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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興12年(234年)
40/41

魏国崩壊と分裂

 五丈原にて皇帝である曹叡や更に曹宇・許儀・夏侯覇らも討ち取られたことが洛陽に伝わると魏の国は混乱の極みに陥った。


「まさか陛下が戦場で敗れようとは」


 曹叡は戦略的な軍事には秀でていたが、人事に関しては優柔不断なところもあって、秦朗のような特別に優れたところのない人物を寵愛したりもした。


 そういったこともあり内部の不協和音も少なからずあったが、曹叡の死によってそれが吹き出して表面化した。


 誰も曹叡が戦死するなどとは考えていなかったのだ。


「跡を継がれるのは曹詢様しかおるまいな」


 そして曹叡の子が相次いで夭折したために、親族の曹詢(そうじゅん)曹芳(そうほう)の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していたが彼等はまだ幼かった。


 それでも魏の政務を行っている陳羣は曹爽を大将軍の位につけて、曹詢の補佐をすることを命じた。


 しかし、さらある凶報が舞い込んできた。


「孫権が再び合肥に攻め寄せ、遼東の公孫淵が離反しただと。

 合肥は満寵に公孫淵は毌丘倹(かんきゅうけん)に対処させよ」


「はっ!」


「曹大将軍は至急長安へ向かってくれ」


「わかったすぐ向かおう」


 曹爽は長安を守るべく急いだが諸葛亮と司馬懿の軍に彼は破れて洛陽へ逃げ帰った。


 父の曹真ほど軍事的な才能は彼になかった上に勢いの差がありすぎた。


「彼では無理だ」


「いや彼しかいない」


 勢いに乗った諸葛亮と司馬懿はそのまま東に進み洛陽を陥落させたが、そうなった理由には曹真の子供の曹爽の派閥と曹休の息子の|曹肇《そうちょうの派閥に分かれての内輪もめもあった。


 洛陽陥落後は曹爽派は許昌へ、曹肇派は鄴へと別れて撤退したが魏国は事実上崩壊したのであった。

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