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3.

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翌週の茶の席において、ろくに化粧もせず街娘のような粗末な衣装を身に付けてやってきたエルドラに、リチャードは奇妙な感情を覚えた。

元の素材が良すぎるため美しさは微塵も損なわれていないが、少なくともあの気持ち悪いエルドラ専用の香水の匂いなどはなく、市井で売られている安物の石鹸の香りが妙に懐かしく心地よかった。


「いかがでしょうか? 敢えてこのような格好をしてみたのですが、これならば少しはリチャード様の嫌悪感もまぎれませんでしょうか?」

言いつつ近づいてくるエルドラ。


ぼんやりとその様子を眺めるばかりだったリチャードが気付かぬうちに、エルドラはその顔がリチャードにくっつくほどにそばへと近づいていた。


「ヒッ!」リチャードは後ろに後ずさる。


エルドラがくすりと笑ってみせる。

「さすがに近づきすぎれば拒絶なさいますね。けれどもこの格好ならば多少近くてもお心は穏やかでいられるのではありませんか? いかがでしょう?」


「う、うむ。そうだな。確かに多少は近くとも気にはならんな。」どうにか心を落ち着かせたリチャードがようようそう返事をする。


満足した顔のエルドラは脇に控えた侍女に命じると、テーブルの上に茶の用意が進められ、リチャードの手元のカップにも紅茶が注がれる。


リチャードはしまったと小さな後悔を覚える。毎週の事であれば事前に茶葉の産地であるとか茶請けの菓子との相性であるとか、そういった知識を叩き込まれているはずが、今日は何の準備も出来ておらぬ。


いや、そもそも準備すべきナザリー夫人はエルドラの手によって暇に出されてしまったのだ。これではそもそも勉強をする機会すらないのは当然だ。


どうすればよいのだ。


思わず流れ落ちる冷や汗をぬぐう事も出来ず、ただただその場に動けなくなるリチャード。

そんなリチャードの様子を見てくすりと笑ってみせるエルドラ。その笑顔がまたリチャードの心を寒い気持ちにさせる。慌てる様子のリチャードを見て、きっと内心は呆れているのに違いないのだ。


「リチャード様? 今日のお茶は少しいつものと違うのです。お飲みいただければ分かるかと存じます。どうか少しだけでも口に含んでいただけないでしょうか?」


「そ、そうか。うむ。」どうにか首を縦に振り、カップを手に取るリチャード。恐る恐るその端に口をつけ、少しだけ舌に乗せて味を見てみる。


びっくりした。


とても安っぽい味がした。

えぐみが強く、渋くもある。おまけにどこか薄い。安い茶葉をいい加減に抽出したらこうなるだろうといった実に安っぽいお味である。


そしてどこか懐かしい味がした。


ああ、そうだ。これは開拓村で味わった思い出の紅茶の味だ。


あれは村を興して10年も経った頃だったろうか。ワインをはじめとするいくつかの農作物がようやっと軌道に乗り、閑散とした田舎の開拓村に上昇の機運が訪れた頃、村を訪れる行商のものが多少はましなものを持ってくるようになったのだが、その中に含まれていたのが安い紅茶の茶葉であった。


男衆はみな蒸留した強い酒などを欲しがったが、女達が喜ぶのがこういったものであった。

そこで男衆は一計を案じ、いつも苦労を掛けているおかみさん連中のために皆で銅貨を出し合い、僅かばかりの茶葉を買い求めて村を挙げての茶会の用にした。


安っぽいその味にリチャードは一瞬気まずい思いをしたものだが、嬉しそうにそれを飲む村の女達の顔が目に入り、これはこれでいいものだと思い直したものである。


すっかり懐かしくなって目を細めるリチャードにエルドラが声を掛けてくる。


「もしやこのようなもののほうがリチャード様のお心にそぐうのではないかと思い用意させたのですが、いかがでしたでしょうか?」


「ああ。」リチャードは万感の思いを胸に首を縦に振る。「悪くない。」


そんなリチャードの様子を目にしたエルドラが嬉しそうにほころぶような笑顔をみせる。

「産地などを聞かれてもわたくしにも分かりかねます。これはそういったものを楽しむ飲み物ではございませんから。」


「確かに。」リチャードがカップに浮かぶ薄い紅茶の色を前に何度も頷いていると、エルドラが控えのものに指示を出し、何やら大仰な書物を持ってこさせる。


そして、リチャードを前にしてこれを広げてみせ、熱心な様子で目を通し始める。


少し読み進めたところでチラリと顔を上げ、こう口を開く。

「リチャード様? わたくしは王妃教育のための勉強に遅れているところがあるので、この時間を借りて少し勉強をしようかと存じます。

リチャード様もわたくしと無理に会話をする努力などせぬでもよいのですから、決められた数時間の間、お好きなようになさってくださいませ。

むろん、決まり事ですからお互いこの場を離れるわけにはまいりませぬが、この場にとどまる限りは好きになさったらよいのです。」

エルドラはこのように事情を説明してみせてから、再び手にした書物に目を落とす。


ふむ。リチャードは少しばかり考えを巡らせる。

どうやらこれもエルドラによる工夫の一つらしい。確かに無理にしゃべらなくてよいならばかなり気は楽である。


リチャードがあたりを見回してみると、リチャードのお付きのものどもが苦虫を噛みつぶしたような顔をしているところが目に入った。

どうやら未来の王妃との大切な茶の席がこのようないい加減なものであることが納得いかないらしい。

しかし、こういった場合に非難を上げる急先鋒であるナザリー夫人がいなくなってしまったから、エルドラのこの差配に誰も声を上げることが出来ぬようだ。


なるほどとリチャードは得心した。ナザリー夫人を排除したのは恐らく毎週の茶の時間をこのようにするための布石であったのに違いない。

エルドラが格式ばった茶の席を取りやめるに当たり、あの夫人が邪魔になることを見越して先に追い出したのであろう。


エルドラはそういったことが出来る女なのだ。

敵に回すと恐ろしい女ではあるが、こういった場合には心強い娘なのだ。


事情の呑み込めたリチャードはふと気になり、エルドラに声を掛ける。

「そなたはいったい何を読んでいるのだ?」


問われて再び顔を上げたエルドラが返事をする。

「寒村などに合う休耕作物の研究報告書です。土壌を良くするためのマメ科の植物などの資料になります。」

それから、「ご興味がおありですか?」などと言いながら、チラリとこちらを見てくる。


正直興味はあった。そういった知識が一度目の生の時に備わっていれば、自分はもっとあの開拓村でうまくやれたのではないかとそう思えるからだ。


けれどもリチャードは自分の分というものについても弁えているつもりでもあった。難しい事は頭の良いものに任せておけばよい。まさにエルドラなどはうってつけで、彼女が学ぶのであれば国を富ます万策の礎となるだろう。


「いや、私にはよく分からぬことである。邪魔して悪かった。気にせず勉学を続けてくれ。」

「かしこまりました。」心なしかしゅんっとなったエルドラが、再び手にした書物を開く。


リチャードは茶のおかわりを求めると、2杯目のそれに口をつけた。

なんとも懐かしい味。なんとも懐かしい我が開拓村の思い出。


リチャードの心はどうしようもなく羽ばたき、いずれ来る追放ののちの村での日々を懐かしんだ。


窓の向こうに広がる王宮の庭の木々の上、雲のかかった青空はかつての村で見上げたものと変わらぬ色を湛えている。


いずれあの日々がもう一度訪れる。今は我慢だ。

リチャードは久々に心の底からくつろいでいる自分に気が付いた。


まったくエルドラという女は大した女である。かように見事な差配でもって、リチャードの気を紛らわせる工夫をしてくれる。


惜しむらくはリチャード自身がこの女の事を良く思えないので、どうしても距離を置く付き合いとなってしまうが、そこはまあ仕方がない。


これほどの気遣いが出来る女であれば相性の良いヘンリーなどと一つになる未来は薔薇色であろう。


それまでの間、仮初の婚約者としてどうにか付き合う体裁が整ってきたので、リチャードとしてはほっと胸をなでおろす次第であった。



ところがこれに納得がいかなかったようなのが、まさかの異母弟、ヘンリーであった。


何度かエルドラと茶の席を重ねたある日、ヘンリーが乗り込んできたのである。


ぼんやりと空を眺め安い紅茶に心を落ちかせるリチャードと、だんだんとみすぼらしい姿が板についてきて、今日は何やらせっせと書き物を綴っているエルドラの前に現れたヘンリーは、開口一番リチャードを糾弾した。


「兄上! 兄上はエルドラに何たる格好をさせているのです! まるで下女のような姿をさせて、何やら仕事のようなものまで押し付けて! なんと嘆かわしい! 未来の王妃たるエルドラになんてことを!」


リチャードとしては何のことかさっぱり分からぬ。

思わず言葉も失い目をぱちくりとさせていると、エルドラが顔を上げじろりとヘンリーを睨みつけた。


「失礼ですがヘンリー様、この席は王太子たるリチャード様のお招きにないよらものは決して立ち入ってはならぬ特別な時間です。

いったいヘンリー様はどなたの許可を得てこの場に来たのです?

だれがあなたに許したのです? そのものの名を言いなさい。捕らえて罰せねばなりません。

誰があなたにここに来てよいと許したのです?

誰なのです?」


「なっ!」ヘンリーは言葉を失う。それからもごもごと口を動かしてから、

「それは、その。そなたが虐げられていると耳にして、わたしが自らの意思でこの場に赴いたのです。誰の許しという事はございません。」

どうにかしどろもどろになってそう言葉を返す。


「笑止!」エルドラが鋭く声を上げる。

「なればヘンリー様、わたくしはあなたを罰せねばなりません。王太子の許嫁としてわたくしにはあなたを咎める責務があります。まずは早々に立ち去りなさい。その上で鞭を受ける覚悟をなさい。」


なにやら厳しい言葉でヘンリーを追及するエルドラ。いったいこれはどうしたことだ。

この二人は幼き頃からひそかに心を通わせていたのではないのか? ヘンリーがエルドラに気があるからこう乗り込んできた事情は窺い知れるが、対するエルドラの対応はあまりにも辛辣ではないか。

よもや王太子たる自分の前であるので恩情を見せられぬという事なのか?


これはいけない。リチャードは慌てて二人の間に割って入る。


まずはエルドラへと声を掛ける。

「まあ待て、エルドラよ。確かにヘンリーは招かれた客ではないかもしれぬが、そなたの事を思っての行動だ。咎める必要はないであろう。」


エルドラは眉を顰めるが、ともかく口を閉ざした。


それからヘンリーへと話を振る。

「ヘンリーよ。エルドラのこのような格好と振る舞いについては理由があるのだ。どうか事情を察して見逃してはもらえぬだろうか?」

リチャードがそう言ってかるく頭を下げると、エルドラが声を上げる。

「リチャード様がヘンリー様に頭を下げるなどと!」


リチャードはそんなエルドラをたしなめるように言う。

「落ち着けエルドラ。ここは私とヘンリーに話をさせてくれ。」

それから改めてヘンリーの方を向き、言葉を続ける。

「エルドラのこれはすべて私を慮ってのことなのだ。私はその、着飾ったエルドラの事をあまり良く思えないのでな。まあこのようなみすぼらしい格好でもさせておけばまだしも心が晴れやかな気分でいられるのだ。

それで無理を言ってこのような格好をさせているのだ。


まあ、おおよそ男子たるものが婦女にしてよい仕打ちとも思えぬが、私という男はこういうものなのだ。馬鹿な王太子と笑うがよい。

これが私のやりようなのだ。」


「滅茶苦茶です!」ヘンリーが声を上げる。「兄上はエルドラをなんだと思っているのです! エルドラは兄上のおもちゃではありませぬ! 一人の女性なのですよ! いくら兄上が未来の王であっても、なればこそ王として身に付けるべき気遣いというものがおありでしょう!」


まったくヘンリーの言葉は正しい。リチャードもヘンリーのいう事は尤もだと思う。なればこそリチャードは喜んで愚かな王太子を演ずることが出来る。

嬉しくなったリチャードはにんまりと笑いながら返事をしてやる。


「何を言うヘンリーよ。エルドラは私のおもちゃだ。王太子たるこの私に与えられたよくできた人形なのだ。未来の王たる私の力を誇示するための飾り物の一つなのだ。

それをこの私がどう取り扱おうとそなたには関係のない話だ。何を下らぬ事を言っているか。貴様はそんなことも知らぬのか。」


「なっ!」ヘンリーは声をあげ、それから絶句した。

ぱくぱくと口を開け閉めするだけになったヘンリーの顔がことさらおかしく、リチャードは笑い出す。

「ははは。全くわが異母弟殿は教育がなっていないようだ。なあエルドラよ。そなたは王太子たるわたしのおもちゃであろう? そうであろう?」


「仰せの通りにございます、未来の我が王よ。」エルドラが静々と頭を下げる。


リチャードは大きく頷くと、周りをぐるりと見渡してみる。

周りのお付きのものどもも状況の異様さに声も出せぬのか、みな固まったようになってこの状況を見つめるばかりである。

リチャードは不思議な満足感を覚え、もう一度大きく頷いた。


「さて、よい茶番であったぞヘンリーよ。私は充分に楽しめたからそなたはこれで退出するがよい。


なに、そなたにも言い分があろうが私は聞く耳を持たぬ。これ以上そなたの言を聞きたいとも思わぬ。これ以上の発言を許さぬから、黙って去ね。

悔しければおのが信ずるところの王についてもう少し考え、いずれ自らがそうなれるよう努めてみせよ。


存外そなたの言う王が正しいのかもしれぬな。私には関係のない事だがな。まあ、そのあたりはそなたはそなたで好きなものを目指せばよい。邪魔だてはせぬ。


だが今は邪魔だ。おもちゃたるエルドラとの茶の席にこれ以上お前は必要ないから、すぐに退出せよ。」


だがヘンリーは微動だにしなかった。動かぬまま、その場にじっと立ち竦むばかりであった。


リチャードはチラリとエルドラの様子を横目に見る。エルドラは眉をひそめじっとヘンリーを睨みつけている。

リチャードは改めてヘンリーを見る。ヘンリーは何やら化け物でも見るような目つきでリチャード達の方を見やるばかりである。


リチャードは小さくため息を漏らす。それから周囲のものに声を掛ける。

「ヘンリー王子は王太子たるこの私の言に従わぬ様子だ。不愉快である。誰かこのものをつまみ出せ。」


これを聞き、慌てた様子で駆け寄ってくる警護の者たち。

ヘンリーは彼らが伸ばす手を振り払うようにして、何も言わず踵を返し退出した。


その後ろ姿は怒りに震えているように見えた。よしよしとリチャードは心の中で何度も頷く。

ここまではっきりと敵愾心を煽ってやれば、将来リチャードが断罪された後、ヘンリーはエルドラと手を取り合いうまくやってくれることであろう。


僅かな不安といえば、先ほどのエルドラはリチャードと結託してヘンリーを責め立てているようであり、これにヘンリーが傷ついていないかといった心配であったが、まあそのあたりは機を見るに敏なエルドラの事だ。未来において風向きが変わりヘンリーが次王として立つことになれば、うまくなびいてみせてちゃんと彼と結ばれることであろう。


なによりリチャードにとってエルドラの事はよく分からぬのだ。エルドラについてはあまり心配しても詮無い事である。

これ以上は考えぬ事にする。


リチャードが改めてエルドラの方へ顔を向けると、化粧っ気のない村娘のような格好をしたエルドラがこちらをじっと見つめているのと目があった。


いずれ王国一の美姫と称賛をほしいままにする美しい容姿は幼い今の時分にあってもその片鱗がすでに際立っており、かようなみすぼらしい姿にあっても僅かばかりも損なわれることはなく、むしろ却ってその可憐さを引き立てていっそう見事ですらあった。


相手がエルドラであると考えなければ、このような美しい女を許嫁に迎える自分はさぞかし羨ましい身分であるのだろうと、リチャードは奇妙な感慨を覚える。


ヘンリーの言わんとすることもよく分かる。この女は着飾ることでさらに化ける。誰もがうらやむ極上の美姫となる。すでにその資格を十二分に持ち合わせている。

それをリチャードの勝手でこのような格好をさせることにより、美しいものが好きな宮廷の人々の気分を害する事態になっているのはここしばらくの間の紛れもない事実なのだ。


「ふむ。」リチャードは思い立ち、考えを口にする。

「しかし言われてみれば、そなたの格好があまりひどいと、外聞がよろしくないことも事実であるな。」


エルドラはその大きな瞳をぱちくりと一つ瞬きしてみせた。

飾り立てずとも自然に備わった彼女の長い睫毛が可愛らしくもふるふると震える。

その様子にリチャードは決心がついた。


「よし決めた。やはりそなたは着飾るのがよいだろう。未来の王太子妃にふさわしい装いをせよ。茶の席も元のものへと戻せ。

次の席からはそなたがいかに美しい女であるかを内外に示す装いをせよ。

王太子の許嫁としてふさわしい茶の席をみなに示してみせよ。

よいな?」


エルドラがぽかんとした顔になる。


「どうした? エルドラよ。返事をせよ。」


エルドラは恐る恐るといった様子になり、不安げな顔でリチャードに言葉を返す。

「お言葉ながらリチャード様。それではリチャード様がわたくしに嫌な思いをなさいませんか?

わたくしの容姿に不快な思いをされていたのはリチャード様です。

その点については問題ございませんか?」


「なに。私の問題など些細な事だ。王太子たる私が連れ歩く女が美しくなくては周りのものに示しがつかんだろう。

それを思えば私の事などどうでもいいのだ。


ともかく次からそなたはきちんとした格好をするのだ。

よいな?」


エルドラはなおも食い下がろうとしたがリチャードがじろりと睨みつけてやると口を閉ざす。

代わりに深々と頭を下げ、「未来の王の仰せのままに。」と小さく返事をしてみせた。



翌週のエルドラの見事な装いと吐き気を催す気持ち悪い香水の匂いに、リチャードは思わず後ずさった。


やはりリチャードはこの女のことが嫌なのだと、今更ながら再確認させられた。


そんなリチャードの様子を見たエルドラが、ぐいっと一歩足を前に出し近づいてくる。


「ひっ!」思わず小さく悲鳴を上げてしまうリチャード。

エルドラは素早く一歩、後ずさってみせた。


「リチャード様? 大丈夫ですか?」心配そうな声色でそう尋ねてくるエルドラの美しい顔を見た瞬間に、リチャードの全身の産毛が逆立つ。


ああ! 駄目だ! やはり私にはこの女は駄目だ!

美しい顔をゆがませて、何をそんなに気遣うような顔をしてみせるのだ! どうしてお前がこの私を気に留めるような素振りを見せるのだ!

本当のお前は私のことなどなんとも思っていないではないか! ただ決められた約束のためだけに婚約者のふりなどを演じてみせているだけではないか!


リチャードはこみ上げる胃液を無理やり飲み込むと、どうにか言葉を返す。


「だ、大丈夫だ。良いから茶の準備をせよ。この茶の席は未来の王太子と王太子妃の仲を見せるための公務のようなものなのだから、早う手配せよ。」


「かしこまりました。」恭しくこうべを垂れ、お付きのものに準備を進めさせるエルドラ。


程なく出された紅茶の味は上品で整ったもので、リチャードにはその良さなどさっぱり分からなかった。


ペラペラとエルドラが産地だのお味だのあれこれだのを語り出す。

リチャードとしてはただただ頷く以外にすることはない。


それからもエルドラは次々と話題を変え、2時間近くもの間リチャードは延々と様々な話につき合わされた。

全ての話題において、中身についてはさっぱり頭に入ってこなかった。リチャードはただ頷く以外にすることはなかった。


こうして地獄の茶会は元通りとなり、リチャードにとって胃の痛い毎週が再び続くこととなった。



だがこれでよいのだ。そもそもエルドラの余計な差配によってつまらぬ工夫をしたところで、どうせリチャードにとって良いことなど一つもないのだ。


もともとエルドラなどという立派な女はリチャードにはおおよそ縁のない女であって、こうしてかかわりを持たねばならぬ今の間は、周囲が喜ぶようにしておけば余計な騒ぎが起きなくて一番なのだ。


その為にリチャードが一人我慢するくらいの事は致し方のない事なのだ。


2度目の生において若くとも老成したリチャードは物覚えが悪くなったり計算が苦手になったりとあちこちポンコツになった自覚があるが、以前に比べずいぶんと我慢強くなったことだけは今の自分の数少ない美点であろうと胸を張れる。


いくらでも我慢してみせよう。

それがこの王太子の出来損ないの責務であれば受け入れよう。

リチャードは誰も見ていぬところでひとり大きく頷いた。



第二王子である異母弟ヘンリーはさすがに二度と茶の席に乗り込んでくることはなかったが、エルドラと二人で庭などを散策するような面倒ごとをこなすなかで、一度だけ、彼が柱の陰からじっとこちらをねめつける姿を目にする機会があった。


隣に立つエルドラは眉をひそめて見せたが、リチャードとしてはおかしみに笑いがこぼれるばかりであった。


「いかがされましたか? リチャード様。」エルドラがそんなリチャードを訝しがって話しかけてきたが、リチャードはこれには答えなかった。

答えなかったが心の中でこう答えた。


――そう恨めしい顔をせずとも、あと少しでヘンリーとエルドラは結ばれるのだ。もう少しなのだから、そなたたちも少しくらいは私のように我慢せい。


心で答えたその内容がおかしくて、リチャードは一人でくっくっと笑い出した。


ますます怪訝な顔になるエルドラの表情が面白くて、遠目に映るヘンリーの悔し気な顔がおかしくて、ひとしきりリチャードは笑い続けた。


辛いばかりの毎日の中で、こんなことくらいがリチャードの唯一の楽しみであった。



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