなたは何の話をしている! いったいどういうことなのだ! 愚かな私にはさっぱり事情が呑み込めぬ!」
リチャードのこの問いに、エルドラはすぐには答えなかった。
時間をたっぷりと取ってから、「お話をしてもよいですが、長くなりますよ? よろしいのですか?」などともったいぶって聞いていた。
「よい、話せ! よいから全てをつまびらかにせよ! そなたの知っていることをすべてこの私に明かせ!」
「かしこまりました。」エルドラは一度恭しく頭を下げると、それから一気に過去のことなどを話し始めた。
正直、最初の部分についてはどうでもよい事柄ばかりであった。
リチャードが去勢され開拓村へと送られたのち、ヘンリーが王太子となり、エルドラはそのまま彼のものの妻となり、王位を継ぎ、世を治め……。
リチャードは開拓村で著しく情報の少ない生活をしていたから、エルドラが話す事柄の正否も何もはっきりとせず、いまいちぴんと来ないのだ。
せいぜいある年の飢饉があり国が傾きかけて大変だったといったあたりの話題に、ああそういえば何やら日照りが続いて大変な年があったが、意外とワインには良い年となり不思議な気分にさせられたなどといった思い出が重なる程度であった。
ともかくどうやらこの女も確かに未来の記憶があるのだ、といった程度にはリチャードが納得したところで、エルドラは自らの思い出話を早々に切り上げ、いよいよリチャードにも関心がある話題へと話が移っていった。
「……そんなある日のことでした。わたくしはリチャード様のことなどすっかり忘れた日々を過ごしておりましたが、あるきっかけからリチャード様がワイン農家としてそれなりの名声を上げ、惜しまれつつもすでにこの世を去っていらしたことを今さらながら耳にしたのです。」
「ほう?」リチャードは思わず声を上げた。
「それは妙な話だな。私は確かにワイン造りに精を出したが、名声を得たという覚えは終ぞない。それは本当に私の話なのか?」
エルドラは一瞬言葉を飲み込むそぶりをみせる。
それから少しばかり思案して、「ああ。」と大きくため息をついた。
そして、「リチャード様はご自身の名声を知らずに世を去られたのでしたね。大変に残念な事です。」などと呟いてみせた。
リチャードは思わず身を乗り出す。
「なんだそれは。私の死んだ後に何があったのだ。」
エルドラが残念な顔を作りつつ、事情を口にする。
「そもそもあの開拓村のワイナリーについては、ある大手のワイン事業者が村ごと買収をする計画があったのです。
ダッヂ商会という事業者なのですが、お心当たりはおありですか?」
「あのものどもか! しつこく何度も言い寄ってくるから毎回追い返すのに苦労したのだ! あのようなものが私の亡き後いいようにのさばったのか!」
「残念ながらその通りです。かなりあくどい商売をするものどもだったのですが、さしもの彼らも元王太子であるリチャード様がいらっしゃるうちはあまり表だって酷いことはせぬようにしていたようなのです。
それがリチャード様が亡くなられたのをいい事に、実力行使に出たという事情があったようです。」
「おのれ!」リチャードは歯噛みしたが、そもそもこれは再現するかもどうかも分からぬ一度目の未来における話であるから、なおの事リチャードにどうこうできるものでもない。
「あのものどもについては一度目の生におけるわたくしがきちんと鉄槌を下しましたから、その点はご安心くださいませ。」
ギラリと目を輝かせたエルドラが、にんまりと微笑んで見せる。
「う、うむ。」リチャードの怒りはしゅるしゅるとしぼんでしまった。
「まあ、そんな話はこの際良いのです。それでともかくワイナリーを買収したダッヂ商会でしたが、カーヴに残されたワインの出来がどれも素晴らしかったので、これを販売するのに一計を案じたのです。
かつてこの国の王太子であった男が作った極上の白ワインとして、大々的な宣伝とともに高額で売りさばいたのです。
これが大当たりしました。
リチャード様はそれで死後に名声を得て、一躍時の人となったのです。」
「知ったことか。」リチャードは鼻白んだ。だがすぐさま思い直す。「だが私達の作り上げたワインはようやっと世間に評価されたのだな? みなの努力は実を結んだのだな? 村の皆は救われたのだな?」
これぞリチャードにとって一番の大事である。村の皆とは本当にいろいろあった。彼らが良い生活を送れることこそが、リチャードにとっての一番の幸せなのだ。
「もちろんにございます。」にっこりと微笑むエルドラ。
「みなに良いように、わたくしが責任をもって差配いたしました。」
「なんと! そなたが?」リチャードにとっては驚きの一言であった。
「はい。」エルドラは大きく頷く。
「何故だ!?」リチャードには信じられなかった。何故エルドラが手を貸すのだ?
「むろん、故あってのことです。それにはまず、わたくしがリチャード様のワインを初めて口にした際の衝撃からお話しせねばなりません。
私は本当に驚いたのです。素晴らしいお味の素晴らしいワイン。
わたくしは本当に驚きましたし、とても悔しく思いましたし、大変悲しくもありまた、何より大変腹立たしかったのです。
あの時はあまりにいろんな思いが一挙に噴き出してしまい、どう説明せねば良いのかわかりませんが、とにかく雷に打たれるような衝撃を覚えたのは確かです。」
「なんだそれは……。」リチャードとしてはかえって疑問を覚えるしかない。「そなたが何を言っているのか、私にはさっぱり分からぬぞ。」
エルドラは困ったような顔になる。
「正直に申し上げまして、わたくし自身もなんと言えばよいのか分からぬでいるのです。
ですがともかく、思いつく限りをすべてお話しさせていただきたいのです。」
そんなふうに言われては、リチャードとしてはただ首を縦に振るしかない。
「やはりまず何といっても一番に感じたのは怒りでしょうか? リチャード様のお造りになったワインをあのような形で売りに出したものどもに、とにかく腹が立って仕方がありませんでした。
ダッヂ商会のものどもは酷いのです。
かの美しい白のワインは、『愚王のワイン』と名付けられていたのですよ。彼らはそんなひどいラベルを付けてあれを売りに出していたのです。
わたくしは大変な憤りを感じました。
だってそうでしょう? そもそもリチャード様が王になったことなどないのです。王太子であるうちに咎められ、継承権を失いただの平民として開拓地の開墾に携わり、苦労して育て上げたブドウから作られた見事な白ワインこそがリチャード様が残した唯一の生きた証なのです。
これをただ売り物にするのに目立つからといって、リチャード様を『愚王』などと呼び表すダッヂ商会の愚かしさにわたくしは腹が立って仕方がありませんでした。」
エルドラは眉に皺を寄せて吐き捨てるようにそう言ってみせる。
はははとリチャードは笑った。「良いではないか。名前など何でもよい。一人でも多くのものの舌を喜ばせることが出来れば、名前など何でもよいのだ。売れずに捨てなければならないワインはとても悲しいものなのだ。それに比べて『愚王のワイン』などと名付けることに何の問題があろうことか。」
「リチャード様はそれでよいかもしれませんが、わたくしには到底納得がいくものではありません。」エルドラは怒り心頭といった様子で言葉を返す。
「そこでわたくしは王妃の権力を行使しワイナリーの権利を買い取り、愚かな広告を打ったダッヂ商会のものどもをすべて首にし、リチャード様が存命の年に作られた中でも出来の良い71年、73年、最後の74年のものはすべてわたくしのものといたしました。
けれどもリチャード様。どうか愚かなわたくしを笑ってくださいませ。
これをしてもわたくしの心は晴れるどころか、沈む一方だったのです。」
リチャードは目の前で切々と語る女の顔を思わず凝視した。
74年だと!?
リチャードが死んだのは確かに74年だ。74年のワインの出来は知らないが、確かに前年の73年、それから少し前の71年はどちらも自信をもって胸を張れる出来の良いワインだった。
開拓村で明日をも知れぬ毎日を送る中で、人生はすっかり折り返し地点を過ぎ、いつ死ぬのかわからない中、初めて素晴らしいと胸を張れる出来となった71年。
翌年は冷夏が続き実りが悪く、努力はしたが残念な結果となった72年。
今年こそはと意気込み、71年以上の手ごたえがあった73年。
そして74年は……。
途中まではとても良い生育だった。2年続けて良い年が続くなどは大変珍しい。
ブドウの実りには表裏があるから、リチャードの畑は贅沢にも畑の半分を交互に捨てて、奥と手前で交互に良作になるように工夫をしている。
その上で、74年は前年を捨てた奥の畑の生育が良く、大変期待できるものであった。
だがリチャードはその完成を目にすることなく命を落とした。
だから74年のワインの出来がどうなったか知らない。
「待て! エルドラ! そなた今74年と申したな! 74年はどうだったのだ? 酸味が強くなかったか? 舌触りはどうだった? ちゃんとしっかりとした香味は立ったのか?」
リチャードは思わず身を乗り出し、エルドラに詰め寄った。
エルドラは嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「素晴らしいお味でした。繊細で柔らかく、喉に優しく味わい深い。リチャード様の生きた56年の集大成ともいえる、見事なボトルにございました。」
「そうか……!」リチャードはどっしりと腰を下ろした。感無量であった。自らの生きた証がそのような形で後世に残り、好事家達の舌を唸らせることが出来たのであればこれに勝る喜びはない。
苦心して開拓したちっぽけな村の斜面のブドウ畑が何かを成し遂げたのだ。
リチャードの一度目の生は充分に報われたものと言えたのではないだろうか。
「それは良かった。まさに我が意を得たりだ。望みうる最高の結果ではないか。今さらながら、私は大変満足している。」リチャードは眼がしらにこみ上げる熱いものを指でぬぐう。
「いいえリチャード様。」だがエルドラは首を横に振った。
「リチャード様。それではわたくしの気が晴れぬのです。わたくしがあの見事な74年のボトルを口にし一番に感じたことが、深い後悔の念となるのです。
どうか愚かなわたくしの懺悔を聞いてほしいのです。」
「なんだそれは。いいから申せ。」心残りだった74年のボトルの出来栄えの話にすっかり気の良くなったリチャードは、目の前の気持ちの悪い女に対する感情もどこかへ忘れ、楽しい気分となり声を掛けてやる。
「正直に申し上げます。リチャード様。わたくしは一度目の生であなた様の事を愛してなどおりませんでした。両親の勧めにより仕方なく決められた婚約で、何より前王様の意向がありましたから、これを断るなど考えられぬことでした。
ですからせめて、良い妻、良い母を演じられるよう、努めてまいりました。元より王族との婚姻に愛情など無用であることは承知しておりましたから、互いの役割を演じ合い、穏やかにともにある人生を歩めれば上々であろうなどと考えていたのです。」
「達観だな。まったくそなたは王妃にふさわしい。」
エルドラは首を横に振る。「いいえリチャード様。それこそ愚かなわたくしの驕りであったのだと今ならそうはっきりと申し上げることが出来ます。
人の心はそんな簡単に割り切れるものではない。
本来はもっと努力をして、お互いに理解し合うべき、少しでも愛し合うべきだったのだと存じます。
私はそのような面倒を嫌ったのです。とても分かりづらい事だったからです。
愛し合えないならばそれでよいだろうと、ただ役割を演じ合うだけでいいだろうと。
それが出来ての王族であろうと。
リチャード様が到底納得できずにいることに、私は気付いていながらも愚かな人だと見下していたのです。」
「実際私は愚かだったのだ。今でも愚かである。そなたは間違っていない。」
「いいえリチャード様。」なおもエルドラは首を横に振る。「わたくしは間違ってばかりの愚かな女なのです。
あの日、腹だしい男爵令嬢がリチャード様と懇意になり、リチャード様が『真実の愛に目覚めた』などと言い出した際、わたくしは大層腹が立ったのです。
なんと馬鹿な事を言い出す人だろうと。リチャード様の事をはっきりと悪く思ったのです。ですから、その後の婚約破棄、男爵令嬢の修道院行き、リチャード様の継承権はく奪と開拓村への流刑は胸がすく思いでした。
なにより当時ひそかにお慕い申し上げていたヘンリー様との思いがけぬ婚姻の話に舞い上がってしまいました。
そこから先は幸せな人生でした。三人のお子にも恵まれ、二人してたくさんの改革を成し遂げ、国は栄え、未来は安泰で。
愚かなわたくしはリチャード様がどう苦労なさっていたか考えもせず、ただただ幸せな毎日を享受していたのです。」
「良い事ではないか。そなたはもともとそれだけの力のある女性だったのだ。何より愛するヘンリーと結ばれたのだ。幸せを誇ればよいではないか。そなたにはその資格がある。」
だがエルドラは首を横にしか振らない。「いいえリチャード様。これはとても愚かな女の愚かな話なのです。
子供達も大きくなりそれぞれに幸せな結婚しヘンリー様とわたくしは国務を少しづつ息子とその妻へと引き渡しているさなか、ヘンリー様が面白おかしいといった様子で、ある一本のワインボトルを持ってきたのです。
それこそが『愚王のワイン』でした。
ヘンリー様はこうおっしゃいました。
――かつて王太子であった兄が田舎でワインを作っていたらしい。どうも兄はぽっくりと命を落としたそうだが、後に残ったワインが『愚王のワイン』などといったラベルを付けられて売られているらしい。
なかなか馬鹿に出来ない味らしいから、今日は一つこれを楽しんでみようじゃないか、と。
わたくしは一口味わっただけで、得も言われぬ衝撃を覚えました。
ヘンリー様は『悪くない』などといった感想でしたが、わたくしにとっては雷に打たれたような思いでした。
わたくしはずっとリチャード様の事をどこか侮っておりました。ずいぶんと下に見ていたようにも思います。けれどもワインのお味はあまりに見事で、かような飲み物をお造りになったリチャード様の生きざまはあまりに見事で。
ですからわたくしはこう思ってしまったのです。
例え賢くなくともそれなりの治世をし、手慰みにでもワイン造りにせいを出すリチャード様を支える妻であったなら、わたくしはあの見事なワインとともに生きる違った人生を歩むことが出来たのではないかと。
愚王などと死後になってから謂れのない中傷を受けるのではなく、『ワイン王』などといった愛称で親しまれるリチャード様とともに歩む未来があったのではないかと。
愚かなわたくしはそこまで夢想してしまったのです。
それでわたくしは恥ずかしくなったのです。本来わたくしが支え従うべき夫はリチャード様、あなた様ただ一人です。
そのように決められ育てられたのがわたくしです。
ですがわたくしは決まり事を反故にしてヘンリー様と結ばれ、あまつさえ幸せを享受したのです。
これは大変な背任行為です。わたくしはすべきことをせずに結ばれるべきでないものと夫婦となり、為すべきでない事を為してきたのです。
これはとても許されることではありません。」
「そんなことはないだろう。そなたとヘンリーの治世はとても良いものであった。国が乱れなかったからこそ、私も片田舎でのうのうとワイン造りなどにうつつを抜かすことが出来たのだ。
そなたたちは大変に良く国を治めた。誇ってよい事であろう。」
それでもエルドラはかたくなに首を横に振り続ける。「いいえリチャード様。これはとんでもない間違いです。
そもそもわたくしはかつてのリチャード様が、あの愚かしい男爵令嬢と二人して『真実の愛』などと口にされていた時、なんとも気持ちの悪い事をおっしゃるお二方だと気を悪く思っていました。
吐き気すら覚えたものです。
けれどもリチャード様。わたくしがヘンリー様と結ばれた際、ヘンリー様がこう言ったのです。
――僕と君との愛こそが真実の愛だ。僕達は結ばれる運命だったのだ。
わたくしも全く同じことを思いました。
ヘンリー様とわたくしが結ばれたのは運命だったのだと。これぞ真実の愛だと。
何十年も経ってヘンリー様が『愚王のワイン』を口にしてこうおっしゃいました。
――あの愚かな兄もワインを作る腕はましなものであったらしい。天は愚者にもなにがしかの才を与えるものだな、と。
わたくしはその瞬間、ヘンリー様のことがどうしようもなく醜く思えたのです。なんと愚かなことを言う人だと、気持ち悪く思ったのです。
『真実の愛』などというものが一気に覚めるような思いになったのです。
確かにあの若かりし頃のリチャード様は色々と至らないところがあったかもしれません。品行方正な人物ではなかったでしょう。
けれども、そのリチャード様があれほどまでのワインをおつくりになったのです。きちんと支えるものがいて正しく国政に向き合うことがあれば、このワイン以上の素晴らしいものを作ることも出来たかもしれないと、そう思ったのです。
あるいはまつりごとがうまくゆかなくともよいのです。それなりに善政を敷き、充分に国を富ませるやりようがあれば、王はリチャード様でも良かったのです。
わたくしはリチャード様を不当に悪く考えておりましたが、これこそがわたくしの傲慢であり、リチャード様への最大の侮辱であったとそう思い至ったのです。
そう考えてしまうともう駄目だったのです。真実の愛などと浮かれて何十年もヘンリー様を愛し、ただ盲目的に従っていたわたくしはとても気持ち悪いものだと思ってしまったのです。
わたくしは素晴らしいワインを前にしても死んだ兄を嘲り笑うことしかできないヘンリー様の事がとても気持ち悪く思え、そんなヘンリー様と同じ目線でしか世の中を見てこられなかった自らが大変気持ち悪く思え、とにかく吐き気がしてたまらなくなったのです。」
「私にはヘンリーの弁に一理あるように思えるな。私は愚かだが、ワインを作る才能だけはどうやらあったようだ。それでよいではないか。ヘンリーはとても良い事を言ったように思えるが。」
「いいえリチャード様。」エルドラは首を横に振り続ける。「これはそういった問題ではありません。
かつてのわたくしがリチャード様を侮り、リチャード様を見下しておきながら、自らもまた同じく愚かしい存在であったと何十年もあとになって気付いたことが問題なのです。
わたくしには耐えがたい事でした。
かように美しいお味のワインを作る男の事を、ずっと長い間馬鹿にしていたのです。こんな愚かしい事はありません。
わたくしは王妃としてずいぶんと色々なものを口にし、飲み干してまいりましたが、そのわたくしが衝撃を受けるほどのお味だったのです。
これを馬鹿にする人間は、たとえ自分自身であってもとても許せるものではありません。
これはわたくしの信念に関わる問題なのです。」
リチャードはこのようなエルドラの物言いになんとも不思議な感慨を覚えた。
「たかがワインで大げさな女だ。だいたい私はそなたがそんなにワイン好きだったとは初めて知ったぞ。飲み物と言えば紅茶などを嗜むような女ではなかったのか?」
エルドラはやはり首を横に振った。「外に楽しみがなかったのですよ。子育てに国政に夫の世話に外交に。他にも山ほどすることがあって、僅かな楽しみといえば仕事の合間につまむお酒や食事くらいだったのです。
中でもワインはすっかり生きがいとなり、一時期はそればかりをあおっていたこともあるくらいです。おかげでずいぶんとうるさくなってしまったのです。」
「それはずいぶんと大変な事だな。」リチャードにはそれがどれほどの忙しさであるかも想像がつかない話ではあるが、まあ苦労があったのであろうことは伺い知れた。
そんなリチャードの様子が面白いのか、エルドラはくすくすと小さな笑い声をあげる。
「ですからなおいっそうの事、リチャード様のワインはわたくしにとっては特別な驚きがございました。あまりに見事なそのボトルがわたくしに人生の大きな過ちを思い起こさせ、やり直したいと強く願うまでに至ったのです。
ですからわたくしは王家の秘術、『ときさかの魔法』に手を出したのです。」
リチャードは息を飲んだ。「ときさかの魔法」だと! 王家でも一部のものしか知らされない、秘術中の秘術だ。時間を遡り、過去をやり直す。結果として確定したはずの未来が失われ、世界はあるべき姿を変えてしまう。
この女はたった一本のワインボトルのために、自らの愛した夫であるヘンリーを、彼との間に生まれた三人の子供を見捨てたのだ。
ああそうか!
リチャードはここで初めて腑に落ちた。この女が気持ち悪いのはこういうことだったのだ。
自らの欲望のためには平然とそれまでのすべてを捨てることが出来る。
かつてリチャードの許嫁であった際のエルドラは、未来の王太子妃となる自分のために平然と自らの人間性を切り捨てて見せたし、その後リチャードが失脚するや否や平然とヘンリーへと鞍替えしてみせたし、その後ワイン狂いになったこの女は好きなワインのために平然と夫と子供を捨ててまで過去に戻ってみせたのだ。
まさに化け物!
「そなたは本当に『ときさかの魔法』を用いたのか?」震える声でそう確認の問いを投げかける。答えは一つしかないのに、凡愚なリチャードにはどうしても信じられなかったのだ。
「その通りでございます。」
分かっていたが恐ろしい答えだ。そしてこの女は嘘をついていないであろうことが、どうしようもなくリチャードには理解できた。
一度目の人生の子供のころからずっと分かっていた。
この女はそういう女だ!
「ははは。」リチャードとしては乾いた笑いしか出ない。
そんなリチャードの胸中を知らずか、エルドラがさらに言葉を紡ぐ。
「ですがリチャード様? 正直に申し上げまして、わたくしのこの魔法は失敗であったとそう感じております。と申しますのも、まさかリチャード様の魂も過去に戻っているとは、わたくしとしても思いもよらぬ事だったのです。
もともとわたくしのこの2度目の人生は、あの小賢しい男爵令嬢を適当に排除し、今となっては煩わしいヘンリー様を適当にあしらい、どうにかリチャード様と結ばれつつも、あなた様にワイン造りにせいを出してもらうよう、いかにそそのかすかといった計画だったのです。
ところがそもそものリチャード様にかつての記憶があるとは想定を超える事態でした。
リチャード様は母方の血筋の卑しいヘンリー様と違い、王家の血統を正しく引き継いでおりますから、王家の秘術を行使するに足る資格と、なにより潜在的に強い魔力をお持ちであるように見受けられます。
あるいはそもそもわたくしが『ときさかの魔法』を用いる決心をしたのは、リチャード様にもう一度お会いしたいというただその一心によるものでしたから、これがリチャード様の心をも拾い上げて逆行させてしまったのかもしれません。
わたくしとリチャード様以外には未来から魂が戻ってきたものはおりませんでしたから、これは二人だけの問題となります。
その上で、わたくしがリチャード様をうまく誘導してワイン農家の真似事をさせようにも、あなた様にも1度目の記憶が残っているがために、どうにもこれが難しい話となってしまったのです。
いえ、ただそそのかすだけならばいかようにも出来ましょうが、いかんせん今のリチャード様はこのわたくしをとても恐れているご様子。
正直、1度目の人生でのリチャード様など若いころに一時期かりそめの婚約者であった程度の殆ど関わり合いのない人物でしたから、わたくしとしてはあなた様がどのようなお人柄かまるで覚えてもいなかったのです。
ですから改めて2度目の生でお会いした時にここまで嫌われていたものかと大変驚きに思ったのです。
それでつぶさに観察しておりましたところ、それがどうやらリチャード様自身も一度目の記憶があり、それゆえなおの事わたくしを拒絶されておられるのだとは思いもよらぬ事でした。
リチャード様? あなた様はそこまでわたくしの事を憎く思っていらしたのですね。
わたくしは全く存じませんでした。
わたくしはこの期に及んでなお過ちを犯しておりました。わたくしはまさか自分がリチャード様にこうも嫌われているとは考えもしなかったのです。」
リチャードは何も返す言葉がなかった。まったくもって恐ろしいこの女は、全て自分の中で自己完結しており、リチャードが口を挟むところが一つもないのだ。
何よりも恐ろしいのは、身勝手でわがままなこの女が、それでもなお大局を見失わず、リチャードがどのように考えているか、それでどうなるのかを正確に把握していることであった。
頭の良い狂人、自己愛の強いこの化け物はこの特性を以て生きづらい世を悠々と泳いで渡ってみせるのだ。
エルドラの独白は続く。
「わたくしの計画は頓挫いたしました。わたくしはただリチャード様の生み出す美しいワインをより多く、より長く楽しみたいだけですのに、わたくしが少しでもそれを望むそぶりを見せれば、わたくしを心の底から嫌うリチャード様はそれを叶えてくださらないでしょう。
間に人を立て、自らは黒幕として関わり合うことも考えました。
けれどもそれはわたくしの矜持が許さぬ事でした。わたくしはリチャード様、あなたと一緒になってそれを為したいとそう望んでしまったのです。
美しいワインを共に味わい、より良いものを共に目指す、本来のわたくしがあなた様と得られたかもしれないもう一つの人生に、どうしても欲が出てしまったのです。
その為にわたくしは外法とも言われる『ときさかの魔法』にまで手を染めたのです。
今さら安易な妥協など考えられぬ事です。けれどもこのままではリチャード様はどう尽くしてもわたくしと望む関係になっては下さらない!
ですからわたくしは賭けに出ることにしたのです。そう、まさに今この瞬間の事です。
わたくしは今賭けているのです。
これはとても分の悪い賭けです。それでも他に思い至りませんでした。
わたくしは全てを打ち明けて、その上でリチャード様に頭を下げ、わたくしのためにもう一度あの素晴らしいワインを造っていただけないか、懇願するのです。」
すっと居住まいを正すエルドラ。よく見ればその表情はこわばり、心なしか震えているようでもあった。
それから、深々と頭を下げる。
この女がこのように人に向かって頭を下げるとは、いったいどういった気まぐれであろうか。
あるいは天変地異の前触れではないのだろうか。
女はただ頭を下げたまま、震えるような声を絞り出すようにしてこう言葉を口にする。
「どうかリチャード様。お願いですリチャード様。このエルドラをいかように悪く思ってくださってもかまいません。どのように足蹴にしてくださってもかまいません。
いかなる仕打ちにも従いますから、どうかあの素晴らしいワインをもう一度お造りいただけないでしょうか?
より素晴らしいワインのため、更なるお力を尽くしていただけませんでしょうか?
その為にわたくしが出来ることはすべて差配いたします。可能な限り、いかようなお言葉にも従うようにいたします。
あなたの不快を和らげるためならば、みすぼらしい格好でもなんでもいたしましょう。
わたくしの顔が気に入らぬのならつぶしても構いませんし、声が気に入らぬのなら喉を壊してしまってもかまいません。
ただし舌だけは駄目です。命を損ねることも受け入れられません。わたくしは生きてまたあの美しいワインを味わいたいのです。
その望みさえ叶えれば、他の全てはあなた様のおっしゃることに従います。
ですからどうか!
あなたがより優れたワインを生み出せるよう、このエルドラめの内助をお許しいただけませんでしょうか?
わたくしに出来る精一杯のお手伝いをさせていただくことをお許しいただけませんでしょうか?
わたくしは今、深くそう望むものにございます。」
より一層、深々と頭を下げるエルドラ。
リチャードはそれなりにこの女と長く付き合っている。その性格もそれなりに理解している。この女は本気で言っている。
たかがワインのためだけにここまですると言っている。
その姿はどこかちっぽけで、とても愚かしいように思えた。
とても恐ろしい女ではあるが、今のリチャードにとっては滑稽に見えた。
とても気持ちの悪い女だとは思ったが、そばにいるだけで身の毛もよだつおぞましさは感じられなくなっていた。
リチャードは言葉を投げ返してやる。
「私が嫌だと言ったら、そなたはどうするのだ?」
ゆっくりと顔を上げるエルドラ。その顔は能面のようにま白く強張っていたが、ギラギラした瞳が射貫くようにリチャードをねめつけていた。
「リチャード様がワインを造る気になるよう、ありとあらゆる手を講じます。それで叶わぬようならば、『ときさかの魔法』を使います。何度でもやり直して必ずそのようにさせてみせます。」
ああ、この女は本気でこれを言っている。文字通り、どんな手を使ってでもリチャードにワインを造らせようとしている。
この女は本気でそれをやるだけの女なのだ。
「私以外では駄目なのか? ほかにも良いワイナリーはたくさんあるだろう? 適当に優良なブドウ農園に投資して、好きなワインでもいくらでも造らせればよいではないか? その点はどうなのか?」
エルドラは改めて首を横に振る。「いいえリチャード様。それではこのわたくしの心が納得いきません。
そもそもわたくしが『愚王のワイン』に心を奪われたのは、これがリチャード様のお造りになったボトルであるというその点によるところが大きいのです。
わたくしは本来、あなた様の妻となるべくして育て上げられてきました。そのわたくしがそばにいないところであれほどのものをお造りになったというその一点が、いわれようもない屈辱感をわたくしにもたらすのです。
一度目の人生でわたくしが過ごした59年間はいったいなんであったのだろうと悔悟の念を覚えるのです。
ヘンリー様と愛し合い、いたずらにただ国政をほしいままにし、王国のためにと尽くしてきた人生が、果たして本来の私の望み通りのものであったか、はなはだ疑問に思えてしまったのです。
そもそものわたくしの最初の存在意義は、リチャード様、あなたを支えるように固く言い付かったところから始まったのです。
前王様、いえ今はまだ王であります彼の人より、息子を頼むと頭を下げ申し付けられたことよりわたくしの今生は始まったのです。」
「父王がそのような事をそなたに申していたのか。」それはリチャードの知らぬ一幕であった。
父王はよほどこの愚息が心配であったと見える。年端もいかぬこの娘に頭を下げたというのだから相当な事だ。
リチャードとしては嘆息するしかなかった。
「ですからこそリチャード様。わたくしはとても悔しく思うのです。リチャード様がかように美しいワインをお造りになったその瞬間に、なぜわたくしはその隣にいて同じ喜びを分かち合えなかったのかと。
なぜわたくしはあなた様を支えるべくおそばにいないのかと。
いったいわたくしは何をしていたのかと。
いったいわたくしは何のためにこの世に生を受けたのかと。
元来のわたくしの役割はなんであったのかと。
そう思ってしまうともうどうしようもなかったのです。
わたくしは禁術を用いて過去へと心を戻す以外に思いつくことがなかったのです。」
「まっことそなたは恐ろしい。」リチャードはため息交じりにそのようにエルドラを評してみせた。
全くため息しか出ない。結局のところ、この恐ろしい女がリチャードを標的にした以上、自分に出来ることなど何もないのだ。
この女がリチャードにワインを造れと命じるのであれば、自分は従うしか他にないのだ。
ただし少しばかりいい事もある。これが王としての務めを果たせというのであれば、リチャードとしてはまるで勝手の分からぬことであるから全力で逃げ出すことを考えていたことだろう。
しかし自分はワインを造れといわれているのだ。それならばむしろリチャードにとっての得意である。
いかようにもやれる自信があるし、一度目の生では試せなかった事、やりたかったことなど無数にある。むしろ望むところですらある。
リチャードはぽんと自らの膝を打つ。
「あい分かった。そなたの言う通りにしよう。」
ハッとした表情になり顔を上げるエルドラ。
「何をそんな驚いた顔をする。よい。そなたに私が逆らう道理もない。どのみち勝てぬ相手なら、ここはいっそ従った方がまだしもであろう。そなたの言う通りにしよう。」
リチャードはエルドラに笑ってやる。
「元より私はワイン造りさえできればその他の些事などどうでもよいのだ。そなたがそれを支えてくれるというのであれば、この際それでもかまわぬ。
むしろかえってうまくいくような気もする。
しかし王としての責務はどうするのだ? 私はそれをするつもりはこれっぽっちもないぞ?
何か適当な冤罪でもでっち上げて、以前のように流刑のようにするか? またヘンリーに国を治めさせた方が良い世の中になるであろう? そのあたりはどう考えているのだ?」
「はばかりながら申し上げます。
出来ればわたくしはこのままリチャード様との結婚をさせていただきたく考えております。その上でリチャード様には形だけの王となっていただきたく存じます。」
「ふむ。」リチャードは頷く。頭の良いエルドラの考えはどうせリチャードには分からぬ。細かいところは全てこの女に任せればよい。この女はとても恐ろしい女ではあるが、それだけに何かを任せるにはこれほど心強いものはいない。
「承知した。そなたと婚姻を結び王となろう。他にはどうすればよいのだ?」
「後は適当な理由をつけてすぐにでも楽隠居をしていただきます。すでに開拓地はわたくしが押さえておりますし、街道の整備も進んでいるところです。程なく早馬で10日もせずに王都と行き来できるようになりますから、大切な行事の為に年に数回王都に来ていただくとしても、1年のほとんどをこの地で過ごせるようにいたします。
また、ブドウ畑の管理について、経験の豊かで信頼できるものを集めております。リチャード様が畑ですぐにあれこれ始められるように、必要な人材はすぐにでも集まるでしょう。一度目よりも良い環境で始められるようにいたしますので、ずいぶんと楽をしていただけるかと存じます。
もちろん、足りないものや人、必要なことがありましたらお申しつけいただければすぐに手配いたします。詳しくは後でお話しいただくお時間をください。」
「すごいな。さすがはエルドラだ。そこまで準備が整っているとは見事である。」
「恐れ入ります。」深々と頭を下げるエルドラ。
たっぷりと十秒以上もそうしてからゆっくりと顔を上げ、それからこう話を切り出してきた。
「それでリチャード様。リチャード様からわたくしへの罰はいかがいたしましょう?」
「罰だと?」思わずびっくりとした声になるリチャード。
「なぜ罰などと言った話が出てくる? どういう話の流れなのだ?」
「リチャード様はわたくしの事をあまり良くは思っておられませんでしょう? わたくしのようなはした女に良いようにされ、次代の王たるリチャード様が従わされるようなことがあっては、本来これは到底許されることではありません。
わたくしはリチャード様の臣にございますから、無理を言うには相応の対価が必要にございましょう?
なによりリチャード様はこのわたくしに対し思うところもございましょう。わたくしは可能な限りどのような言いつけにも従う覚悟がございます。
どうかこの哀れな女にお申し付けください。
痛めつけるのでも、酷いことを命ずるのでもなんでもかまいません。どうかお気の晴れるよう好きにおっしゃってください。」
「ふむ。」リチャードは少しばかり考えを巡らせてみる。確かに一方的にこの女に言われるがまま、ただワインを造るだけというのは少々面白くない気持ちはある。
とはいえ、この傑物に自らが何か酷い事を命じたところで、却って話がおかしくなるだけであるように思われる。
であるならば、ここは唯々諾々と従うのみであるがよいように思われる。
だが何か気がかりがあるのだ。はっきりと言葉にすることは出来ないが、どうにもこのままでは良くないと思えることがあるのだ。
頭の悪いリチャードにはそれが何であるかはっきりとはしなかったが、とにかく何かある。
もやもやとした気持ちを晴らすべく、知恵ものの力を借りることにする。なにこれはとても簡単な事なのだ。
目の前にいるこの女こそがリチャードが知り得る限り一番の智者であるのだから、このものに尋ねてしまえばいい。
「別にそなたに何かしたいとは思わぬ。ただ、どうにも心に気になることがある。何か納得がいかぬことがあるのだ。ただし愚かな私には言葉としてそれが思い浮かばぬ。そなたはこの私が何を気にしているか、想像がつくか?」
エルドラは少しばかり考え込む素振りを見せる。「リチャード様の気がかりにございますか。何か一度目の生でやり残したことなどありましたでしょうか? ワインの事であれば今からでも色々と出来ましょうが、それ以外の事で思い残したことがございましたでしょうか?」
「ふうむ。」リチャードはかつての生に思いを巡らす。この漠然とした不安は一度目の生からくるものであろうか。
「特に私自身に思い残すことはないな。そなたの言うようにワインの事ではむしろ試したいことが山のようにあるが、それはこれからいくらでも機会があるだろうから、むしろこれは楽しみとしか思えん。
しかしそうだな。強いて言うのならばあれほど見事な治世を誇ったそなたとヘンリーの世が損なわれてしまったことは勿体なく思うな。
今さらながらもう一度ヘンリーと夫婦になることは出来ぬのか? 私を王に据えるにしても妻となるものは別に用立てし、そなたはヘンリーと一つになりアレを宰相などに引き立てて、そなたとヘンリーで国を治めることは出来ないのか?」
エルドラは首を横に振る。
「恐れながら申し上げます。わたくしがヘンリー様と一つになってしまっては、わたくしがリチャード様の内助を務めることが出来なくなるのです。
あの方は公正公明な人物にはございますが、とかく兄であるリチャード様については心穏やかにはいられないのです。
わたくしがあの方と夫婦になってしまっては、あの方はわたくしのリチャード様に対する少しの援助も許さないでしょう。
あの方はリチャード様に対してだけはとても狭量な小人となるのです。
むろんあの方にはなにか立場を与えうまく使う心積もりはございますし、それで一度目に劣らぬ治世をする算段はつけております。
その上でわたくしがリチャード様のワイン造りをお手伝いするに、あなた様に王になっていただきわたくしがその妻となる事が一番収まりがいいのです。
愚かなわたくしめにはそのような方法でしかうまくまとめる知恵が思い浮かびませんでした。」
「そうか。賢人たるそなたがそういうのであれば、そのようにするのが一番であるのだろうな。その点は分かった。
しかし子供はどうなのだ? そなたとヘンリーの間にもうけた三人のお子だ。
ヘンリーとそなたの間には二人の息子と一人の娘がいたな。思慮深くも力強い決断のできる王の器に足る第一王子、文武に長け戦働きから宮廷政治まであらゆる場面を補佐する有能な第二王子、美しくも聡明で社交、外交に活躍し、国民に愛される第一王女、いずれも未来の我が国を支える素晴らしい人材であったと聞く。かような三人が失われてしまったことは重大な国の損失であったように思える。
あれについては大変に勿体ない事をしたように思う。何とかならんのか?」
「何とか……、とおっしゃいますと?」
エルドラがきょとんとした顔になる。良く分からぬ、といった様子に見える。
この世の全てを見通すだけの力のあるこの女でもこのような顔になる事があるのかと、リチャードは楽しい気分になる。
「そうだな。例えばそう、もう一度そなたはヘンリーとの間に子をもうけるようなことは出来ないのか?」
口に出して腑に落ちた。リチャードの心配は未来への心配だったのだ。
仮初の王たるリチャードに先のことなどまるで見通すことはかなわぬ。どうすればよいかも分からぬ。
未来を誰に託せばよいかもわからぬ。
目の前にいるエルドラに託せばよい事は間違いないが、更にその先のこととなるとエルドラ以外にも託せるものがいなければならぬ。
なればそれは、ヘンリーとエルドラの間の子供に託すことが一番理にかなっているように思える。
「わたくしとヘンリー様の間に、お子を……ですか……?」
エルドラは首を傾げるようにしてじっとこちらを見つめ返してくるばかりである。
「そうとも。」リチャードはしたり顔で大きく頷いてみせる。
「よし決めた。
そなたはまたヘンリーとの間に3人の子をもうけよ。
私のような愚か者がそなたと交わってもろくな子供が生まれるとも思えぬが、そなたとヘンリーの間にはいくらでも優秀なものが出来るように思えてならん。
かの失われた未来における三人のお子についてはたいへん惜しいが、改めて三人ほども子をもうければ、きっとそれらも立派なものとなるような気がしてならん。
なに、対外的には私の子供という事にしてしまえばよい。宮廷の皆にはすぐにばれる嘘ではあるが、この私が愚王を演じればみな納得するであろう。
愚王の子供を残すわけにいかないから優秀なヘンリーとの間にひそかに関係を持った、まあそんなふうにして、そのあたりはそなたがうまくやれば良い。
エルドラよ。そなたには私はこう願おう。
未来に生まれるはずであった三人の子供の代わりに、そなたは改めてヘンリーと結ばれ子を三人もうけよ。そして次代の国を支える子へと育ててみせよ。
それがこの国の未来にとって一番良い選択に思える。
これが私がそなたに望む唯一の願いとしよう。
代わりに私はそなたの願いを聞き届け、そなたの望むワインを造ってみせよう。
どうだ?」
リチャードとしてはこれは軽い願いのつもりであった。
そもそもヘンリーとエルドラは愛し合っていたのである。
頼まれてもいないのに子を三人ももうける程に愛し合っていたのである。
そして何より、美男美女でともに賢く、国を治めるに足る王の器を持ちうる二人である。
どうしてエルドラがヘンリーや三人の子供を捨ててまで過去に戻ってきたのかよくわからぬが、出来ればもう一度同じように愛し合うことが二人にとっても国にとってもよい事に違いない。
だからこそこれは、エルドラに対し気持ち悪さと恐ろしさしか感じえない己が出来る唯一の恩情であるとそう考え、リチャードはこう願いを口にしたのである。
対するエルドラはこの世の終わりのような顔となった。
それから震える声でこう言った。
「か……かしこまりました。王の御心のままにいたします。」
そうして深々と頭を下げた。
それから無理に明るい声色などをつくって聞いてくる。
「リチャード様はわたくしとの間に子をもうけようというお考えはありませんか? リチャード様がわたくしを快く思っていないのは承知しておりますが、王としての責務を果たすべきといったお考えはござませんか?」
「王としての責務!」びっくりとなったリチャードが声を上げる。「勘弁してくれ! 私は自分が王の器ではない事をよく理解しているつもりだ。そういった責務がうんざりだったから、一度目の生でも王太子教育やそなたの相手をするのを逃げ回っていたのだ。
二度目の生だって、私はワインを造るのに必要だとそなたが言うから仕方なく王の肩書だけ背負うのだ。子を作れなどと言われてはワインは出来ぬぞ? そのような約束をそなたと交わした覚えはないのだからな。」
「失礼いたしました。過ぎた言葉にございました。」重ねて深々と頭を下げるエルドラ。
だが更にも食い下がるようにして質問を重ねてくる。
「女についてはいかがいたしますか? わたくし以外でも誰か、女のない生活は寂しいものがあるようでしたら用意いたします。」
「結構だ。そなたが用意した女などと言われてはそれだけで気が滅入る。そうでなくとも私は自ら自身が子をもうけようとはとても思えぬ。この出来損ないの愚物が未来に子を為すことは王家に対する冒涜だとすら考えているのでな。
……そうだ!」
ここでリチャードはすっかり忘れていた事を思い出す。
「一度目の生では私は去勢手術を受けていたではないか! あれのおかげで余計な事を考えずに済むようになったのだ。今となってはずいぶん前の話であったからすっかり忘れておったわ。全くだから私は愚かなのだ。
私はワイン造りに全てを賭けたい。是非あの施術をまた願いたい。
エルドラ。準備出来るな? 早急に手配せよ。」
エルドラは再びぽかんと口を開け、しばしの間動かなくなった。
「どうしたのだ? エルドラ。そう難しい施術でもないだろう? 口の堅い医者もいるのであろう? 手配出来ぬ理由でもあるのか?」
「……いえ。かしこまりました。早急に手配いたします。」
ようよう、といったていでぼそぼそとそう返事をするエルドラ。
リチャードにはよくわからない事ではあったが、何故だかエルドラは泣いているように見えた。
「まったくどうしたのだ、エルドラよ。」リチャードは心配になって声を掛ける。
「今日のそなたはいろいろとらしくないぞ? 不遜にも大仰に構えてあれこれを差配する王妃としての貫禄はどこへ行ったのだ。私はヘンリーと違って愚かなのだ。そなたが困っていても何の手助けも出来ぬ。
せめてそなたの心が安らかになるよう願うことしかできぬ。
どうか気を取り直してくれ。
私にできるせめてもの手慰みは少しでもましなワインを造る事くらいだが、その点については引き受けた。
そなたが私を信用しきれない気持ちについては分からぬでもないが、私は造ると決めたのだ。
頼むからその点についてだけは認めてほしい。
私がお前に出来ることなどそれくらいしかないのだから、その点だけは信じてもらわねば話が進まぬぞ?」
「はい。信じております。」肩を震わせつつもそう返事をするエルドラ。
全く今日のエルドラはらしくない。
「こちらこそ、私はそなたを全面的に信じているぞ。そなたは私にとって恐ろしい女ではあるが、同時に全幅の信頼を置くに足る優秀な人物であると承知している。なに、1度目の56年の人生の中で、そなたがヘンリーとともに築き上げた賢世を良く知るものであるからな。
そなたに任せれば間違いはない。全てよろしくやってくれ。頼むぞ。」
リチャードはそういって、エルドラに深々と頭を下げた。
こうしてリチャードは仮初の王を目指すこととなった。
どうやら本気で『愚王のワイン』などといったものを造ることになりそうだと、今のリチャードには期待と興奮しかなかった。




