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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興8年(230年)
21/41

魏の鍾繇が死去し、曹叡は蜀を攻撃させ、諸葛亮は漢中に実質拠点を移す

 4月に魏の太傅の鍾繇が80歳で死去し、曹叡は国葬を執り行って、諡号を成侯と定めた。


 鍾繇は祖父曹操以来の功臣で太傅としての公正さを曹叡は高く評価しており、その爵位は嫡子の鍾毓が継いだ。


「うむ、長い間の努め苦労であった。

 この上は安らかに眠るが良い」


 その上で曹叡は7月に曹真や夏侯覇、鄧艾らに命じて蜀に兵を進めた。


 これは前年などの北伐で漢の兵糧などが尽きているであろうという判断のもとの出兵であったしその予測は大きく外れてはいなかった。


「漢中を落とせば蜀を滅ぼすのは容易かろう」


「かしこまりました、必ずや漢中を落としてご覧に入れましょう」


 この頃、楊儀は諸葛亮に対し九錫と漢中王につくことを勧めているが、諸葛亮は旧都の回復ができていないことと、曹叡を殺せずにいることを理由にこれを断った。


「今はその時ではない」


 楊儀の真意がどのあたりにあったかはわからないが、実質的な蜀漢トップは諸葛亮であると考えるものは実際多かった。


 そしてこの年、諸葛亮は漢中の道路網や橋梁の整備を進め、定軍山を利用した漢城という巨大な城郭を築いて、そこに丞相府を移し、城固にもまた楽城という城を築き、漢中の防衛拠点を整備した。


 諸葛亮は漢中から北進して雍州の長安などを制圧しても維持することは難しいことを身にしみて理解しており、特に糧食の補給が難点であって、この後の北伐でも兵站に苦慮することになる。


 そのために漢中の二城の整備を行い、敵を迎え撃って疲弊させ、損害を与える方針にかじを切ったのである。


 現状漢中を守るのは諸葛亮と司馬懿である。


「では頼みますぞ仲達」


「うむ任せておけ孔明。

 我が親族などはいないようだし問題にはなるまい」


 諸葛亮は自ら楽城に入り、漢城は司馬懿に任せた。


 曹真は自ら子午道に入り楽城を攻撃、鄧艾が荊州より漢水を遡り楽城にむかい、夏侯覇は儻駱道を南下して漢城を目指した。


 こういった大規模で多方面からの同時攻撃を行った曹真の南征であったが、9月に大雨が降り続いて伊水・洛水・黄河・漢水が氾濫したため、曹叡は曹真らに軍の撤退を命じ、曹真は漢中から兵を引いた。


 「ふむ、天に助けられましたな」


「これは我々に天が味方してると言えましょう」


 諸葛亮と司馬懿はそう言って笑い、曹叡はため息を付いた。


「まさか長雨に阻まれるとはな。

 まあよい、漢中を攻略する道筋は見えた。

 とはいえそのためにも武都を取り返さねばならぬがな」


 曹真の南征は失敗に終わったが大きな損害を受けたわけではないので曹叡にはまだ余裕もあった。

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