9.
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あっという間に5年の歳月が過ぎていた。
ヘンリーの事は残念であったが、叩いて出てきた埃があまりにも多すぎたため、処分する以外に手はなかった。
国政のほとんどがエルドラの肩にのしかかり、リチャードとしては右から来た書類にサインをして左に渡すくらいしか手伝うことがなかったが、それでもエルドラがありがたいなどと涙目になりながら言うので、そんなものかと一人よくわからないまま納得するばかりであった。
リチャードは賢くはないが権力はあるから、エルドラのような知恵ものが上手に使いこなしてくれればよいと思うのだが、果たしてうまくいっているのか分からないのはもどかしい限りである。
しんどいばかりでよくわからない日々が続く中、良い事ももちろんあった。
それは子供達の事であった。
末娘のシャーロットはすっかりリチャードになつき、よほどのことがない限りいつでもそばにいたがった。
最初のころに見せた癇癪は、とにかくこまめに抱きしめてやることですっかりなりをひそめ、リチャードが側にいるだけで終始ご機嫌となるので、リチャードは公務の際にも可能な限り隣に小さな席を設けて近くに置くようにした。
せっせと書類に名前を書くリチャードの横でお絵描きなどしている様は可愛らしく、ついつい甘やかしてしまうとお付きの侍女どもに窘められ、リチャードが頭を下げると今度は幼いシャーロットが侍女に腹を立てるなどといった一幕などがしょっちゅうあった。
そんな中、あれはいつの日の出来事だったろうか。
いつものように執務室へとやってきたシャーロットが、どういう訳だか大変に緊張した様子でリチャードに近づいてきた。
リチャードはそのただならぬ様子にシャーロットのそばに寄り、自ら膝を折って目の高さを合わせるようにして、「どうしたのだ?」と訊ねてやる。
シャーロットは震えながら口を開く。
「リ、リチャードおじさま……。おじさま……。」
それから黙りこくってしまう。
何かいたずらでもしてしまい、叱られるのを恐れているのだろうか? 気になり後ろに立つ侍女たちの様子を見ると、なにやらシャーロット以上に緊張したものどもが、固唾を飲んでシャーロットの背中を見守っているのだ。
これはどうやらただ事ではない。いったいどうしたことか。
「うん?」リチャードはなるべく怖がらせないよう注意しながら、優しく促してやる。
「リチャードおじさま。……どうかシャーロットのおとうさまになってください。」
それからぽろぽろと泣き出し始める。
リチャードは一瞬、なんと言われたのか分からなかった。思わず後ろの侍女どもを見やると、彼女らも目に涙を溜めて必死の形相でこちらを見ている。
そういえば数日前からこの侍女どもにシャーロットをどう思っているか、しつこく何度も聞かれたような覚えがある。
つまりはこういう事情だったのだとようやくリチャードは納得した。
もちろん答えはあの日も今も変わらず一つである。
「むろんそなたは我が娘だ。私の大切な一人娘だ。お前の父はこの私だ。どうか私の事は父と呼んでほしい。お前の父はこのリチャード一人なのだから。」
「……おとうさま。」泣きながらしがみついてくるシャーロットに、リチャードもなぜか涙が止まらなかった。後ろに立つ侍女どもも泣いていた。
いったいなんの涙なのだ。何故我らはみんなして朝から執務室などで泣きあっているのだ。
だがリチャードにはこの瞬間がこの上なく喜ばしかった。
あまりにも嬉しくなり、その日一日はまるで仕事が手につかなかったくらいだ。
このような一件から数年経った今、9つになったシャーロットはすっかりおませさんになり、昔のように抱きついてきてはくれなくなったが、「ごきげんようお父様。」などと声を上げつつ執務室に乗り込んできては、脇の机で自分の勉強などをせっせとしている。
リチャードが毎日を頑張れるみなもとの一つである。
次男ウィリアムの事は自分では手が負えぬとリチャード自身は早々に諦め、任せられるものを探したところ、ちょうどよいものがすぐに見つかったのが幸いであった。
ウィリアムについては勉学が苦手で、剣を振る騎士などに強い憧れがあることは一目で見て取れたから、エルドラの実家の公爵家に仕える騎士の一人に無理を言って面倒をお願いしたところ、二つ返事で快く引き受けてくれた。
この騎士がどうしてなかなか立派な人物で、うまくウィリアムの心をひきつけ、あっという間に仲良くなって上手にあれこれを教えてくれるようになった。
このころのシャーロットはリチャードにべったりであったが、対するウィリアムは金魚の糞がごとくこの騎士の後ろをどこでもついてまわるほどの懐きようであった。
ところでこの騎士とリチャードの間ではある取り決めがあった。
内容というのは簡単なもので、ウィリアムの親たる立場であるべきはリチャードであるので、何かウィリアムが良くないことをした際に叱る役だけはリチャードがする、というものであった。
この騎士には良い兄貴分として面倒を見てもらいつつ、王子たるウィリアムを叱りつけねばならぬ役割だけは、立場のあるリチャードがこれをしたほうが良いだろうという、先のブドウ畑での一件を顧みたリチャードなりの工夫であった。
案の定というか、きかん坊のウィリアムはいくつもの問題を起こした。
騎士団の蔵に忍び入り勝手に剣を盗み出してはこれを振り回したり、厩に入って手綱を勝手に取って連れ出そうとしたところ、馬が暴れて大騒動になったり、ともかく騒ぎに暇がなかった。
そのたびにリチャードはウィリアムを捕まえて、みなの面前で尻を何度も叩いたりした。
ウィリアムは殺意の籠もった目でリチャードを睨みつけてきて、脇に控える騎士は苦笑いをするばかりであった。
そんな騎士であったが、ある日消沈した様子でリチャードの前にやってきて「約束を破ってしまったので罰してほしい」と深々と頭を下げてきた。
「何事か」と問い質すと、なんでもウィリアムがあまりにひどい事を言うので、思わず怒鳴って叩いてしまったらしい。ウィリアムはそんな騎士の豹変に大変な衝撃を受け、今は自室に籠って出てこなくなってしまったようであった。
王の子にとんでもない事をしてしまったと、騎士は顔を真っ青にしてその場に平伏するばかりであった。
どんな酷いことを言ったのか理由を聞いてリチャードは笑ってしまった。
ウィリアムはこの騎士に向かって、「あなたがオレの父親であったら良かったのだ。」などと宣い、騎士が「ウィリアム様にはリチャード様という素晴らしい父親がおりますでしょう。」と返してやると「あんな奴!」と聞き捨てならない暴言を吐いたのだそうだ。
「良いではないか! 私などは出来の悪い人間なのだから、ウィリアムに悪し様に言われても仕方のない事だ。好きなだけ言わせてやればよい。それよりもそなたには面倒をかけてすまない。これからもどうかウィリアムの事を見捨てずに目を掛けてやってもらえないか。」
すっかり小さくなって恐縮するばかりの騎士の肩を叩き、リチャードがそんなふうに声を掛けてやると、何やら感極まった様子のこの騎士はその場に膝をつき、「この命に代えましても!」などとかしこまった様子で声を上げた。
リチャードはびっくりとなってしまい、執務室の傍らでお人形遊びをしていたシャーロットに顔をむけると、同じくびっくりした顔のシャーロットがこっちを向いて、大きな瞳をぱちぱちと何度も瞬きさせていた。
その後、この騎士とウィリアムの間に何があったのかは詳しい話は知らない。
詳しい事情は知らないが、この日から数か月ほど経ったある日突然、ウィリアムはリチャードの事を「おやじ殿」などと呼ぶようになった。
その初めの時に、居合わせたシャーロットと思わず二人でびっくりとなってしまい、二人してお互いの顔を見合わせてしまった。
そんなウィリアムも今年で11歳となり、何やら近頃はめっきりと大人びてしまった。
騎士の話によるところでは、どうやら本気で惚れてしまった2つ年上の女がおり、そのもののために色んな事を頑張り出したのだそうだ。
なんでも相手もまんざらではない様子で、近々リチャードのもとに相談に上がる可能性があるようだ。
リチャードは相手の女の家格などを聞いて、そのまま合わせるのは難しそうではあるが、のちの面倒にならぬようウィリアムの王位継承権を放棄させて臣として貴族家に下るのであればどうにかできる目もありそうだと、今から無い知恵をあれこれ搾る羽目となっていた。
真面目になっても面倒ごとが絶えないのが良くも悪くもウィリアムであったが、リチャードはそんなウィリアムが今では可愛く感じられるようになっていた。
正直、色々大変だったのが長子フィリップであった。
とかく優等生のフィリップはなんでもそつなくこなすため、もともとヘンリーが用意した教師共などを相手にしても問題がなく、この度のごたごたでそのあたりが入れ替わり公爵家ゆかりのもの共が面倒を見るようになっても変わらずの様子であった。
公爵家にてエルドラを教えていた老教師もフィリップの優秀さには舌を巻き、「お嬢様を超える逸材である」と頭を下げるほどであった。
その話を聞いたエルドラなどは満足した様子で目を細めていたが、むしろリチャードの不安は大きくなる一方であった。
次子ウィリアムや三子シャーロットがあのような様子であったのに、フィリップだけが問題がないとはとても思えぬ。
何よりフィリップはいつも言われるがままで主体性がなく、感情の起伏が異様に乏しいのだ。
他の二人の子供以上に心の闇が深いように思え、リチャードとしては気が気でなかった。
そこでリチャードはあれこれ画策して、馬に跨り郊外に遠出に出てみたり、流行りの娯楽小説を敢えて読ませてみたり、聞いた事もない遠国の変わった料理を食べさせてみたり、見目美しい女と二人きりにさせてみたり、とにかく色々させてみたがどれも反応は芳しくなかった。
そこで改めてフィリップの事をあれこれ思い返し、そういえば一度だけ年相応の子供の顔をした事があったと思いだしたのが、開拓村にやってきたある日に二人だけで話し込んだあの夜の事であった。
そこで駄目もとだとリチャードは一計を案じ、ある晩に充分な人払いをした上でフィリップ一人を呼び出して、二人だけの時間を作った。
「何か大事でもございましたでしょうか。」緊張した面持ちでリチャードを見やるフィリップ。
「いやなに。別になにか特別なことがあったわけではない。ここらでそろそろ、そなたの話を聞いておきたいと思ってな。」リチャードがそう言葉を返してやると、フィリップは何やら思案顔となりしばらくブツブツと言ってから、なるほどと一人頷いた。
「確かにヘンリーめの一件もひと段落し、状況を顧みるによいころ合いです。このフィリップの浅慮でよろしければわたしの見た限りでの話をいたしましょう。」
こう前置きを言ってから、現時点での宮中の人間関係やエルドラの状況、直近での問題ごとなどをあれこれ話し出した。
いや、私としてはそなた自身の身の上話などを聞かせてもらいたかったのだ。
リチャードはそう思わないでもなかったが、何より嬉々としてフィリップが語るのと、その内容が興味深いものばかりであったからついつい感心して聞き入ってしまった。
「つまりはそなたは、エルドラのヘンリーめの処罰が厳しすぎたので、宮中では要らぬ反発が生まれてしまっているとそう申すのだな?」
「不才なわたしの目にはそのように映ります、我が王よ。」したりと頷くフィリップ。
やれやれ! リチャードはため息しか出なかった。
「あの女は昔から自分が優れているからといって、他のものも同じようであると考える悪い癖があるのだ。だから周囲のものに少しでも至らぬところがあるとことさら厳しく当たるきらいがあるのだ。」
「母は優れた人物であるのを承知はしておりますが、周りのものには少々辛いようです。とくにヘンリーめの件では母も思うところがあったようで、どうにも厳しく当たりすぎて、これが宮廷貴族どもの反感を買っております。
ところがそんな貴族どもの向こう側には特権をほしいままにする彼らに対する庶民の反感があり、結果として貴族どもは上下に挟まれて、本人たちの気付かぬままにどんどんおかしなところに追い込まれているのです。」
「エルドラは愚かな貴族どもが嫌いなのであろうな。それで余計に果断な対応をするのであろうな。」
「母は庶民の中からでも優れたものは引き立てて、血に依らない政治を行いたいようなのです。
特に我が国は『ときさかの魔法』の保全に固執するあまり、血統を重視し個人の能力を蔑ろにしたまつりごとが続いた結果、近年急成長を遂げる隣国との差が大きくなっているように感じられます。
ですがそんな母のやりようは、些か急に過ぎるように思うのです。ヘンリーめを処分してからは特にその様子が酷くなっているように感じます。
本来こう言った問題は繊細ですから、少しづつ変えてゆくほうが望ましいように思えます。」
「難しいな……。」リチャードは自分の手に余る難しい問題に逃げ出したくなった。
ここでリチャードは思い直す。どうせ愚かな自分には分からない話なのだ。こういったものは頭の良いものの知恵を借りればよいのだ。
リチャードはニヤリと笑ってみせる。
「それでそなたは何か考えがあるのか? なんなら以前のように、私がそなたの手足となって、またエルドラをうまく動かしてみせるぞ。」
「それは……。」フィリップは顔を赤らめ首をぶんぶんと振ってみせた。「あの時の事は勘弁してください。わたしの態度は王に対し不遜でした。本来一臣下であるわたしがあのようにリチャード様に頼みごとをすることなど、あってはならない過ちです。」
言っていることは立派だが、その様子はリチャードには年相応の幼子に見えた。
どうやらいびつに育ったこの子供は、このように難しい話の合間にからかってやるくらいでしか、子供としての振る舞いを思い出せないようだった。
リチャードはそんなフィリップの事を不憫に思いながらも、努めて明るく返してやる。
「何を言うかフィリップよ。実父の事で困り果てたそなたが養父である私を頼ってくれた時、私はそなたの父親としてとても嬉しかったのだ。
今も母の事で悩むそなたがこの父を頼ってくれるのであれば、いくらでも力を貸したいと思っているのだ。
これは別に国家の問題ではない。これはきっと暴走気味の母親に困り果てた優秀な長男が昼行燈の義父に恥を忍んで頭を下げている、そういった家族のうちうちの話であろうよ。
なればそなたはいくらでも私を頼ればよいではないか。結果貴族どもが救われることがあってもそれはおまけのようなものだ。
私たちは二人して共謀し、あちこちに厳しすぎる母親を諫めようというそういう話ではないか。」
「そうなのでしょうか?」きょとんとなったフィリップが目をぱちくりとさせる。その表情は年相応に可愛らしく、なによりシャーロットとそっくりな表情であったからリチャードにはなおの事愛おしく、嬉しくなって一人くつくつと笑ってしまった。
そんなリチャードの様子に怪訝となったフィリップが「何かおかしなことでもございましたでしょうか?」と心配そうに上目づかいでこちらを見てくる表情もシャーロットそっくりなので、リチャードはますます面白くなり、5分ほどもの間、一人で笑い続けた。
フィリップはその間、不安そうに眼をパチパチしたりどうしていいか分からずきょろきょろしたり、そのしぐさがいちいち可愛らしく、リチャードは嬉しくて仕方がない気持ちになった。
この幼子のためにどんな苦労も買って出よう、そういった気分になるには充分なひと時であった。
どうにか心を落ち着けたリチャードがフィリップに声を掛ける。
「あいやすまなかった。別にそなたを馬鹿にしていたわけではないのだ。ともかく事情は分かったから、そなたはエルドラを諫めるための知恵をこの私に授けよ。
聡いそなたの事だから考えはあるのだろう?
それをこの養父にすべて打ち明けよ。」
フィリップにはやはり考えがあり、その内容はリチャードにとっても十分に納得が行くものであった。
リチャードはその全てを受け入れ、早速実行に映した。
効果はてきめんで、どうにも最近あれこれ行き過ぎていた王妃エルドラは反省を余儀なくされ、貴族たちの留飲も下がり、リチャードの王としての名声が高まる格好となった。
リチャードはその後も重ねて何度かフィリップと二人で共謀し、時にエルドラの気を逸らし、時にエルドラを叱りつけ、時にエルドラを褒めそやすなどして急すぎるエルドラのまつりごとに余裕が出来るようにあれこれ働きかけた。
普段のフィリップは相変わらずなんでもそつなくこなす超人のようであったが、リチャードと二人きりの夜の間だけは楽しそうにあれこれを語り、何より年相応の表情を何度も見せた。
少々いびつではあるものの、フィリップが童心に返れるのが政に対する二人きりの悪だくみの時間であるならば、これはこれで良いだろうと、リチャードはそんなふうに考え始めていた。
だが、この蜜月はそう長く続かなかった。聡いエルドラがリチャードの様子に知恵ものの存在を嗅ぎ取り、それがフィリップであることがすぐにばれてしまったのだ。
リチャードが駆けつけたときにはすでにフィリップは吊るし上げにされ、怒鳴り散らすエルドラに激しく叱責されている最中であった。
「お前は王たるリチャード様をそそのかしたのですよ! 年端もゆかぬ幼子のくせに、王を顎でこき使ったのですよ! よもやこんなことが許されるとは思いませんね? お前は自分がどれほどの罪を犯しているか、分かっていますね? 例えお前の母であっても、お前のしたことを私は許すわけにはいきませんよ? 死をもって償う覚悟はありますね?」
真っさおな顔になり、ただただ平伏するばかりのフィリップ。そんなフィリップを大仰に睨みつけて怒鳴りつけるばかりのエルドラ。
周囲には大勢のものが動く事も出来ずその場で固まり、フィリップの大変な状況を見かねてリチャードを呼びに来たお付きのものは、あまりの惨状にリチャードの横で「ヒッ」と小さく悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
「何をしているか! エルドラよ! 実の息子に何たる仕打ちか!」
ともかくリチャードはフィリップとエルドラの間に割って入り、這いつくばってひれ伏したままガタガタ震えるフィリップを抱きしめつつ、エルドラを強く非難した。
「リチャード様はお下がりください! これは臣たるフィリップがリチャード様に佞言を囁いたその罪を問うているのです!」
「何が佞言か! そもこれは私がフィリップに知恵を求めて教えを請うたことなのだ。全て私の責である! それが誤りであるというのなら、そなたが責めるべきはこの私一人であろう!」
「このような幼子に回る知恵などございません! 浅はかなこのものが思いつきで適当を言ったのに違いないのです。
王の子である立場を笠に着て、なんと愚かで矮小な事を!」
「愚かで矮小であるはそなたであろう! 年幼くともこのものは知恵者である! そう私が認めたのだ! 貴様よもや、王たるこの私の慧眼を疑うのではあるまいな!? 私が認めたものを見下すとは、この私を愚弄する気か!」
「何をおっしゃいます! 我が王よ!」エルドラは悲鳴のような金切り声を上げた。
「わたくしはそのような……!」
だがリチャードは取り合わなかった。
「王に対する不敬である! このものを捕らえよ! 今すぐ捕らえて牢へぶち込め!」
衛兵たちが駆け寄ってきた。王命とあらば、いかに相手が王妃とあれど、従う相手を間違えるはずもない。
彼らがエルドラの周りににじり寄ると、さしものエルドラも事態を正しく認識したか、「自らの足で牢まで歩けます。」などと言って一人で先に進もうとした。
だがリチャードは兵どもに命じる。
「そのものは信用ならん。きちんと縄にかけて連れて行け。」
「なっ!?」声を上げるエルドラ。
一瞬戸惑った衛兵どもだったが、言われた通りに王妃を縄で縛り上げてから囲うようにして牢の方へと足を向けた。
王妃が退出してしばらくして、静まり返った城内がようやっとざわざわとしだした。
リチャードが腕の中に抱えたフィリップに顔を落とすと、顔を真っ青にしたフィリップが手を口に当て何やら懸命に堪えている様子が目に入った。
リチャードにはすぐに事情が呑み込めた。
フィリップは吐き気を堪えているのだ。
かつてエルドラが恐ろしかったリチャードは、あの女が近づいてきただけで気持ち悪くなり、人目をはばからず吐いた事もあるのだ。
さすがに今はエルドラがそばにいてもそこまで恐ろしいといった感情はなくなったが、今まさにフィリップがあの女を前にして同じ恐怖に苛まれているのだ。
リチャードはフィリップの背中をさすってやる。
「良い。吐いてしまえ。無理にこらえてもかえって辛いだけだ。吐いても誰もそなたを責めたりせん。少なくとも私は責めたりせん。よいから全て吐いてしまうのだ。」
程なくしてフィリップは床に吐しゃ物を戻し始めた。
お付きのものどももその様子に気付き、慌てて洗面器だの拭きものだのあれこれだのを用意しにあちこちへ駆けて行った。
リチャードはフィリップを見て決意をした。
今のフィリップは、かつてエルドラに怯えたリチャードそのものである。
あの時のリチャードには誰も助けてくれるものはいなかったが、今のフィリップにはリチャードがいる。
リチャード自らがこのものを守る盾とならずになんとしよう。
リチャードはフィリップのためにあのエルドラと戦う決意をした。
不思議と今なら勝てる気がした。
一度目の生と合わせて何十年もの付き合いの中で、こんな気持ちになるのはこれが初めての事であった。
牢の中でのエルドラは堂々としたたたずまいであった。
別に今さらその程度で怯むリチャードではなかったが、鉄格子の向こうでも王妃としての気品が損なわれぬその胆力に、リチャードとしては苦笑いをするしかない。
ともかくリチャードは気合を入れなおして、牢の前のエルドラと相対した。
「ご機嫌麗しゅう。我が王よ。」にっこりと微笑み会釈をして見せるエルドラ。
「世辞はよい。沙汰を申し渡す。
そなたはフィリップの知恵を認め、彼のものがこの私に進言し、私がそれを認め従った事柄については、そなたも同じく従うようにせよ。」
「かしこまりました、我が王よ。」エルドラは特に反発することなく唯々諾々と受け入れた。その様子は不気味ですらあったが、やはり付き合いの長いリチャードは別にさして気にもしなかった。
どうせこの女は自分が正しいと思った事柄についてはいつでも自分を優先する。
フィリップの事についても、少しでも間違いと感じればいつでも先ほどと同じように追い詰めるのは明白なのである。
リチャードはため息が出そうになるのを堪え、ともかく沙汰の続きを申し渡す。
「私はこれからも必要に応じフィリップを重用するが、この事についてそなたはいっさいの異議を申し立てないと誓え。」
「異議を申し立てませぬと誓います、我が王よ。」
「そなたは先の振る舞いについて反省し、みなの前でフィリップに謝罪の言葉を述べよ。」
「反省し、フィリップ殿下に謝罪を申し上げます、我が王よ。」
「よろしい。では私はそなたに王に対する不敬はないと信じよう。以上をもって沙汰とする。
ただし反省のため、今日一晩は牢から出さぬものとする。良いな?」
「異存はございません、我が王よ。」
さて、沙汰はこれまでであるが、リチャードにとっての本番はこれからだ。リチャードはこれからエルドラと戦わねばならぬ。
「さて、エルドラよ。私はそなたと個人的に話したい事柄がある。そなたさえかまわなければこのまま時間をもらいたいがどうか?」
エルドラは微笑みを絶やさず返答をする。
「むろん構いません、リチャード様。なんなとこのエルドラにお話しください。」
「うむ。」
リチャードは片手を上げてお付きのものどもを下がらせる。
二人きりになったところでいよいよ本題を切り出す。
「エルドラよ。私はそなたの事を信用しておらん。」
「そうなのでしょうね。」エルドラはさもありなんといった様子で平然と頷いてみせる。
「私がそなたのどんなところを信用できないか、そなたには分かるか?」
エルドラは頬に指を当てて、考えるそぶりをして見せる。
「それがさっぱり分からぬのです。わたくしはリチャード様に嫌われていることを知っておりますし、嫌がられていることも知っておりますし、今まるで信用戴けていないことも分かっているのです。
けれども結局のところ、それが何故かがまるで思い当たらないのです。
ただ信じていただけていないという事実だけが私の前にあるのです。それだけは分かります。」エルドラは少し困った様子でそのように返答をしてくる。
やれやれとリチャードはため息をつく。
「まあ、そうなのだろうとは思っていたが、やはりそなたまるで心当たりがないのだな。」
「そのようにございます。」エルドラがぺこりと頭を下げる。
「そなたはな、人の心の機微に疎いのだ。他人がどんなことに喜んだり悲しんだり怒ったりするのか、そういったものを察する能力に少しばかり欠けるのだ。それでついつい、自分の感情ばかりを優先するきらいがあるのだ。」
「まあ!」エルドラはびっくりした様子で目を丸くした。
本当に驚いているその様子に、リチャードとしては嘆息するしかない。
どうやらリチャードが指摘するまで、エルドラには思いもよらなかった事らしい。
「子供達の事ではまさにそなたの悪いところが強く出ておった。そなたは子供達の育児がヘンリーめに良いようにされて大変なことになっているというのに、まるで気付きもしていなかったようではないか。
ヘンリーめが悪い情報を上げないのでなんとなくうまく行っているだろうと思い込み任せっきりにしていたそうではないか。
まあ、途中で雲行きが怪しいと感じて3人を連れて開拓村へ来たことは結果として良かったが、私が気付かねばずっとほったらかしにされていたままだったのだぞ。
その事についてそなたはヘンリー一人が悪いと思っていないか?
そなた自身にも問題があったとは思わぬか?」
問いを投げかけ、しばしの間待つリチャード。
エルドラはどうにも煮え切らない奇妙な顔で、口の中をもごもごさせつつ、ただし何か言葉を形にすることはなく、ずっと口を閉ざしたままとなった。
「どうやら返事も出来ぬようだから続けるが、私はそなたの為政者としての才覚は全幅の信頼を持っているが、人の心の細かい部分に立ち入る判断についてはいっさい信用できん。
私はそなたのそういったところが信用ならんと言っているのだ。分かるか?」
エルドラはすっかり困り果てた様子となり、「おっしゃる意味が分かりません。いえ、お言葉自体は分かるのですが、その意味するところが理解できぬのです。」と返事した。
「まあ、そうであろうな。
そしてそれがまさに、私がそなたを信用できぬ一番の理由なのだ。
そなたに任せておくと大味すぎて、細かな注意が必要な子育てなどは目も当てられぬことになる。
此度の事でよく分かった。
私はそなたに子供達の事は一切任せられん。危なくて見ていられん。
子供に関するあれこれはすべて私を通して話をしてもらう。良いな?」
長い沈黙の後、エルドラはようよう口を開いた。
「……かしこまりました。我が王よ。」どこか項垂れた様子に、こんな時だけしおらしくなるエルドラにうんざりとなるリチャードだったが、ともかくこの女の心に楔を打ち込んで置かねばと、更に話を進める。
「そもそもそなた、最初の約束では私は好きにワインを造るだけでよく、国の事や家族の事はすべて自分に任せてほしい、そう言っていたな?」
「……確かにそう申しました。」
「その約束は今日をもって終わりとする。
私はもう、ワイン造りの事はお終いにするからそなたはすべてを自分で何とかしようとするのを止めにせよ。」
エルドラがびっくりとした表情になる。
「何をおっしゃいます、リチャード様!」
リチャードはそんなエルドラは無視して言葉をつづけた。
「私は此度の一件で、そなたにすべてを任せるのは過ちであったと反省しておる。
そなたは人の心が分からぬのだ。
そなたの判断は合理的に過ぎるが故、心ある人には辛い決定であることが多々あるのだ。
そなた一人に国政を任せるのは危険である。
よって私は王として、そなたの過ちを正す責を負うことにする。
ワイン造りなどしておれん。そなたにすべてを任せておくのは危険すぎるのだ。」
エルドラは震え声になって反論を始める。
「そんな……! わたくしは王と約束をしたのです! ワイン造りに全てを注げるよう、他のいっさいはわたくしが取り仕切ると。
全てはわたくしが差配すると!」
「そなたを信用した私が愚かであったわ!」リチャードは一喝した。
「そなたが優れた人物であると妄信し、いっさいをそなたに任せ過ぎたのだ! これは私の背任である! 王たるものがよくよく相手を確かめずに全てを任せるなど、全く愚かしいにも度が過ぎる! 何故そなたのような愚物を盲目的に信用したか、10年前のおのれを殴り飛ばしてやりたい気分だわ!」
「なにを……! なにをおっしゃいます我が王よ!」
「重ねて言うぞエルドラ! そなたは人の心を分からなさすぎる! おのが心の中の問題を認めよ! 人の心の機微が分からぬおのれ自身の心を知れ!」
エルドラは茫然とした表情でただただリチャードを見るばかりであった。唖然とした顔で、ただただリチャードに顔をむけるばかりであった。
リチャードは高まりすぎた心を落ち着けるべく、数度ほど深呼吸をしてから更に話を続ける。
「お互い1度目の生から数えて70年以上生きているのだ。正直人としてのなりは固まってしまい、新しく心を入れ替えるようなことはそなたも私も難しいように思う。
こういった場合は周りの意見を聞くのが良いように思う。
常に自分に間違いがないか疑うようにし、誰か信頼のおけるものによくよく話を聞く癖をつけるのだ。
少なくとも私はそうしている。フィリップなど実によく見てくれているから、私はあのものを信頼しておる。
そなたも誰かそういった人物を見つけると良いと思う。
誰もいないなら私がその相手をしてもよいと考えている。
とにかく一人でなんでも決めぬようにして、一呼吸おいて決断する癖をつけてほしい。
これは王としての命ではなく、そなたを古くからよく知る隣人としてのお願いだ。」
リチャードはここでいったん一呼吸を置き、エルドラの様子をまじまじと観察してみる。
エルドラはぼんやりとした表情となり、リチャードの話を聞いているのかどうにも怪しい様子であった。
それでもともかくリチャードは最後まで話をしてしまうことにする。
「よいか? エルドラ。
そもそも私とそなたは、たまたま同じ2度目の生をそれぞれ生きることになった赤の他人なのだ。
お互い子供のころから見知った顔ではあるが、所詮は他人だ。
だからべつに、私もそなたもお互いの話をいちいち聞く必要などないのだ。
それでも長い付き合いだし、お互い知らない仲ではないのだから、時には相手にお願いをすることもある、これはそういうたぐいの話なのだ。
だから話半分でもよい。私のいう事を少しは信じて、自分の心を疑うようにしてほしい。
自分の考えは間違っているかもしれないと疑って、たまには私や他のものに相談することを覚えてほしい。
重ねて言う。これは王としての命令ではない。そなたを古くから知る隣人からのお願いだ。
私からの話は以上だ。」
リチャードはエルドラの返事を待たずに立ち上がり、そのまま踵を返して出口へと向かう。
別にこの話にエルドラの返答は必要ないのだ。
あくまで個人的なお願いであり、従うかどうかなどエルドラの自由なのだ。
牢を出るリチャードの背中に、「かしこまりました、我が王よ。」と彼女の発した言葉だけが追いすがってきた。
ああ。リチャードは嘆息した。
結局エルドラは何一つ理解することはないのだ。
彼女の信ずる王と臣下、王と王妃、夫と妻、子供達の義父と母といった関係性の中でしかリチャードとの距離を掴めないのだ。
リチャードとエルドラは本来一度目の生では輝かしい王妃としがない開拓村のワイナリーの主という赤の他人であり、二度目の今でも本当は同じ関係性のままであるというのに、彼女はその事が分からないのだ。
だから分かりやすい目先の王と臣下という関係にばかり固執して、その関係性をリチャードにも押し付けてくるのだ。
恐らくエルドラはこの先一生変わらぬであろう。
そんなエルドラをどうにか御しつつ、リチャードは王としてこの国を治めなければならない。ただのブドウ園の農夫であったはずの男が国王のふりを続けなければならない。
リチャードのブドウ農家としての二度目の生はこの日を最後に完全に潰えた。
それでももちろん良い事もある。
この日を過ぎて数日後、珍しく昼のうちに王の執務室にやってきたフィリップが、恥ずかし気な顔でもじもじしながらこうお願いをしてきた。
「わたしもリチャード様の事をお父上とお呼びしてもよいでしょうか?」
リチャードが返事をする前に、傍らに座っていたシャーロットが声を上げた。
「ダメ!」
それからシャーロットはトコトコとリチャードのそばに寄ってきてこれにしがみついて、「お父様はシャーロットのお父様だから駄目!」と大声を張り上げた。
すっかり困り果てた顔のフィリップは年相応で可愛らしく、リチャードもついつい調子に乗って、「そなたが私の息子になるにはシャーロットを説得せねばならぬようだぞ。」などと言ってしまう。
慌てたフィリップがあれこれ言葉を尽くしてシャーロットを説得しようと試みるも、シャーロットは頑として首を縦に振らず、フィリップは泣きそうな顔になった。
さすがにやりすぎたと反省したリチャードがシャーロットをこう説得する。
「フィリップはシャーロットの兄なのだから、フィリップが私の子供ではない場合はシャーロットも私の子供ではないな。」
これにびっくりしたシャーロットが大泣きしてしまい、リチャードはしまったとシャーロットを抱きかかえあやしにかかりつつもフィリップに声を掛ける。
「意地悪を言ってすまなかった。元よりそなたは我が息子同然故、今さらおかしなこと言うものだとちょっといたずら心が働いてしまったのだ。
すまなかった。
今この瞬間よりそなたは我が息子である。これからもよろしく頼む。」
こうしてフィリップもリチャードの大切な子供の一人となった。
それからのフィリップは心の拠り所を得たのか、少しづつ自分の色を出すようになり、5年たった14歳の今では幼くとも国の中心人物の一人として様々な事を任されるようになっていた。
時にはあのエルドラとも激しい舌戦を交わし、勝利をもぎ取る一幕などもしばしばみられ、リチャードとしては気が気でない思いであるのだが、意外とフィリップは楽しそうにしていた。
長らく決まらなかった婚約者も決まり、これはフィリップが王家の血の継承を守らなくてよくなったため、隣国の王女がその相手を務めることとなった。
内向的で恥ずかしがり屋のフィリップは美しくもどこか毛色の違う姫君にすっかり恐縮してしまい一時はこの先が危ぶまれたが、おっとりとした性格のこの姫は存外フィリップと気が合うようで、どうにかうまくまとまりそうであった。
リチャードは幸せであった。
王の務めは大変なことも色々あり、かつてあれほどさんざん苦労させられた王太子教育などは実際にはほとんどなんの役にも立たず、5年たった今でも戸惑うばかりの毎日であった。
それでも3人の子供の事を思えばこそ、自ら選んだ王の道に何の異存もない。
リチャードは初めのうちは見上げる空の続きにあるであろう開拓村を想い手を休めることもしばしばあったが、今ではそも空を見上げることもほとんどなくなっていた。
リチャードはそれなりに幸せだった。
そんなある日の事だった。
珍しく大変機嫌のいいエルドラが、ぜひともリチャードと話したいことがあると二人きりでの面会を求めてきた。
はて? フィリップの婚約などで話すべき事柄でもあっただろうか? 心当たりのないリチャードはいぶかしみながらもエルドラを迎え入れた。
エルドラが持ってきたのは、一本のワインボトルであった。
満面の笑みで嬉しそうなエルドラがこう話を切り出す。
「これはぜひともリチャード様にお飲みいただいたい一本なのです。開拓村に残したものどもに造らせていた白ワインなのです。
むろんリチャード様の74年には遠く及びませんが、ずいぶんと形になってまいりました。
昨年は当たり年だったようでなかなかのお味です。
ぜひともこれをリチャード様にご堪能いただきたいのです。
ですが先に申し上げますが、やはりリチャード様がおられませんと味に深みが出ないように思います。
ワイナリーにはリチャード様のお力が必要なのです。
フィリップめが戴冠すれば余裕も出来るでしょうから、あと少しでお時間が作れますわ。
いつでもリチャード様がお戻りいただけるよう手筈は整っております。
ともかくまずは彼らの努力をこうして味わっていただきたいのです。」
リチャードは、その先の事をあまりはっきりとは覚えていない。
怒りのあまり我を忘れてしまったのだろうと、少し後になってようやっと状況を理解したのだ。
気が付くと、テーブルの上に置かれていたはずのワインボトルは床に四散し中身が飛び散り、勢いに任せて払い飛ばしたであろうリチャードの左手がじんじんと強く痛んだ。
大声も上げたようで、少々喉がひりひりとする。
目の前には驚いた様子のエルドラが目に涙を浮かべてこちらを凝視している。
怒りはまだ腹の底にある。
だがどうにか言葉を発せられる程度には心が戻ってきた。
「そなた……。そなたは私に隠れてこんなものを造っていたのか……。」
ようようの呈でこくりと頷くエルドラ。
「そなた……。私が言ったことを覚えていないのか? 私はもう二度とワイン農家には戻らぬと、5年前にそなたにそう言ったことを覚えていないのか?」
ふるふると首を横に振るエルドラ。
「ならばなぜこんなものを私の前に持ってくる。私がいったいどこに戻るなどと話をする。私は王になると決意したのだ。王として生きると覚悟したのだ。
それを今さらワイン農家に戻れというのか?
そなたは我が決意を侮辱するのか?」
懸命に首を横に振るエルドラ。
「そなたがワインが好きなら、一人で勝手に作ればよい。開拓村のワインはそなたが好きにしたらよい。
だが私はもう二度とワインを造るつもりはない。
二度とワインに関わるつもりはない。
エルドラよ。もう二度とこの私の前でワインの話をしてくれるな。
二度とワインを目の前に見せるな。
これは王命である。
王としての我が覚悟にかけてそなたに命ずる。
二度と私にワインにかかずらうものを見せるな。よいな?」
エルドラは震えていた。震えながら、返事もせず固まっていた。
リチャードはそんなエルドラの近くへと一歩足を進める。
「返事をせよ、エルドラ。」睨みつけるようにしてエルドラの眼前で命ずる。
エルドラは震える声で口を開いた。
「わたくしは……。わたくしは……。」
とにかく必死に言葉を絞り出すようにして、エルドラが言葉を紡ぐ。
「わたくしは……。わたくしはただ、リチャード様に素晴らしい白ワインをお造りいただきたくて、このように準備をしただけなのです。」
「そうなのであろうな。」
「わたくしは……。わたくしはただ、リチャード様に素晴らしい白ワインをお造りいただきたくて、『ときさかの魔法』にて時を過去にもどしたのです。」
「そうなのであろうな。」
「わたくしの……。わたくしのいったい何が間違っていたのでしょうか……?」
「全てだ。」
リチャードは吐き捨てるように言う。
「そなたがそもそも時を戻した最初の時点で間違えておったのだ。」
「ううううううっ!」エルドラはその場に泣き崩れた。
30を過ぎた中年女が、まるで幼女のごとき様相でわんわんと泣きわめいた。
リチャードはその鳴き声に当てられ、ようやっと心が少しばかり落ち着いてきた。
ふと傍らを見やると、足元の先には粉々に砕けたワインボトルと絨毯の上の大きな染みと成り果てた白ワインの残骸があった。
飲まれず捨てられるワインほど悲しいものはない。
開拓村で貧乏であった際にさんざん味わった辛苦。
目をつぶればいつでも思い出せることだというのに、私はなんと酷いことをしてしまったのか。
リチャードは自らの振る舞いに羞恥と後悔を覚え、次いで目の前で泣きじゃくる女の事が大変哀れな存在であるように思えてきた。
考えてみればこの女はなにも悪くないのだ。
ただ少しばかり人の心の機微に疎いから、リチャードが今でもブドウ農家に戻りたがっていると勝手に考えて、一生懸命準備して開拓村を整えていただろうに違いないのだ。
いつかリチャードをびっくりさせようと、喜び勇んであれこれ差配していたに違いないのだ。
そんなこの女にとって、今日は本当に特別な日になるはずであったのだ。
良く出来た白ワイン、けれどもまだまだ足りなくて。リチャードが改めてワイナリーに戻る決意をする、特別な日になる予定だったのだ。
この女の中では。
我知らずリチャードは膝をつき、しゃがんで泣き続けるこの女を抱きしめていた。
女は一瞬だけびくりと肩を震わせると、それからリチャードを押し返してきた。
「いけませんリチャード様! わたくしに触れてはいけません! リチャード様のお肌に湿疹が出てしまいます!」
何を言っているのだこの女は!
更に喚く女。
「いけません! わたくしは穢れた女です! リチャード様が触れてはお体に障ります! いけません!」
「そんな訳があるか、馬鹿者!」リチャードが怒鳴り声を上げると、びくりと震えたエルドラは、そのままようやっと大人しくなった。
「馬鹿者め。そなたは本当に大馬鹿者だ。いったいいつの話をしておるのだ。
私はもうワイン造りなどとうに諦めたし、私はもうとっくにそなたの事など恐れておらぬ。
別に触れてもなんともないし、気持ち悪くもなんともないわ。
全くそなたはどれほどの勘違いを重ねておるのだ。いったいいつの話をしておるのだ。
まったく……。まったく……。」
言いつつリチャードがエルドラの背中をさすってやると、「うううううっ。」と嗚咽にも似たうめき声を上げつつ、エルドラがリチャードに身体を預けてきた。
「ワインの事はすまなかった。そなたがせっかく時間をかけて準備してくれたのに、そなたの想いを無下にしてしまった。
これは私が悪い。いくらでも責めて構わん。
だが頼むエルドラよ。
もう二度と私の前でワインの話はしてくれるな。
もう私にブドウ農家の夢など見せてくれるな。
とうの昔に私はそれを諦めたのだ。
諦め王になると決意したのだ。
二度とこの私の決意に泥を塗るようなことはせぬでくれ。
頼むエルドラ。
頼む。」
エルドラはただただ泣き続けた。
リチャードの腕の中で、いつまでも泣き続けた。
作者はこの9話の最後の部分を号泣しながら書きました。
これほどまでに無意味で無駄で無価値な時間逆行はねぇよなぁと泣きながら書きました。
エルドラぇ……。




