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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興6年(228年)
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序章その2 呉の初代皇帝孫権という男

 建興6年(228年)三国鼎立の一角をなす呉の孫権に目を向けてみよう。


 三国時代の孫権、字を仲謀。呉の初代皇帝である。


 彼が生まれたのは光和5年(182年)父である孫堅が下邳の県丞であった時に彼は生まれた。


 光和7年(184年)に起きた黄巾の乱の鎮圧で、朱儁の下で孫堅は功績を上げたが、その間は母や兄弟である孫策と共に周瑜の屋敷でそだった。


初平2年(191年)孫堅は劉表の配下である黄祖の部下に射殺されたため、その後の初平4年(193年)兄の孫策は袁術の旗下に入って江東で挙兵、孫権は常に兄に随従した。


しかし建安5年(200年)孫策は曹操の主力が北の袁紹に向かっている隙を狙い、曹操の本拠である許の攻略を計画したが、暗殺された。


 それにより孫権は、19歳で孫策の後継者となる。


 孫権は兄である孫策の遺言に従い、張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・程普・呂範らをまとめあげると共に、積極的な人材登用を行い魯粛・陸遜・諸葛瑾・歩騭・顧雍・是儀・厳畯・呂岱・徐盛・朱桓・駱統らを登用した。


 この時、廬江太守の李術が離反したが、孫権はあっさりそれを鎮圧しており、孫策の死によるおおきな動揺は起きなかった。


 その後父の仇である黄祖を討伐したが、揚州の非漢民族である山越の反乱に長い間悩まされることになる。


建安13年(208年)黄祖を討ち取り江夏郡の南部を得たが、河北を制圧した曹操が大軍を率いて南下すると、荊州の劉琮は降伏し、孫権も抗戦か降伏かの決断を迫られた。


 あくまでも豪族の集合体でしかない軍閥でしかない後の群臣は、降伏派が多勢を占めたが、周瑜と魯粛を中心とした抗戦派の意見を取り入れて曹操と戦うことを決断した。


 孫権は劉備と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操軍を撤退させた。


 赤壁の戦いの後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史に立て、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を制圧。


 孫権は南郡などの北部を制圧し、劉琦の死去の後は劉備自ら荊州牧となった。


 孫権は妹を劉備に嫁がせた、劉備と孫権は荊州の領有権について話し合った結果、引き続き劉備と協調して曹操に対することになったが、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与え、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなったが、益州を手に入れたらそれは孫権のものとなる予定であった。


 建安15年(210年)には交州の士燮を服属させ、呉巨を謀殺し、交州を手に入れている。


 その後は攻め寄せてくる曹操の軍を濡須口にて何度も撃退し、合肥を攻めては撃退されるということを繰り返したが、劉備が益州刺史の劉璋を攻めて益州を領有すると、孫権は荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求したが、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして領地返還に応じなかった。


 孫権は呂蒙らの軍勢を派遣して長沙・桂陽・零陵を制圧し、劉備も大軍を送り込み全面戦争に発展しそうになったが、この時曹操が漢中に侵攻したので、劉備は長沙・桂陽を返還して孫権と和解し、表向きは同盟関係が回復した。


 しかし、建安24年(219年)荊州の守備を任されていた関羽に対し、孫権は呂蒙・陸遜を率いて関羽を捕らえ、その首を打った。


 荊州の奪取と関羽の処刑により劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近し、後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認して、諸侯の礼をとって服従し呉王に封ぜられた。


 曹丕に臣従したことで北方の安全を確保した孫権は、黄初3年(222年)の夷陵の戦いで劉備率いる蜀漢軍を打ち破って、荊州の領有を確実にし、劉備と再び和解した。


 これによって、魏・呉・蜀の三国の領域がほぼ確定し、三国時代がはじまった。


 蜀漢を破り荊州を確保したうえで和睦した孫権は、魏との同盟を破棄し、その後は魏及びそれを簒奪した晋と長きに渡って争うことになる。


 そして黄武7年(228年)石亭の戦いにて陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い大勝した。


 この頃までの孫権は単純な戦の強さでは父の孫権や兄の孫策におとっていたが、それを補って余りある外交や謀略の才能によって、呉の勢力を拡大し、彼の権力を確実なものとした。


 これだけ見ると有能で冷徹なリーダーであるように見えるが実際の孫権はこれまでの時点でもかなりの問題児であり、孫権はとんでもない行動をしでかしては、張昭などの家臣に諌められ、反省するがその後お前が言うなと思われるような行動を行うことを繰り返している。


 そして彼が首都を武昌から建業へ移し、呉の皇帝として即位した後は完全に暴君と化してしまうのである。

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