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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興8年(230年)
22/41

孫権は合肥を攻め、満寵はそれを防ぐ

 揚州方面の方面の武官の最高位にあった曹休が死ぬと、その後を継いだのは満寵で、彼は230年には征東将軍となった。


 武昌から建業に遷都をしても魏の拠点である合肥は近くにあり、孫権はここをおとすことを最優先目標としていた。


「なんとしても合肥をおとすのだ」


 そして秋には孫権が合肥に攻め寄せる気配が魏にも伝わった、満寵は兗州と豫州の軍を召集する事を曹叡に上奏した。


「うむ、構わぬ。

 兗州と豫州の軍を召集し、合肥にて呉の侵攻に備えよ」


 上層が許可されると満寵は兗州と豫州の軍を召集して合肥に兵を集中させて侵攻に備えた。


 兗州と豫州の軍であった理由はもともと彼が豫州刺史であったことや、海岸にある徐州の兵を引き抜くと船で孫権がそちらに攻めてくる可能性があったからである、


 そして冬に孫権は合肥にせめてきたが、合肥は落ちないと見て一度撤退した。


「一度撤退すると見せれれば兵を戻すであろう。

 そこを再度せめておとすぞ」


 しかし、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。


「もう孫権は撤退するというのになぜ兵をもたせたままでいるのでしょうか?」


「あれは偽装だ。

 孫権はずる賢く偽装降伏や撤退を多用するからな、あちらの兵糧はまだ尽きていないのであれば備えに当たるべきであろう」


「なるほど、そのようにお考えでございましたか」


 はたして孫権は撤退したと見せかけてから10日ほどして再び合肥に攻めよせたが、備えを怠らなかった満寵が守る合肥をおとすことは出来ずに兵糧が尽きた孫権は攻略を諦めて撤退した。


 だが、合肥城は総司令官の居城である寿春の遠く南にあり移動が大変なこと、長年の攻防の末に老朽化した事、江湖に近接した位置にあって呉の合肥城攻略の研究がされ呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くなり守りにく、孫権軍は攻略に失敗しても、致命的な損害を与えられず度々背Mられる原因であることなどの様々な欠点が露呈していた。


 それを元に満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。


 これに対して蒋済はこれを”領土を後退させ、味方の士気を削ぐ”と反対したが、満寵はそれよりもり実際の防衛の方が大事だとして新城建築を重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。


「なるほどわかった合肥新城に築城を許可する。

 兗州と豫州の軍兵を用いて早急に完成させよ」


 そして合肥新城の建築は曹叡に受諾され早速築城がはじまった。


 そして、この合肥新城の攻略は呉にとって至難の技となる。


 合肥城の場合は江湖を用いた水路から水軍を用いて一気に攻める事が可能だったが、合肥新城の場合は陸に上がって進まねばならず、それにより後背に回られて退路を絶たれる心配が常につきまとうようになり、元々兵力的には魏との格差は歴然であったこともあり、合肥新城の完成後に後孫権は合肥新城を何度か攻めるものの思いきった長期攻撃はさけるようになるのであった。

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