孔明の変化
合肥で孫権が満寵に撃退され、函谷関でも孔明は守備の硬い函谷関を攻めあぐねているうちに食糧不足に陥って長安へ撤退したがそのときに大きな損害を被った。
「深追いはするな、奴らは馬鹿ではない。
深追いすれば討ち取られるものが出よう」
「かしこまりました」
曹叡は伏兵による逆撃を避けるために深追いを禁じたために、王双が戦死することはなかったが、長安を含む雍州南部が蜀漢の手に落ちたのだった。
なお建安25年、延康元年(220年)の魏の建国に際して涼州と雍州の再編が行われ、それまでの涼州と雍州の名称が入れ替えられ、司隷の京兆尹、左馮翊、右扶風が雍州に併合されている。
なお董卓による長安遷都以来、洛陽の人口は激減し献帝が洛陽に戻った頃には完全に廃墟とかしていたが、鍾繇が洛陽に関中の住民を移住させ、また犯罪者・逃亡者を住まわせることにより、洛陽の人口を回復させたので、長安を含む京兆尹、左馮翊、右扶風の人口はかなり減っている。
元は夏侯淵の司馬であった雍州刺史の郭淮心身掌握は得意であったが合戦には弱い韓遂と同タイプの人間であった。
それが姜維らを蜀漢に降伏させる原因ともなったのだが、かれは隴西郡の羌族を破っていた。
「郭淮だけでは雍州を守りきれまい。
鍾毓を旧北地郡経由で向かわせ、安定を奪回させるがよかろう」
「かしこまりました」
鍾毓は鍾繇の息子で鍾会の兄である。
曹操の代から関中を任されていた鍾繇であったが流石に高齢のため前線へ出るのは難しいであろうと、曹叡はその息子を代わりに送ることにしたのである。
蜀を滅ぼした鍾会ほど有名ではないが彼も政治と軍事で活躍している人物である。
「旧北地郡経由とはまた天子は無茶を言われる。
とはいえ命令であれば従わなくてはならんか」
旧北地郡は興平元年(194年)に、後漢の支配地から除かれて放棄されている場所だが実質的にとうとできなくなっていたのはそのずっと前からであった。
そのころ魏の涼州刺史である徐邈は蜀に寝返った地域においてゲリラ戦を行い、鍾毓が雍州へ入る手助けをしていた。
曹叡がそのような行動を行っているころ、長安まで撤退した諸葛亮は再びの北伐のために兵の再編成と輸送の強化を図っていた。
孔明はもうすぐ50歳になろうとしている、80歳まで生きる人間もそれなりいるとはいえ、50歳はこの時代に老いては十分老人であり彼に残されたいる時間は決して長くなかった。
とはいえ司馬懿の年齢も孔明と変わらないが、龐統や法正といった軍師が死んでいなくなっていたことを考えれば彼の負担は大きく減っていた。
そして劉禅が成都の治安維持や長安への物資補給に趙兄弟や馬謖と共に全力を注いでいることも孔明を助けている。
「我々がここで洛陽攻略に心置きなく臨むことが出来るのも陛下のおかげですな」
「うむ、そうですな。
しかし、今後も曹叡は我が家族を人質として使って来るでしょうがどうしたものか……」
そこにやってきたのは魏延である。
「丞相、函谷関へ正面から攻めても勝てないのは今回でわかったと思う。
ゆえに、かつての高祖と別行動をして漢を勝利に導いた韓信のように、俺の部隊は本隊と別の道を通り、最終的には洛陽で落ち合う作戦を許可してほしい」
魏延の進言に孔明は考える。
「ふむ……」
そこへ司馬懿が口を挟んだ。
「函谷関は狭く大軍を用いても函谷関を落とすのは容易ではない。
故に彼の言うように別働隊を用いて洛陽を目指すのは良い手だと思うが」
そして孔明はうなずく。
「涼州方面をこちらが制圧するためにも、そのほうが良いかもしれませんな」
魏延はそれを聞いて喜んだ。
「では別働隊はお任せください」
「うむ、冬にはもう一度出陣する。
それまで準備をこたらぬようにしてほしい」
「わかりました、準備は怠らずに行いましょう」
孔明はナポレオン同様、自分が総大将として指揮をとり、何十人何百人と伝令を使って自分の指示通りに兵を動かすと無類の強さを誇ったが、他人に総大将を委任した際の勝率はあまりよくなく、自分にしかできないことしか自分ではしないが、他人に任せてよいことは積極的に他人に任せることを徹底した司馬懿とはそこに差があった。
だが司馬懿が味方になったこと、後方の劉禅によって補給が万全であることに心情の変化もあったようだ。