僕たちは、何にでもなれる
「大統領」「幼女」「カニバリズム」の三題噺です。
お楽しみいただければ幸いです。
ホワイトハウスの執務室。赤い革張りの豪奢な椅子に腰掛け、大統領はその柔らかな座り心地を噛み締めていた。
そして、ぽつりと言葉を零す。
「ようやく、ここまで来たよ……」
その胸中に思い起こされるのは、これまでの努力の日々。
いい大学に入るために必死に勉強した学生時代。性格の悪い議員の無茶振りに応えた下積み時代。全力で思いをぶつけ、声が嗄れるほどの演説を繰り広げた選挙戦。
磨き上げられたデスクの滑らかな手触りが、掌から腕を通って脳に達し、実感を与える。
ようやく、長年の願いが叶ったのだと。
『――史上初の女性大統領になられた訳ですが、今の心境は?』
点けっぱなしになっていたテレビから、そんな音声が流れている。
それに対して画面の中の大統領は、『お世話になった方に恩返しを』とか、『皆様のご期待に沿えるよう』とか、四角四面な返答をしていた。
「うそつき」
画面の中の自分に向けて、一人ぼやく。
――そう、そんなものは嘘だ。胸に宿る思いは、常に一つだけ。
『今、一番このことを伝えたい人は?』
インタビューの最後に投げられた、その質問に対する回答。
『……私の、大切な友人に』
それだけが、たった一つの真実だった。
****************
「大統領になる」
幼女の唐突な宣言に、少年は目をぱちくりさせた。
二人はいわゆる幼馴染であり、親同士の仲が良く、物心がつく前からずっと一緒に遊んでいる。
彼女がそんな突拍子もないことを言い出したのは夕暮れ時、そろそろ帰らなくちゃと、少年が思っていた矢先のことだった。
「どうしたの、いきなり」
ブランコの鎖を掴んだまま、少年は笑いながらそう返す。
幼女が突然に立ち上がったせいで、掴んだ鎖がカチャカチャと揺れている。
「大統領になるの」
彼女は振り返りつつ、もう一度繰り返した。
少年も「だから、いきなりどうしたのって……」と繰り返すが、思わず笑みを消した。
夕日を背にした彼女の薄暗い顔が、真剣そのものだったから。
「お母さんが言ってたの。全部大統領が悪いんだって」
その言葉に、少年は思い当たることがあった。
彼女は、父親を亡くしている。
少し前から続いている戦争に派遣され、そこで戦死したのだ。それはまだ傷が生乾きであろうほど最近のことで、実際彼女の母親は未だにしょっちゅう泣いている。
そして、泣きながら言うのだ。
全て戦争が悪い、戦争を起こした大統領が悪い、と。
「大統領になって、戦争をなくすの」
だから、彼女がそんなことを言い出すのも、少しもおかしな話ではなかった。
「でも、女の子は大統領になれないよ」
それに対し、少年は子供ゆえの純粋さでそれを否定した。
大統領は男だ。そう思い込んでいたから。
「女の子が大統領になっちゃいけないって、決まってるの?」
当然、彼女はむっとした顔でそう返す。その勢いに押され、少年は困り顔でたじろぐ。
「分からないけど、今まで誰も居ないよ?」
という彼の言葉に、幼女は我が意を得たり、と言わんばかりに鼻の穴を膨らませて。
「いいじゃない、初めての女大統領。カッコいいでしょ?」
そんな風に言ってのけた。
「でも……やっぱり、無理だと思うな……」
弱々しく呟く少年は、決していじわるで言っている訳ではない。むしろ彼女を思えばこそ。
「無理じゃないもん!」
少し年上の少年の、そんな心の機微など分かるはずもない。
彼女はむきになって、声を荒げた。
「お父さん、言ってたもん! 『君たちは、何にでもなれるんだよ』って!」
そして、その声が潤む。自らが発した言葉に刺激されて。
その言葉は、父親が戦争に旅立つ直前、彼女に遺したものだったから。
「言ってたもん……お父さん……お父さん、が……」
切れ切れに呟き、遂には泣き出してしまった彼女を、少年は優しく抱きしめた。
「うん、そうだね。ごめんね」
ゆっくりと金色の髪を撫でながら、少年は自分の腕の中で震える幼女に囁く。
「『僕たちは、何にでもなれる』。うん、そうだよ。初めての女大統領にだって、なれるよ」
彼女の涙を見たくない。その一心で、少年は言葉を紡いだ。
そんな彼の胸に顔を埋めながら、「本当に? 私、大統領になれる?」と幼女は問う。
「うん。応援するよ」
その言葉に彼女は顔を上げ、少年を真っ直ぐ見据えた。そして、涙でぐしゃぐしゃの顔を、ぱぁっと綻ばせて。
「えへへ、ありがとう!」
沈みかけの夕日なんかとは比べ物にならない明るい笑顔を、惜しげもなく少年に見せつけるのだった。
****************
少年は、息を切らして走っていた。
白く静かな廊下を駆け抜け、スライド式のドアを開けて部屋に飛び込む。開口一番、彼女の名前を叫びながら。
「ああ、来てくれたのね。ごめんね、少し前に眠ったところなの」
返事を寄越したのは、彼女の母親だった。
当の彼女はその言のとおり、細身に不釣り合いな広いベッドで、スヤスヤと眠りに就いていた。
すぐに容体を訊ねる少年に、母親は伏し目がちに答える。
「あまり良くないわ。もしかしたら、近いうちに大きな手術をしないといけないかも」
その言葉に、少年は大きく動揺した。
彼女の病気のことは知っていた。しかし実際に『手術』という単語を聞いてしまうと、それは嫌な実感となって彼に押し寄せた。
万が一、なんて恐怖が少年の頭を過る。
彼女の母は、「今は落ち着いてるから、大丈夫」と少年の栗色の髪を撫でる。我が子のように接してくれるその温かさに、少年の強張った心が少しほぐれた。
それを見届けた母親に、
「ごめんね、ちょっと荷物を取りに行ってくるから。しばらくこの子の事、見ててくれる?」
そう頼まれ、少年は「うん」と返した。年頃になった少年にとって、頼られることは純粋に嬉しかった。
じゃあ、と言い残して母親が出て行った後、少年は彼女の傍らに腰掛けた。
幼女から少女へと成長した彼女は、ごく穏やかに寝息を立てている。
その儚く透き通るような白い肌には、触れたくて、でも触れるのが怖い、そんな危い美しさがあった。
滑らかなブロンドの長髪に、スッと通った鼻筋。色素の薄い唇は少し開いていて、ぷっくりとした耳たぶがアンバランスに可愛らしい。
作り物みたいにキレイなその顔を眺めていると、不意にその長い睫毛がピクリと動いた。
「あ……」
少年の名前を呼び、その存在を認識する少女。
「来てくれたんだ」
そう言って、いつもの明かりが灯るような満面の笑みを浮かべる彼女に、少年はしばし見惚れた。
「ごめんね。びっくりしたよね」
返事がないことを不安に思ったのか、彼女はその笑みを曇らせる。
「そんなこと……いや、うん。びっくりした」
咄嗟に取り繕おうとした少年はしかし、思い直して正直に答えた。
だって、驚かないはずがない。自分のよく知っている友人が、倒れて病院へ運ばれたなんて聞いたら。
「あのね。私、あんまり良くないらしくて……今度、手術することになるかもって」
「うん、聞いたよ……」
少女の言葉に、少年は言葉少なに答える。
そして少年が何を続けるか迷っている間に、彼女は告げた。
「上手く行くか、五分五分なんだって」
「……それは、」
少年は、さらに言葉を見失ってしまった。
それはつまり、半分は上手く行かないかもしれないということで。
そのとき、彼女は、どうなる。
「もし、失敗しちゃったら――」
「そんなことっ……」
『そのとき』のことを続けようとした彼女に、少年は思わず大きな声を出す。
しかし彼女は、「聞いて」と少年を遮った。少年が今にも泣きそうな、困り果てた顔をする。
揺れるその瞳を、少女は真っ直ぐに見つめた。その揺れが治まるまで、ただ真っ直ぐに。
やがて、彼女が口を開く。
「もし……もし、私が死んじゃったらさ」
「……うん」
少年は、消え入りそうな声で続きを待った。
そんな仮定を受け入れたくはない。しかし、彼女の真剣な思いを聞き届けようと。
そして、彼女が告げたのは。
「――私のこと、食べてくれない?」
「…………は?」
少年が辛うじて返したのは、ただの疑問の音だった。
耳を疑う、とはこのことだ。
「食べてほしいの。私を」
だが、少年の耳はどうやら正常に機能しているらしかった。
繰り返された彼女の言葉は、やはり同じことを言っていて。
「何、言って……そんな冗談、」
笑い損ねながら発した言葉を、彼女は「冗談じゃないよ」と遮った。
いつかと同じように、至って真剣な表情で。
「……どういうこと?」
本気で言っている。そのことを理解した少年がそう訊ねると、「この前本で読んだの」と前置きして、少女は語った。
「もし死んじゃってもね。その人のことを食べれば、ずっといっしょに居られるって。その人の血となり肉となって、ずーっといっしょに生きられるんだって」
カニバリズム、というその考え方を少年が知るのは、それからしばらく経ってからだ。
その場では意味が分からず、ただ彼女の言葉を必死に理解しようとする。
「だから、ね?」
――私を、食べて?
繰り返される少女の願いに、少年は何も答えられない。
頭の中は真っ白だ。喉がカラカラに渇いて痛みを訴え、視界は彼女の形に狭まり、耳は彼女の声以外を拾わない。
答えあぐねる少年に焦れるように、彼女はさらに告げた。
「それで、私の夢も叶えて。私の代わりに」
その言葉が、少年の空白にゆっくりと浸み込む。
『大統領になりたい』。それは彼女がずっと変わらず言い続けてきた夢。願い続けてきたこと。
あの時に抱いたその願いを、彼女は変わらず抱き続けていて、それで。
「……そんな……無理、だよ。僕には、無理だ」
それでも少年の口から零れたのは、やっぱり否定の言葉だった。あの時と同じように。
「無理じゃない」
そして、少女もやはり、あの時と同じ言葉を繰り返した。
「無理じゃないよ。だって……」
少女は、少年の手を握る。
そのままぐいと引き寄せると、少女は少年を優しく抱きしめた。
「『私たちは、何にでもなれる』んだから」
細い指が自分の栗毛を梳くのを感じながら、少年は少女を抱きしめ返した。
あまりに頼りない細さと、しかし確かな温もりが伝わってくる。
「……ね。私の、どこを食べたい?」
と、彼女はそんなことを囁いた。
するりと少年に入り込む蠱惑的なその言葉に、
「……耳……かな。柔らかくって、おいしそうだよ」
そのぷっくりした膨らみに触れながら、少年は答えた。
「そっか……そっか。うん。良い趣味してる」
冗談めかした言葉。しかし彼女は、泣き笑いの表情を浮かべて。
「じゃあ、お願いだよ。私のこと、ちゃんと食べてね」
滲む声で、もう一度そう告げた。
「……分かった。でも、」
少年も、もうそれを否定しなかった。ただし、
「助かる望みは、絶対に捨てないで」
どうしても言いたいそれだけを伝え、少女を抱きしめる腕に僅かに力を込めた。
どうしようもなく伝わってくる震えを、治めてあげたくて。
「……僕が大統領になっても、『初めての女大統領』にはなれないんだからさ」
おどけて付け加えた言葉に、少女は腕を解いて顔をぐいと拭い、少年を見る。そして、
「えー、頑張ってよ。女の子の格好してさ。似合うと思うよ?」
向けられた明かりが灯るような笑顔に、少年は「バカ」と笑顔を返した。
****************
少年は、息を殺して歩いていた。
白く静かな廊下をひたひたと進み、スライド式のドアを開けて部屋に滑り込む。開口一番、安堵のため息が漏れた。
そして、壁一面に並ぶ四角い引き出しを順番に、開けては閉め、開けては閉め。
五つ目の引き出しを開いたところで、
「……見つけた」
少女の名前を呼ばわり、少年は穏やかな笑みを浮かべる。
「ちゃんと、来たよ」
そう報告しながら、少年は自分のポケットをまさぐった。
取り出したのは、キッチン鋏。
少女の髪を丁寧に掻き分け、ぷっくりとした耳たぶにそれを宛がう。
少年は、内から沸き起こる嫌悪感と罪悪感に苛まれる。
自分の大切な人の体に、鋏を入れる。それを躊躇いなく実行できる人間なんか、きっとこの世に居やしない。
でも――それでも。
「……ごめんね」
それが、彼女の望みだったから。
少年は意を決し、鋏を握る手に力を加えた。
耐え難い感触は、一瞬だけ。悲しすぎる程あっさりと、鋏は肉を断つ。
心臓が止まった彼女の肉体からは、もう血も流れてこなかった。
できる限り小さく切り取った彼女の欠片を、少年は震える掌に、大切に、大切に乗せて。
慎重に、躊躇いがちに、けれど覚悟を決めて。
口づけをするように――彼女の肉を、口に含んだ。
最初に感じたのは、冷たさと薬っぽい臭い。
舌触りは、自分の指を咥えているのと大差なかった。柔らかさは感じるが、噛んでそれを確かめる勇気はない。
それに、これ以上はもう、耐えられそうになかった。
意を決し、彼は彼女を飲み下した。
ごくんと音を立て、喉へと落ちていく小さな彼女。
そして、思う。
それはやっぱり、ちっとも――
「おいしくなんか、なかったね」
少年の頬を、生温い涙が伝った。
****************
いい大学に入るために必死に勉強した学生時代。性格の悪い議員の無茶振りに応えた下積み時代。全力で思いをぶつけ、声が嗄れるほどの演説を繰り広げた選挙戦。――手術に臨む時でさえも。
それらの全てが。
あの日、あの時に味わったことに比べたら、まったく簡単なことだった。
だから、叶えることができた。
『初めての女大統領』、その願いを。
しかし、願いはまだ終わりじゃない。
「――後は、戦争をなくさないとね」
長く伸びた栗色の髪を指で梳きながら、そんな途方もない計画を口にする。
戦争をなくすなんて、夢物語だ。絵空事だ――そう思う。
でも、不可能じゃないとも思うのだ。
だって――
『僕たちは、何にでもなれる』
――END――