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1.

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リチャードは吐き気を堪えながらお茶会とやらに挑んでいる。


週に一度の地獄の2時間は、婚約者である公爵令嬢エルドラを前にその日の茶葉の話などを適当に口にすることで始まる。


「適当」などと言ったが適当に答えているのは目の前のエルドラだけで、リチャードはこの日のためだけに前もって茶の産地やら味の特徴、ケーキとの相性などを頭に叩き込んでこの場に挑んでいる。


「マリオネラ産の茶葉は香りも高く、飲むものの心を安らかにさせる素晴らしい味であるな。」

リチャードは何とか覚えた茶の特徴を口にする。そしてチラリと斜め前に立つ宮廷教師のナザリー夫人の顔色を伺う。

ナザリー夫人のこめかみがぴくぴくと動いているのが分かる。リチャードはまた何か間違えたのだ。リチャードは額から汗が一粒流れ落ちるのに気付かぬふりをしつつ、懸命に自然な表情を取り繕ってみせる。


くすりとエルドラが笑った。


「そうですわね。リチャード様。アラザ産の茶葉は香り高いのが特徴ですわ。とても良い香りです。わたくしも心が和みます。」


どうやら産地を間違えていたようだ。さりげなく訂正し更にはなかったことにして見せるエルドラ。全く大した才女である。さぞかし立派な王妃となる事だろう。


優れた王と結ばれる事があれば。


そしてそれは自分ではない。第二王子のヘンリーこそが、遠くない未来に断罪され平民と落とされる自分の代わりにこの国を治める賢王なのであり、その王を支えるのが目の前にいる才媛エルドラなのだ。



リチャードには一度断罪され開拓村に流され一人死に至る未来の記憶がある。


それがどういう訳だが時間が巻き戻り、今はこうして齢12歳の少年だった自分となり、当時の決まり事であった週に一度のお茶の席に無理やり座らされている。


とても気持ち悪い。


だいたいあの頃はこのお茶会をどのようにやり過ごしていたのだろうか。成人男性となってからの記憶の方が長い今のリチャードにとっては何十年も前の話となり、記憶がどうにも定かでない。


何やらとにかく我慢して数十分ほどは付き合うようにして、後は理由をつけて中座していたのではなかったか?

あるいは適当な理由をつけてちょくちょく逃げていたような覚えもある。


どうにもはっきりしないがだがしかし、一つだけはっきりと言えることがある。当時からこの私、リチャードはこの女、エルドラの事が嫌だったのだ。


嫌いといったはっきりとした感情ではない、ただただもう、そばにいるだけで気が滅入るほどに嫌だったのだ。

だから最初の人生の時からこのようなお茶会は適当に濁しつつうまく切り抜けていたような覚えがある。もっとも「うまく切り抜けていた」等というのは当時の愚かな自分の主観によるものなので、実際にはずいぶんと周りに悪い印象を与えていた可能性は高い。


それでも当時の自分は王太子としての自覚からか、将来の妻への配慮からか、ずいぶんと我慢してこの女に付き合っていたように思う。それが必要な事だと周囲から刷り込まれ、必死になって自分の心を抑えて従ったのだ。

その反動としてあのような愚かしい男爵令嬢に絆されてしまい大変な間違いを犯すのだろうが、そもそもあの男爵令嬢に出会う前の時点でこの女のことが嫌だったのだ。


かつての開拓村で生きるために手足を動かすばかりの毎日の中で、考える時間だけは無数にあったから、どうして自分が間違いを犯したのか、なぜあんなことになってしまったのか、その事について何十年にも渡って思いを巡らせたものだが、どうにもはっきりとした答えが見いだせなかった。


それがどうだ。こうして2度目の生を重ねることになった今、理由ははっきりと目の前にある。


私はこの女が嫌だったのだ。それがそもそもの全ての始まりだったのだ。


リチャードは思わずくすりと笑ってしまった。


目ざといエルドラがリチャードの表情の僅かな変化に気が付き、声を掛けてくる。


「何か面白い事でもございまして?」


少しばかり楽しい気分になってきたリチャードが言葉を返してやる。


「いやなに。そなたの見識の広さに感心していたのだ。この先私が多くの過ちを犯そうとする中で、賢いそなたが先に手をまわし何度も救ってくれるのだろうとな。この国は安泰であろう。

そなたのような賢人を国母に迎え入れるこの国は幸せな事であろうな。」


リチャードが目を細めつつそのように言うと、「まあ。」エルドラが大きな目をことさら大きく広げて、手元に持った扇子を口に当てて見せる。


さて、この女はなんと返事をしてくるのだろうか? おのれの賢しさを誇ってみせるのか、あるいは自らを卑下して遜ってみせるのか。


「わたくし達はこの先互いに足りないところを補い合って生きて行ければよいと存じます。わたくしの至らない点をリチャード様はよく支えてくださっています。わたくしはそんなリチャード様とともに歩む未来を心より楽しみにしております。」

そう言ってにっこりと微笑みかけてくるエルドラ。


もう駄目だった。吐き気が止まらない。思わず口に手を当て、席を立つリチャード。

周囲のものがびっくりして全員がリチャードの方を見てくる。


エルドラも手にした扇子を置き、ぽかんとした表情でリチャードを見ている。


その顔が気持ち悪い。その表情が気持ち悪い。その心の在り様が気持ち悪い。


いったいいつこの私がお前の支えになったというのだ! この私と歩む先にどう楽しい未来があるというのだ!


気持ち悪い。気持ち悪い。


「失礼!」リチャードはどうにかそれだけの言葉を口にすると、足早に席を離れ、王宮の庭園の奥まで駆け寄ってから、げぇげぇと腹の中のものを茂みの陰に吐いた。


吐しゃ物は僅かに紅茶の香りが混じり、それがことさらリチャードの吐き気を喚起させた。リチャードは胃液も出なくなった空っぽの胃袋を痙攣させて、何度もげぇげぇと何もない何かを吐き続けた。


十分ほどもそうして茂みの前でうずくまっていただろうか。

どうにか落ち着き周囲に気を配る余裕が出てきたリチャードは、ふと人の気配を感じ取り、慌てて後ろを振り返った。


そこには気遣わし気な顔でこちらを伺うエルドラがいた。


「ひっ!」思わず悲鳴が口をついて出た。


よろよろっと後ずさったリチャードは、足元にたまった自らの吐瀉物に足を取られ、その場にぺたんと座り込んでしまった。


びっくりとなったエルドラが駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか! リチャード様!」


エルドラが伸ばした手が恐ろしく、リチャードは思わずその手を払ってしまった。


「寄るな!」


弾かれた手を抑え、目を見開いて驚いた様子のエルドラ。


対するリチャードは、瞬間でも彼女と触れた手がぞわぞわとなるのを感じ、ふと目を落とすと、鳥肌が立ち逆毛だった肌にブツブツと蕁麻疹が浮き出ているところであった。


リチャードは心なしか呼吸も荒くなり息をするのも大変な様子となってきて、見上げるエルドラの顔もぼやけてはっきりとしなくなってきた。


「……すまない。寄らないでくれ。そなたに近寄られると息が詰まるのだ。もう少し離れてくれ。」


エルドラは無言で頷くと、一歩下がって見せる。


どうにか人心地ついたリチャードは、何とか弁明を試みる。


「すまないエルドラ。今日の私はどうにも調子が優れないようなのだ。せっかくのお茶の席だがこれで終いにしてもらいたい。この埋め合わせは……」

この埋め合わせは……」埋め合わせ? またこの女に会わなければいけないのか? 「この埋め合わせは必ずするから、今日のところはお引き取り願えないだろうか?」……考えるな! 今は先の事は考えるな! 


しばしの沈黙の後、「かしこまりました。」エルドラは見事なカーテシーとともにそう言葉を発し、それから振り返り優雅な足取りでその場を立ち去った。


入れ替わるように宮廷教師のナザリー夫人などが駆け寄ってくる。特にナザリー夫人の顔は鬼の形相をしていた。これは大変な説教が待っているに違いない。


だが説教ならばいくらでも聞いてやりたい気分だった。

あの女と1分1秒でも早く別れられるのであれば、いくらでも説教してもらいたい気分だった。


ナザリー夫人のお小言は数時間にも渡ったが、リチャードの心は晴れ晴れとしていた。1度目の人生の知識と経験があるリチャードはこのところおとなしい優等生を演じるばかりであったから、ナザリー夫人が大変にガミガミとうるさいご婦人であることを久々に体験できて、むしろリチャードは楽しいくらいであった。


楽しい気分はその日の夜にはしぼんでしまった。

本日の件について、謝罪の手紙をエルドラに出さなければならなくなったからだ。


もう何十枚と紙を無駄にしているが、一向にましな文章が出来上がらない。しかし今日中に書き上げてしまわないと婚約者を蔑ろにしているとあらぬ噂のもとにもなりかねない。


リチャードは何とか空っぽの頭からそれらしい美辞麗句をひねり出して、どうにか謝罪の文章を書き上げた。


ナザリー夫人の添削を受けて夜のうちにこれを提出したところ、翌朝にはエルドラから返事が返ってきた。


公爵家が特別に作らせた彼女専用の香水の匂いがまき散らされた可愛らしい封筒を見るだけでも再び吐き気がこみ上げてくるリチャードだったが、次に会う機会に内容を把握していなければ大変なことになる。


強い意志を持ってどうにかペーパーナイフで封をこじ開け、中に目通しする。


そこにはリチャードの謝罪を快く許す長い前置きと、次の機会に二人きりで会いたい、という恐ろしい一文が記載されていた。


リチャードは吐き気がこみ上げてきて慌ててトイレに駆け込んだ。



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