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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興8年(230年)
18/41

孫権は夷州と亶州の人を呉へ連行しようとする

 魏呉蜀の各国が北伐と孫権の皇帝即位などに対応しているうちに、年は変わり建興8年(230年)となった。


 魏と蜀漢は雍州を巡って小競り合いは起きていたが大きな軍を動かすには至っていない。


 蜀に関して言えば動きたくとも動けないというのが実情であった。


「やはり魏よりも呉を先に討伐するべきではないか」


 そういった声がいまだにくすぶっていることと、一度手に入れた長安を結局失ったことで、兵站に関しての見直しを迫られているためである。


 そして181年生まれの諸葛亮はもう50歳が目の前であり、焦りを感じずにはいられないところであるのだが、劉禅や司馬懿の存在が彼の負担を減じていたのも事実であった。


 国力では蜀・呉・さらには遼東の公孫淵を加えたとしても圧倒的にまさる魏ではあるが、長安が一度陥落した影響は大きくこちらも大規模な軍事行動を行うことができる状況ではなかった。


 その頃呉の孫権は衛温と諸葛直に武装兵1万を率いさせ、夷州(いしゅう)亶州(せんしゅう)へ向かわせた上で、現地の調査と現地民の捕獲を行なう事を計画した。


 これに対しては陸遜と全琮が反対し、陸遜は孫権に対し、


「遠くの地を侵略・統治することで、天下統一への足掛かりにしようとされてるのかもしれませんが、どんな考え方をしても今回の侵略・統治計画に全く利点を見出せません」


 と言っているが孫権はそれをまるっと無視して計画を実行させており、独裁者の暴君としての顔が見えつつあった。


 なお、諸葛直は諸葛瑾の一族とはまた別の諸葛一族らしいが名字が同じでも同じ一族とは限らないのがややこしいところではある。。


 夷州は台湾のことで、呉の領域からは高台に登れば台湾が見える日がごくたまにあり、冬には雪山となる部分もあるのもわかっていたようだ。


 少なくとも海の向こうに比較的大きな陸地があるということを孫権は知っていた。

 

 亶州は、秦の始皇帝の時に徐福が上書した『海中に蓬莱、方丈、瀛洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った場所で亶州は徐州の琅邪を去ること万里というという場所にあると言われ、これはおそらく日本であると思われ、これの実在は怪しまれていたようだが、日本海側では交易が行われていたようである。


 衛溫と諸葛直は西風の時に帆をもった大型の帆船船団で風に乗って、兵一万と共に東に向かったのである。

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