サンタ(28歳)
オヤジの跡を継いでサンタになった。
そんな言い方をしたらずいぶん聞こえよく響くかもしれないけれど、実際のところは『負け犬』という言葉がたいへんよくお似合いになる。そんな男だオレは。
「さっみぃ~……」
今年で二十八になる。
一昨年までバンドを組んで酒を飲んでメンバーと夢や希望を語り合ってた。
そのメンバーの一人が地元で元恋人に結婚を持ちかけられているという話を聞いたのが、去年の冬。
その次の春になるとオレは地元の職安(職業安定所のこと)で職歴不問の求人を探していた。
夏、ふだんは無口なオヤジが、晩飯の時間にぽつり、「継ぐか」とオレに訊いた。
秋からは、サンタをやっている。
子どもに夢を届ける仕事、なんて言っても、実際にやってみるとそんなにいいことばかりじゃなかった。
年に一回働くだけの簡単な仕事かと思ったら、とんでもない。
人気のおもちゃはクリスマスの前にはとっくに売り切れになってるから、どんなものが今年の人気になるのか、いつも子ども向けのマーケットを投資家みたいに監視してなくちゃいけない。
子どもとちがって大人はただサンタってだけじゃ信頼してくれないから、小学校の通学見守りみたいな地域ボランティアに協力して、顔を売っていかなくちゃいけない。
サンタは免許制じゃないけど、少なくとも日本国内で活動するためには『日本おくりもの協会』という名前のサンタの団体に参加して、一ヶ月に一回は研修に出る必要もある。
そして世の中のお父さんお母さんは忙しいから、なかなか余裕を持ってプレゼント希望届を出してくれなくて……。まさか「期限を過ぎたので受け付けません」なんてサンタが言うわけにもいかなくて、ここ二週間はほとんど寝る間も惜しむくらいの事務仕事だった。
『日本おくりもの協会』からリースで借りているトナカイ色の空飛ぶ原チャリで、冬の星のかがやく濃紺の夜を渡りながら、ストップ居眠り運転、と泥のように濃いコーヒーをストローで啜る。
子どもの眠る夜だって、大人たちは眠っていない。
少し目線を落としてやれば、星が霞むくらいにきらきら光るのは街の明かり。あの一つ一つは、幸福な誰かの命のきらめきだ。
跡を継ぐことが決まったときにぼそりとオフクロが言った「人が笑ってるときに必死で働くっていうのはね、誇らしいけど、しんどいよ」って言葉。今になると、なんだか身に染みてくる。
大学のころの友だちは、今ごろどうしているんだろう。
家族と過ごしてるのか、恋人と過ごしてるのか、友だちと過ごしてるのか。聖なる夜だ。きっと、幸せにしていると信じたい。
やりがいのない仕事ってわけじゃない。むしろ、書類をめくったりするだけの仕事よりはずっと自分に合ってると思うし、がんばった先に子どもの笑顔があるなんて、強がり抜きで最高の仕事だと思う。
でも、こんな日に、こんな夜に自分が働いてるってことが。
かじかんで血が滲んできたのを絆創膏で塞いでいる指先が。
凍て風に吹かれてちぎれてしまいそうなくらいに痛む耳が。
そういうのが身に染みて、ぽつり、こんなことを言いたくなったりもする。
「オレ……、なんか、みじめだな」
ぴこん、とスマホから音が鳴った。
設定していた目的地の上空に着いたのだ。
空飛ぶ原チャリを上手く運転して、ゆっくりこっそり、地上に降りていく。
エンジンを止めて、完全に停車させてからスマホ確認した。
「『はせがわるるこ』ちゃん……。住所確認よし。プレゼント確認……」
バッグを広げて、中から『はせがわ るるこ』とラベルがついているはずのプレゼントを探す。なんとなく名前に見覚えがある。ああそうだ、確かちょっと変わったプレゼントで、包装も独特だったからそれを手掛かりに……、
する前に、簡単に見つかった。
最後の一個だったからだ。
思わず時間を確認する。
深夜十二時のちょっと前。
よかった。計算していたとおり、クリスマスの日付を越えてしまう前になんとか配り終えることができた。
立派に仕事をこなせたことがうれしくて、ついさっきまで感じていた、自分自身に対する憐みの気持ちが、ちょっとだけ薄れる。
「って、まだ最後の一個が残ってるんだっつの」
油断大敵、と頭を振って気合を入れ直す。
最後の一仕事だ。プレゼントの細い包みを、しわをつけないように、それでも力強く握りしめる。
プレゼントの渡し方は、大きく分けてふたつある。
ひとつめは、昔ながらのこっそり部屋に入ってこっそりプレゼントを置いて去っていくやり方。
もうひとつは、中にいるはずの親御さんに外から電話をして、こっそり部屋に入れてもらうやり方。
最近人気なのは、ふたつめの方だ。
サンタとはいえ、自分の愛する子どもに、真夜中、知らない大人が近づいてくるような場面にはちゃんと立ち会っておきたいというのが理由らしい。
研修会で講師をしていたベテランのサンタはため息をついて「昔と違って、今は人と人との信頼というのが薄れている」なんて言ってたけど、オレは結構なことだと思う。子どもを心配する親の気持ちが、オレの顔を見せたくらいで和らぐっていうなら、こんな顔いくらでもまじまじ見てくれればいい。
いっしょうけんめい表にしたから、そういう希望もスマホで一元管理できている。
『はせがわ るるこ』ちゃんのお宅も事前連絡希望。ということは、中にいる親御さんに電話をかけなくちゃいけない。
「って、固定電話のとこなのか」
たまに、この番号を携帯じゃなくて、家の据え置き電話で記入してくる家庭がある。
これはあまりいいことじゃない。携帯だったらバイブレーションにすることもできるけど、固定電話だと呼び出し音が鳴ってしまうからだ。その音で子どもが起きてしまっては厄介なことになる。
まあでも、それしか書いていない以上、そこにかけるしかない。
二回、スマホの画面に触れて電話をかける。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
「え?」
顔を離して、もう一度番号を確認した。
間違ってない。合ってる。
もう一度電話をかけて、切って、『日本おくりもの協会』の会員限定サイトで照会をかける。
『はせがわるるこ』ちゃんの検索結果、二件。
引っ越し情報漏れだ。
そんなに珍しいことじゃないらしい。『日本おくりもの協会』は残念ながら単なる民間団体だから、行政から住民票の異動なんかの情報を吸い上げることはできない。郵便局に転居届を出すのと忘れるのと同じくらいの割合で、サンタ利用申し込み票を出してから何の手続きもなく引っ越してしまう人もいるし、転居前と転居後で重複して申し込んでしまう人もいる。そう、研修で聞いていた。
よくあることだ。
よくあることなんだけど。
「拍子抜けだ……」
日本中に名前を轟かすミュージシャンになる。
そんなでっかい夢をあきらめて就いた仕事の、最初の大山場の幕引きがこれ。
肩ががっくりと落ちるのも、その途端にどっと疲れが湧いてくるのも、仕方のないことだと思う。
「帰るか……」
気持ちは晴れない。
けれどまさかその『はせがわるるこ』ちゃんの引っ越し先……新幹線でも二時間かかるようなところまで原チャリで行って勝手にプレゼントを押し付けてくるわけにもいかないし、これで聖夜の仕事は終わりにするしかなかった。
帰ろう。
今帰れば、まだ家の近くのスーパーマーケットだって開いてるし、夜食のひとつくらいは買えるかもしれない。フライドチキンでも買えれば、多少の心の慰めになるはずだ。原チャリのハンドルを握って、夜空に飛び上がった。
静かな静かなエンジン音だけが響く、街のずっとずっと上の、地上よりずっとずっと暗い空で、自分に言い聞かせる。
慣れてるじゃんか。
いっしょうけんめいやったって、気持ちよくなれることばかりじゃないってこと、知ってるじゃんか。
十年やったバンドは、結局箸にも棒にもかからなくて、どこで話題になることもなくて、残ったのはこんな半端もののオレだけ。
たった一個、プレゼントが残ったくらいがなんだよ。スッとしないから、なんだよ。
いいじゃんか。それ以外のこと、ちゃんとできたんだから。
「……やべ、」
泣きそう。
二十八にもなってちょっとうまくいかなかったからって泣くなよ……、そう自分に言い聞かせて、涙を閉じ込めるためにぎゅっとまぶたをつぶった。
そうしたら、歌が聞こえた。
びっくりして目を開けた。だって、まさかこんなに空の上にいるのに、歌なんて、声なんて聞こえてくると思わなかったから。
耳をすましてみる。かすかだけど、確かに聞こえる。
少し気になって音の出所を探すつもりが、気づいたら止まらなくなっていた。
その歌は、あんまりにも美しかった。
バンドマンなんてやってれば、そりゃあふつうの人の何十倍も何百倍も音楽を聴いている。その知識や経験が感性の鐘をありったけ並べて順番に銀の棒で鳴らしていくような、そんな音色だった。
声に導かれるように、街外れの、明かりだってほとんど見当たらないような場所まで辿りついた。
声がいちばん大きく聞こえるところで、ゆっくりと、その歌を邪魔しないように原チャリを降ろしていく。
小さな井戸があった。
あたりは冬枯れの草が無造作に倒れているだけの空き地。人影はなくて、歌は井戸の中から聞こえてくる。
原チャリを停めて、ひょい、と覗き込むと、歌が止んで、言葉に変わった。
「誰かいるのですか?」
井戸の底は夜を九つまとめて閉じ込めたみたいな暗闇で、何も見えなかった。
代わりに聞こえてきたのは、ただ喋っているだけなのにそれだけで音楽みたいに響く、きれいな声。
まさかむこうから話しかけられるとは思わなかったから、うまく返せずにいると、その声は続けてこう言った。
「あのう。あなたがどんな方なのか、顔も見えないんですが、もしも私に優しくしてくださる人ならば、ひとつ質問に答えていただけませんか?」
さあ、こんな冬の夜に、井戸の底で歌い続けているやつ。
そして、まるでそのことに慌てた様子も見せないで、質問してもいいですか、なんて言ってくるやつ。
そいつって、どんなやつなんだろう。
ほとんど恐怖でまいってしまっているっていうのに、その声が綺麗だからか、ついうっかりオレは答えてしまう。
「オレに答えられることなら」
「ありがとう、優しい人。それじゃあ、『るるこ』という女の子を知りませんか?」
るるこ。
その名前には心当たりしかなかったけれど、これはきっとサンタって職業をやってるやつの本能なんだろう。子どもに危険が及ばないか、最初の心配事はそれになる。
「『るるこ』? そいつがどうしたっていうんだ?」
「友だちなのです。彼女、小さな女の子なのですが、ここ数日姿を見せないので、心配しているのです」
「心配なら会いに行ってやればいいのに」
「それができれば、あなたのような優しい人に、本当に優しさを求めてしまうような図々しいことはせずに済むのですけれど。残念ながらそうはできないのです」
「どうして」
「私は人魚なのです」
オレは言われたことの意味をよく考えた。
「人魚?」
「ええ。私は正真正銘の人魚です。海の王国で生まれ、海の王国で育ったのですが、ある日ふと好奇心のままに旅に出て、この人間の街に辿りついたのです」
「はあ」
人魚なんているのか。
おとぎ話の中だけの存在じゃないのか。
そんな疑問は当然頭をよぎったけれど、しかしなにせ自分がサンタなものだから、そういうこともあるか、とすぐに納得してしまった。子どものころは両親の変装だとばかり思っていたサンタクロースだって(オレの場合、本当にオヤジがサンタだったからちょっと複雑)現実の存在なのだから、人魚だって現実にいてもおかしくはない。
「でも、人魚だからって会いにいけない理由にはならないだろ。そんな海の王国なんてものがあって、しかも旅だってできるんだったら、あんたら人魚が移動するための水路だってたくさんあるんじゃないか。それともその『るるこ』ってヤツ、砂漠の真ん中にでも住んでるのか?」
『はせがわるるこ』の家の位置を思い出す。この日のために街の地図はすっかりそのまま頭に収めているから、近くに川が流れていることだって覚えている。
「おっしゃるとおり、水路はたくさんあります。けれど、私はそれを利用できないのです」
人魚は答える。
「この井戸に通じる水路は、私がここに来てからすぐに塞がれてしまったのですから」
「塞がれた?」
「ええ。私がこの行き止まりに辿りついたとき、小さな地震がありました。それは本当に小さなものだったのですが、そのはずみに私が無理やりに身体をねじ込んで押し入った細い水路は、すっかりひしゃげてつぶれてしまったのです」
「それは何とも……」
「ええ、不運なことです。自業自得でもあります。身動きも取れないまま、この小さな井戸でこれからの私の命の行く末を悲しんでいたところ、たまたま『るるこ』がこの井戸を訪ねてきて、それから私の話し相手になってくれたのです」
「ははあ、なるほどな」
意識して軽い口調で答えたけれど、内心ではゾッとしていた。
こんなに狭い井戸の中に閉じ込められて、身動きが取れないなんて、オレだったら絶対に耐えられない。
けれどそれと同時に、この人魚が『はせがわるるこ』と友だちになるのも納得できる話だ、と思う。
こんな絶望的なひとりぼっちの状況に現れた相手、どうやったって好きになるに決まってる。
「だから私は、自分で『るるこ』を訪ねていくこともできずに、ただ心憂さを募らせているのです。どうぞ優しいあなた、何か『るるこ』について知っていることがあるなら、私に教えてくださいませんか」
だから、ものすごく迷った。
『はせがわるるこ』は引っ越してしまった、と伝えていいかどうか。
きっとこの人魚は、『はせがわるるこ』を心の支えにしていたことだろう。そんな相手が何も言わずに去ってしまったことを聞けば、ものすごく悲しむに決まっている。
かといって、『はせがわるるこ』が引っ越したことを知らなければ、きっとこの身動きも何も取れない人魚は、ここで永遠に彼女の心配を続けることだろう。
どっちにしたって優しくて、どっちにしたって残酷だ。
オレがずっと黙っていると、焦ったような調子で人魚は言った。
「優しいあなた。すぐさま『知らない』とお答えにならないということは、きっとあなたは『るるこ』のことを知っているのでしょう。どうしてそれを隠すのです。何か話したくない理由があるのでしょうか。それとも、何か話したくなる理由が要るのでしょうか。
それでしたら、どうでしょう。もしもあなたが『るるこ』のことを教えてくれるのなら、私のこの声を差し上げます」
一瞬、ひどくあっけにとられた。
「……え?」
「人間に語り継がれる『人魚姫』なる物語を、私も聞いたことがあります。その中で人魚の姫は、声と引き換えに足を手に入れるそうではありませんか。私は姫というほど高貴な身分ではありませんが、歌声だけはきっとそれなりのものです。もしもあなたが望むなら、それと引き換えにどうぞ私に『るるこ』のことをお教えください」
その言葉を聞いたときの気持ちを、なんて言ったらいいだろう。
ひょっとすると、それを表すための言葉は、この世になかったのかもしれない。
代わりに、ほんの小さなまばたきが作り出す本物の暗闇の中で、オレは自分の記憶を見た。
小学生のころ。初めて本気で友だちとケンカした日のこと。ぶつかりあって、本当に分かり合うってことができるってわかった日のこと。運動会でぐんぐん離れていく友だちの背中に、悔しさじゃなくて誇らしさを覚えた瞬間。
中学生のころ。ただ傷つけあうためだけの痛みもあるって知った日のこと。親友に、いじめの順番が回ってきた日のこと。折れた足。大切なものを壊されて、夢も潰されて、泣いてたあいつの顔。血が出るまで殴っても、まるで晴れなかった心。下げてほしくなかった頭を下げた、オヤジの小さくなった背中。
高校生のころ。何もかも失ってた日々のこと。何もかもなくなってた人生のこと。タバコ。酒。続きじゃなくて終わりを求めて彷徨っていた夜。ひび割れた地面みたいに乾いてたあいつの笑い顔。
音楽に出会った日。
インターネットの片隅にあった宝物をふたり、一緒に見つけて、何度も頷きあった日。
新しい夢を見つけた日。
新しい夢を、追いかけた日々。
バイトして買ったギター。
耳障りな、それでも心躍る最初のセッション。
あんなに忌まわしかった血が、指から流れ出ただけで、自分を褒めてやりたい気持ちになったこと。
地元から東京へ向かう電車で聴いていたロックミュージック。
新しく出会った、優しい人たち。
初めてのライブ。
本当の夢の始まり。
『世界って、クソなだけじゃなかったよな』って笑った、あいつの顔。
『お前と会えてよかった』って恥ずかしそうに言った、あいつの声。
夢が指先から、こぼれていく瞬間。
『————俺さ、結婚しようと思ってんだ』
「————あのう、」
「え、あ」
「ああ、よかった。声が聞こえなくなったので、立ち去られてしまったものかと」
呼びかけられなかったら、戻ってこられなかったかもしれない。
ほんの短い時間の間に、走馬灯みたいに、たくさんの記憶をオレは見た。思い出したくない場面も、忘れたくない気持ちも一緒くたにして。
「いかがでしょう」
人魚は、もう一度オレに訊いた。
「何も、声と引き換えに足をくださいと言っているわけではないのです。ただ、あなたが知っていることを私に教えてくださるだけで構わないのです。それがどんなものでも決してこの約束を破ったりはいたしません」
「でもそんなことしたらさ、」
やめろ、と思う頭と裏腹に、口は勝手に動いていた。
「あんた、もう誰とも触れ合えなくなっちまうぞ。声すら出せなかったら、もう誰もあんたに気づかない」
「私は寂しさに負けないくらいの優しさを、もう十分に受け取っているのです」
何を考えてるんだ、と声が聞こえる。
「だいたい、知ったところでどうするんだ。何もできやしないんだろう」
「何もできないからといって、心がないわけではないのです」
だってお前、さっきの歌を聴いて何も思わなかったのか? あの声さえあれば、あきらめた夢に手が届く。一生かけて叶えたかった夢。自分を救ってくれた夢。
「どうしてそんな綺麗なものを、簡単に犠牲にしてしまえるんだ」
「何か大切なものを得るためには、何か大切なものを失わなくてはなりません」
本当になりたかったものにだって。
「————ちがう」
「え?」
聞き返す声が、井戸の底から聞こえてくる。
でもオレは、人魚に向かって言ったわけじゃなかった。
「そうじゃないんだ。代償だとか犠牲だとか、そういうことじゃないんだよ。何かを失ったから何かを得たとか、何かを得たから何かを失ったとか、そうじゃない。幸せを痛みのおかげだと思うことはもちろん、痛みを幸せのせいにすることは、もっとずっとまちがってるんだ」
人魚は、何も言わない。
オレは自分で、何を言ってるんだろうと思っている。
でもきっと、堰を切ったようにあふれ出しているのは、オレ自身の言葉だった。
「幸せは幸せで、痛みは痛みなんだ。それはそれぞれ別のもので、つながったりはしていない。
最後にあきらめたくらいじゃ、幸せがきらめていていたってことは、消えやしない。なくしたものを取り戻したって、痛みがあったってことは、消えやしない。そうじゃない。そうじゃないんだ……」
そして、あふれ出した言葉は、海に届く前に尽きてしまった。
何か伝えたいことがある。人魚に、そして自分に。
何か、答えを出したいと思っている。でも、涙も、嗚咽も、言葉にはなってくれない。自分の言葉だけじゃ足りない。届かない。
「ああ。泣かないでください、優しい人」
人魚は今にも泣きそうな、それでも美しい声で、そう言った。
「あなたが意地悪で私に『るるこ』のことを教えてくれないわけではないこと、よくわかりました。そして私の言った何事かがあなたを傷つけてしまったことも。しかし、非礼を承知で言うのなら、それでも私は知りたいのです。私の友だちの行方を。その身に不運が降りかかっていないかを。
もしもあなたが私を信じられず、そのためにその口を閉ざしているというのなら、私はあなたに名を告げましょう。そうして友だちになって、秘密の打ち明け話をしていただきましょう。あなたがそれを許してくださるというのであれば、どうぞあなたから、私に名前を教えてはくださいませんか」
「オレは……」
オレは、言葉を探した。
そのあたりに転がってやしないかと。
たぶんこういうときに空を見上げられないのが、オレの積み重ねてきた弱さで、
うつむいた先に、真っ赤な服が見えたのが、聖夜の奇跡。
「オレは、サンタクロースだ」
覚悟は決まった。
「……え?」
「そのまま、そこで待っててくれ」
幸せになりたくないわけじゃない。
でも、人を傷つけたいわけでもない。
幸せになるために傷つかなくちゃいけないことも、幸せになるために傷つけなくちゃいけないこともまちがいだって、今なら言えるから。
だから、幸せになりたいけれど、ここじゃないって、決められる。
道具を探した。
必要なら原チャリを飛ばしてそのへんまでひとっぱしり、と思ったのに、すぐにそれは見つかった。
『はせがわるるこ』の、細長いプレゼント袋の中。
こんなに近くに答えがあったのに、ここまでしないと気づけなかったのかよ、ってちょっと苦笑い。
井戸の底に呼びかける。
「今から井戸の中にロープを垂らす」
「それはどういう……」
「君はそれにつかまってるだけでいいよ。オレが君を、そこから出してやる」
何かを言われる前に、原チャリにロープを結び付けて、もう片方の端を井戸に投げ入れる。かすかな水音が跳ね返ってきたのを聞いてから問いかける。
「準備はいいか?」
「握りはしましたけれど、」
「引っ張るぞ!」
空飛ぶ原チャリは、街ひとつ分のプレゼントを乗せて風を切るくらいだから、とんでもない馬力をしている。ひとりの人魚を吊り上げるくらいは、何でもないことだった。
月のような髪と、海のような瞳をそなえた女の子がひとり、井戸の外に出てきて、茫然と夜空を見上げていた。彼女がちゃんと地面にその魚の足を横たえて座ったのを見てから、原チャリを下ろしていく。
彼女はオレを、信じられない、という顔で見た。
「サンタさんは、本当にいたのですね」
「オレも今、人魚が本当にいたことに驚いているところなんだ」
「信じられません、自分があの井戸の底から出られるなんて……。私、ずっとあそこで死んでゆくものと……」
目じりにきらり、と浮かんだ涙を彼女はぬぐう。
「何かお礼を差し上げたいのですけれど、ああ、どうしましょう。この声を今のお礼に差し上げたら『るるこ』について聞くことが……」
「お礼は要らないさ」
オレは、原チャリから取り外したロープを持ち上げて言う。
「これは『はせがわるるこ』へのプレゼントだからな。『ロープ』なんてずいぶん遠回しで控えめなリクエストをくれるよな。もっとはっきり、『友だちを助けてください』って言えばよかったのさ」
人魚の女の子は、しばらくオレと、オレの手にあるロープと、それからオレの言ったことをよくかみ砕くようにして、それからはとうとう、こらえきれずに泣き出した。
ひとしきり、彼女がその喜びをかみしめるのを待ってから、オレは言う。
「さて、それじゃあ君のお待ちかねの『るるこ』のことを教えてやろう。彼女、引っ越してしまったのさ。今ごろきっと君に会いたがってる。おっと!」
彼女が自分の喉に手を当てたのを手で制する。
「お礼は要らない」
「いいえ。あなたは私を助けてくれて、その上『るるこ』についても教えてくれました。これではお礼をしないことには……」
「サンタクロースがプレゼントのためのお金をせびったりするか?」
その一言で、彼女は口をつぐんだ。
「いいんだ。幸せと痛みを同じ数にそろえようとしなくても。
サンタも、音楽も、何かを与える代わりに何かを奪うようなものじゃない。
『おくりもの』なんだから」
その言葉を口にしたとき。
ふと、自分の身体にのしかかっていた何かが、粉雪が風に舞い上がるように、消えた気がした。
「さて、夜が明ける前にいかなきゃな!」
「あの、私、お礼は要らないと言われても、一生このことは忘れません。海の王国に帰ったら、あなたのような優しい人がいたことを必ず家族や友だちに伝えましょう。あなたのような人に会えたことを、私は心の底から誇らしく、」
「何言ってるんだ、早く原チャリの……ああ、トナカイの後ろに乗ってくれないか」
彼女はぽかん、とオレを見つめた。
「え、ええと、」
「君へのプレゼントがまだ終わってないからな。ああいや、言われなくてもわかってるよ。『はせがわるるこ』に会いたいんだろ? 幸い、オレは彼女の引っ越し先を知ってる。悪いがちょっと時間はないぞ。もう十二時は過ぎてるし、このトナカイは夜明けまでに持ち主に返さなくちゃならないんだ」
彼女は、たたみかけるようなオレの言葉に目を回したあと、ようやくこんなことを言う。
「私は、これほどの優しさに報いる方法を知りません」
「要らないって」
「私はサンタクロースにプレゼントをいただけるような年ごろではありませんし」
「大人ってのは、子どもたちが想像しているよりもずっとずっと子どもの範囲を広くとってるもんさ」
「日付が変わってしまったなら、あなたがサンタクロースになる理由はありませんし」
「いいんだよ。大人なんてみんなサンタになるために生まれてきたようなものなんだ」
「ええと、それから、」
それでも何か理由を探そうとしている彼女を、無理やり原チャリの後ろに乗せてしまう。
ハンドルを握って、彼女が何か言おうとするのを遮って、こう言う。
「メリークリスマス」
冬の夜の空、星にいちばん近いところで、人魚が歌うのを聞いた。
古い夢の、美しいことを思い出しながら。