劉禅は良い機会と孔明に教えを受ける
孔明が成都でいろいろ動いているうちにと劉禅は諸葛亮の元を訪れた。
「相父、急に訪ねてもうわけない。
だがこの機会に朕にまたいろいろと教えてほしいのだ。
無論、空いている時間にで構わぬし、馬(謖)幼常や姜(維)伯約などと共にでな。
そうすれば結果として相父の負担も少しは軽くなろう」
「それは大変素晴らしきお考えでございます。
臣のお教えできることは可能な限りお教えいたしましょう」
史実における劉禅の生年は建安12年(207年)で、没年は泰始7年(271年)彼は64歳まで生きているわけだが、これは政務を諸葛亮を始め「蜀の四相」と称された蔣琬、費褘、董允に丸投げしていたというのも大きいだろう、そして彼らが活躍していた間は蜀漢では大きな乱も起きなかったし、即位した直後で自身がの帝位を諸葛亮に簒奪される危険性も十分にあるのに、諸葛亮を全幅的に信頼して在位中は内政の全権を預けて、自身を遥かに上回る部下の有能さを認め、それを信じてきっちり政務を任せたのは、もっと評価すべきであろう。
呉では孫権の横暴など独裁政治もあり、謀反や反乱が度々起こっているのだから。
とは言え、最終的には黄皓の台頭を許し、軍部の実権を握った姜維の無謀な北伐を諌められなかったことで蜀は大きく衰退して、魏に降伏することとなるわけであるが、劉禅は政治や軍事を家臣に丸投げしていたことでストレスが少なかったことが長生きできた理由でもあるだろう。
そして蜀滅亡の後、劉禅はその身柄を洛陽へと移されたが、その際に司馬昭が宴席を設けて蜀将をもてなしたが、蜀の楽曲を流すと蜀将が涙する中劉禅のみが笑っていたといい、さらに司馬昭が「こうして蜀風の歓待を受けると蜀を思い起こすであろうな」と尋ねたところ 「ここでの暮らしは安楽なので、蜀を思い出すことはもはやない」と答えたといい、こうした劉禅の反応から周囲を唖然とさせ、司馬昭は彼に従った蜀将を哀れんだという。
だが、かつて曹操が劉備に対し、
「劉備殿、この世で真に英雄と呼べるのは、たった二人しかおらん、一人は、この儂で、もう一人は君だ!」
といった時に、劉備は持っていた箸を落とし、直後に雷の轟音が鳴り響いたときに劉備はとっさに机の下に隠れてガタガタと震え、
「とんだ所をお見せしました、私は雷は苦手なのです。」
と劉備が震えながら、そう弁解したので曹操は大笑いしたように、そもそも降伏した相手先の魏国の宴席で、元蜀の皇帝がうかつな発言をしたならば即刻着られていた可能性も高かったであろうし、わざと笑われるように仕向けて自分たちが危害を加えられないようにした可能性もある。
その後、家臣に
「あのような質問には『先祖の墳墓もある西の国を思い悲しまない日はありません』とお答えください」
と諌められると、司馬昭は同じ質問を繰り返し、劉禅は家臣に言われた通りの答えを返し、周囲はその発言に大笑いをしたわけだが、この時に発言で劉禅が有能で野心があると思われたらどうなっただろうか?
おそらくその場にいたもの元職の関係者は殺されていたと思うのだ。
日本の戦国時代でも今川氏真や足利義昭などは結局生きながらえていて、彼らは一般的には馬鹿にされているが家を滅ぼすよりはまともな選択をしているとも言えよう。
ちなみに司馬昭はそんな劉禅の様子を見て、
「まったく、こんな愚鈍な男が君主だったのでは、たとえ孔明が存命していたとしても、結局は蜀は滅亡を免れ得なかっただろう」
と言っているが、そもそも国力の問題で孔明が仮にもっと長生きしたとしても、軍事政治の天才である、曹叡が生きている限りはその状況をひっくり返すのは、ほとんど不可能であっただろう。
しかし、劉禅が、楊儀や趙兄弟、馬謖、姜維などと共に成都の治安維持や補給線の確立、交易などによる財源の確保などをまともにやってくれれば、孔明としても北伐に全力を注げるわけで、更に軍事でも一人で全てやらなくてはならぬのではなく司馬懿という有能な攻撃的指揮官がいる状況はかなり良いとも言える。
孫権との外交などに関して言えばこれは蜀が他国よりもかなり国力で劣る状態では譲歩も仕方がない。
そういった状況を理解せず語を討伐せよと感情だけで動こうとする人物が多くとも、劉禅がそれに同調しなかったのは諸葛亮には非常に助かったのも事実である。
とは言え、曹叡の頭脳と嫌がらせにより函谷関で敗退し、最終的には長安も奪回されてしまったのは諸葛亮の立場を微妙なものにしているのも事実である。
「きっと先帝もお喜びでございましょう」
「うむ、そうであると良いな」
諸葛亮が帝位の簒奪を行わないのは、先帝劉備に自分が引き立てられている恩というものもあるが、あくまでも劉備や劉禅は漢の皇帝一族である劉氏でありそれが蜀漢の建国の大義名分となってるからであった。
諸葛亮が皇帝の地位を簒奪したとしても多くのものはついてこない、であればこそ劉禅の信頼は諸葛亮には大変ありがたいことでもあったのだ。
後継者争いで大変な苦労をした曹丕や帝位につくまでは冷遇されていた曹叡と違い、そういったことと無縁であった劉禅のおおらかさは賢英帝と呼ばれるにふさわしいものであったのだ。




